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第十話 侵食

美波みなみ奏海かなみは手をつないだまま、満月が織り成す見事な月の道を前に佇んでいた。

「美波。いつまでここにいても何も変わりません。とにかく今日だけは私の家でゆっくり寝ましょう」

奏海が少しだけ手を引く。そうすると、何も答えないのだが、美波の手にぎゅっと力が入った。示した合わせたわけでなく、二人はゆっくりと波に向かって歩いて行く。闇の海からは、波が押し寄せては浜の砂をさらう音だけが聞こえてくる。

正直なところ、少し不安だった。捨て台詞を吐いて家を飛び出し、今日は友達の家で泊まるとメールを送ったものの、陸の人間はおそらく到達したことのない海の国に若干の恐怖を抱いていた。わずかな恐ろしさで済むのは、今の美波にとって奏海の手が何よりも温かいから。握ると、心の奥底からほんのりと熱が放たれるような安らかな気持ちになれる。

「安心してください。怖くないですから。でも泳ぎにくいので靴は脱いでください」

「ねえ奏海。私、鎌倉に戻ってこれるよね……?」

「大丈夫ですよ。私が責任を持ちます。それじゃあ、行きましょう」

奏海はためらう美波を少し強引に引っ張り海へと歩いて行く。そのまま、少しだけ手に力を込めると、お互いの首にかけた勾玉がふんわりと柔らかい光を帯び始めた。


一歩、また一歩。水が足首を濡らし、また一歩。夜の人気のない海岸は二人だけを迎え入れようと、一層静寂へと沈み込む。奏海の胸元では漆黒の勾玉が、少しの紫色を帯びた黒の光を放っている。この世に存在していいのかさえ分からない黒色に光る発光体。美波の心の中で、僅かだが、それを禍々しく思う気持ちが生じて来ていた。

それとは反対に、美波の月白の勾玉は海底の起伏さえもわかるほどに強い光を有している。青にも見える白色は熾火おきびのように、まるで鼓動のように、強弱を繰り返しながらその存在を主張している。

気がつくと水面は二人の胸よりも高い位置に、波の周期に合わせて口の付近まで定期的に水に浸される。美波は、夜の海に入ることさえ抵抗があったが、その上、服を着たまま水に入る恐怖が少しずつ心の表面に染み出してきた。

「ねえ奏海、ちょっと待って! これ以上進んだら足が届かない!」

「勾玉を信用してください。それなら一旦ここで顔をつけて見たらどうですか?」

服のまま海に潜ることに抵抗があったが、まだ溺れる深さではないので奏海を信じてみることにした。

ちゃぽん。海水浴に来た時よりも水の中の音が鮮明に聞こえる。砂の粒同士がこすれる音や、波に揉まれた泡が弾ける音まで聞き取れそうなほどに。それに……海水が塩辛くない。と言うより、そこに水さえもないような不思議な感覚。波は風のように肌にぶつかり、潮は微かな香りを持って鼻に誘い込まれる。束ねていない髪が舞い踊る中、美波は恐る恐る目を開けた。

勾玉の光で辺りがよく見える。いや、それだけではない。ゴーグルをかけた時とは比べ物にならないほど鮮やかな景色。底に転がる小さな石も、遠くを泳ぐ小魚も、全てが陸で目を開けた時と同じように見える。

「どうですか? これが海の世界、勾玉の力です」

「思ってたのと違う。……って溺れる!」

「慌てなくてちゃダメですよ。ほら、鼻から大きく吸ってみてください」

ね? 大丈夫、と美波の顔を下から覗き込みながら尋ねた。勾玉があれば、海の中と陸は何も変わらない。唯一違うことといえば、三次元的に動ける、といったところくらいだろう。

「それじゃあ、迷子にならないようにしっかりついて来てくださいね」

奏海は背中に風呂敷を結びつけ、ゆったりと水を蹴った。もともと泳ぎは得意だった美波でも信じられないほどの速さで、奏海はぐんぐん潜っていく。

「速すぎました? 海の中で手を使うと、どうしても漕ぎ直す時に抵抗を受けちゃうので、足だけのほうが速く進めますよ」

美波は、あまり柔らかくない体を精一杯うねらせながら奏海に食らいつくように追いかけた。イルカのように滑らかに泳ぐ奏海。その先にはすでに街明かりが見えていた。


門の代わりに鮮やかな赤に塗られた鳥居。そこから玄関へと続く石畳。瓦が規則正しく敷き詰められた重厚な屋根を有するその家はまるで神社か寺のように見えた。奥の方には離れのような建物も見える。先程から見てきた家とは少し違う外観から漂う不思議な雰囲気を前に奏海は立ち尽くしていた。

「本当に……帰ってこれた……」

嵐の前の静けさ、よりもっと静かな道中だった。ずっと不安だった海兵隊とは結局遭遇せず、まるで何かに誘導されているかのようにすんなりと家まで辿り着けた。

久しぶりに家族に会ってきなよ、と美波に背中を押されて引き戸に手をかける。ゆっくりと、その感触を確かめるように。素直に開いた扉のその奥は妙な静寂に包まれていた。

「それじゃお母さんとお父さんと弟に会ってきます」

「じゃ、ここで待ってるね。久しぶりなんだからゆっくり話して来ていいよ」

手を振って奏海を送り出した後、美波は小さくため息をついた。首にかかった勾玉を手のひらに乗せてもう一息。ここ最近の出来事が、あまりにも一瞬に起こったように感じる。投げやりになって家を飛び出し、恐怖を感じながらも海の世界にやってきた。美波は自分に問を投げかけていた。なぜ自分がこんなにも悲しい現実に向き合わなければならないのか。同級生は何の心配事もなく、今も家族団欒の中、もしくは愛に包まれながら眠っているというのに。帰りたい。でも帰る場所がない。大人はこんなにも身勝手で。でも奏海だけは美波の味方で、いつもどんな辛い時でも寄り添ってくれる。奏海も美波もいつか必ず大人になる。親戚みたいな大人になってしまうのかもしれない。美波は不安で、不安で仕方なかった。今すぐにでも奏海の細い腕に飛び込みたい、身を絞られるような苦しみを誰かと分かち合いたかった。


美波が奏海の悲鳴を聞いたのは、それからすぐの事だった。

「奏海! どうしたの!?」

家の中からは奏海の泣き叫ぶような声だけが聞こえる。とっさの判断で美波は玄関を勢い良く開けて中に駆けつけた。奏海に教えてもらった泳ぎ方も無視して、声のする方へ向かって必死で泳いだ。

細い廊下に沿って泳ぐと、一つの小さな部屋にたどり着いた。異様な雰囲気の漂うその部屋の真ん中で、奏海は手を床につきながら背中を震わせている。

「奏海? どうしたの…………。……いやっ!」

美波は見てしまった。部屋の隅に、まるでガラクタのように積まれた三人の死体を。ずたずたに引き裂かれたそれは、死ぬときの苦しみがひしひしと伝わってくるようなそんな表情をしていた。

「あはっ! きゃはははは!」

「え?」

「あはははは! こんなのって! こんなの夢ですよね! ね! 美波! こんなの、こんなの! きゃはははははは!」

「……早く! 早く出よう!」

三人の死体を見ないように、奏海の目を押さえて急いで家からかけ出した。途中、死体に背中を引かれているように、体中の血液が一箇所へと吸い寄せられていくように感じた。自然死ではないその姿に、美波は気を失いそうになるほどのショックを受けた。頭から血が引いていくような感覚に襲われくらっと倒れかけたが、ここに留まっていてはいけない、と本能的に感じ必死で泳いだ。


家の外、再び静寂。家の中で何が起こっていようと、同じ水の中にも関わらず、周囲はそのことに無関係のように凪いでいる。

美波は、黙って奏海の後頭部を撫で続けている。奏海を襲った衝撃の、あまりの大きさに涙が出る隙すらなかった。

「あいつです……」

「何のこと……?」

「私の家族を殺したのは竜渦りゅうかです」

美波は身が震える思いで、ビクビクしながら「どうして?」と聞いてみた。二人が座る鳥居の下には熱帯魚がちらほらと集まって、二人以外の気配がない静かな空間であることを一層強調しているようだ。

「きっと私が竜渦を邪魔したから……。みおに死んでほしくないからって抵抗して……。それで結局、澪も、私の家族も殺されちゃって……」

鶴子をなくしたばかりの美波には、身近な人が二度と会えない存在になってしまう悲しみを十二分に理解できた。奏海の喘ぐような呼吸と、海に溶けこむ涙。奏海は、ひと夏に大切な人を四人もなくしてしまった。この世界の全てを拒絶したくなるほどに、まるで自分がこの世から否定されたように、これからの人生に絶望しか見出すことができなかった。


居場所を失った二人は、奏海の家の離れで倒れこむように眠りに落ちた。あたりが完全な闇に包まれた頃、奏海は美波を起こさないように、そっと布団から出て行った。そのまま家を出て向かう先、奏海の前方にはすでに街の外れの海溝が見えてきている。眠る美波の頭上付近の壁には勾玉にまつわる伝説が図解された絵巻物が、美波もまだ知らない事実をしっかり記されていた。


第十話「侵食」


おわり





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