新聞各紙のゲルニカ報道
「ふわぁぁあああぁぁ……ううう……んんんっ おっ」
かけぶとんをはねとばそうと何度か試みて、ようやく姉は寝袋であることに気付いた。ちゃんと目覚めるまで、あと数分はかかる。だいたい、姉は朝に弱かった。
僕は2時間早く目をさまし、昨日ブルゴスの商店街で買った大工道具を使って、ふたつに斬られたオーク板を修理・改造していた。
「おふぁよー、サンチョ」
ペリーヌさんに貸してもらった修道士のトゥニカをすっぽりはおり、腰紐はゆわえず、どこかしらモジモジしている姉。
「トイレってどっち?出て左?ありがと」
言うなり急ぎ足で部屋を出て行った。この部屋のある一角には僕たちしかいないとあって、すっかり油断している。
だれもが朝起きて最初にやることをすませて戻ってきた姉に、ぼくはオーク板を修理したことを告げた。ついでに改良して新機能を加えたことも。
「蝶番で折りたためるようにしたんだ。持ち運びが便利になるわね。強度は大丈夫かしら?真っぷたつになったものをなんとかつなげたんだから、ぜいたく言っちゃいけない?それもそうね」
と姉も納得してくれた。
「へえ~、手がかり足がかりを付けて、脚立やハシゴとしても使えるように改造したんだ。やるじゃん!あんた本当、こういうの得意よね。頼りになるわ~」
はたして、ハシゴが必要になるようなことが、この先あるのかどうかわからなかったが、備えあればなんとやらだ。
「おはよう。よく眠れた?朝食と三日分の新聞を持ってきたわよ」
と言ってペリーヌさんが現れた。朝食はチェロスとコーヒーだけ。修道院の朝食とは質素でなければならぬ、という強迫観念があったわけではない。内戦中はどこの都市でも食品が不足していた(昨夜食べたクルミパンも、ずいぶん長い行列に並んだすえにやっと買った)。姉と僕は食事しながら新聞を読みふけった。マナーのわるさには目をつぶってほしい。とにかく情報がほしかったのだ。
〝バスク人たちにとって最古の町・ゲルニカ。その中心部は、昨日の午後、空襲機によって完全に破壊された。前線から遠く離れた無警戒な町への爆撃は正確に3時間15分間つづいた。爆撃に使用されたのは3種類のドイツ機。ユンカース型とハインケル型の爆撃機とハインケル型戦闘機からなるこの強力な編隊は、一〇〇〇ポンドの爆弾と2ポンドのアルミニウム爆弾を三千個、休みなく投下し続けた〟
……これは、外国人記者のジョージ・スティアがタイムス誌に発表した歴史に残るスクープだが、残念ながら国内にいた僕たちの目にふれることはなかった。隣国フランスでさえ共和国寄りの報道をした新聞社は2社だった。すでに大勢が反乱軍派に傾いていたスペイン国内で、僕たちが入手できた情報は限られたものだった。つまり、人民戦線と反乱軍のそれぞれがラジオで行った声明を、文字起こししただけの記事である。だが、その程度の新聞さえ滞りなく読めるというのは内戦下にあるスペインでは奇跡的なことだった。
〝バスク自治政府はゲルニカが反乱軍による空襲を受け、非戦闘員である一般市民が被害を受けたと発表した。死者は千五百人以上、負傷者は三千人におよんでいると主張している〟
ゲルニカが空襲を受けたことは間違いないが、この発表の数字は国際社会の同情を買うために誇張していたことが後に判明した。ただし、実際に現場で惨劇を見た僕たちは、体感ではそれ以上のすさまじい虐殺だったと思っていたので、この声明にはなんら疑問をいだかなかった。
〝一方、フランコ軍の司令部はこの発表をデマだと非難した上で、バスク人が自ら町にガソリンをまいて火を放ち、焦土作戦に出たものであり、4月26日にはいかなる飛行機も出撃していないと主張した〟
「…これで犯人がどちらかはわかったね。あたしたち爆撃機みたもんね、サンチョ」
と姉。さらに、いらだちを隠さずつぶやいた。
「フランコのうそつき。でも、町が焼けた事実は隠せないと判断したのね」
そう。反乱軍側は説明にガソリンを持ち出さねばならなかった。何時間も燃え続ける異常な火災と、その火災が巻き起こした突風による破壊の痕跡。それはゲルニカで何か異常なことが起きた証拠だった。ジョージ・スティアの記事にある2ポンドのアルミニウム爆弾。これがその、異常な火災を引き起こした焼夷弾という新型爆弾のことだ。
〝なお、ゲルニカ近辺で反乱軍の一小隊が壊滅したという未確認の情報もある。ゲルニカを脱出したキホーテ家の子孫のしわざという負傷兵の証言もある。〟
小さく僕たちに触れられていた。いい迷惑だ。
〝反乱軍は消えたキホーテ12世の行方を追っているという噂である。なお、フランコ軍司令部の広報は、この件について回答を拒否した。
人民戦線のコメント『それが事実なら彼女こそ我々の救世主。スペインのジャンヌ・ダルクだ。我々は彼女を探している。ぜひ、幹部待遇で迎えたい』〟
……なんということだ。なんということだ。姉はもちろん、しいて言えば僕も、反乱軍には否定的だった。おそらくバスク人のほとんどがそうだった。なぜなら僕たち姉弟はバスク人とのハーフ……生まれたときからゲルニカにいたので精神的には生粋のバスク人だったからだ。もう少し説明が必要だって?ではひと言だけ。反乱軍はカスティーリャ人が中心だったのだ。
しかし、人民戦線の一員として戦うつもりはまったくなかった。
姉も僕も、生きたかったのだ。劣勢が明らかな人民戦線がかつぐ御輿に乗るのはまっぴらごめんだった。なにがジャンヌ・ダルクだ。彼女が最後に悲劇的な結末を迎えるのを知ってて言っているのだろうか?
ペリーヌさんは生暖かい目で言った。
「……両方の陣営から追われてるのね。ふたまたかけるのはよくないわ」
「どっちもお断わりよ!あたしたちは平穏に暮らしたいだけだっての!」
「反乱軍を半殺しにするからいけないのよ。反乱軍に助けを求めてモロッコに送ってもらえばすんだことでしょ」
これに、姉は少し考えて答えた。
「……フランコはナチスと手を組んでるもん。ナチスが民族浄化をうったえてるのは知ってるでしょ」
ペリーヌさんの顔が真面目になった。
「……ナチスがユダヤ人を迫害してるように、反乱軍がバスク人を迫害するだろうってこと?」
「反乱軍の兵士が保護したバスク人の女と子供をどう扱うか、楽観できる材料は何もないと思う」
これは僕の直感だが、姉の頭からは〝反乱軍に保護をお願いする〟という選択肢がすっぽり抜け落ちていたのではないかと思う。ナチスを持ち出したのはそれを悟られないための言いわけのように聞こえた。なぜなら、ナチスのユダヤ人冷遇はたしかに始まっていたものの、大量虐殺は1937年4月の時点では行われていなかったからだ(とはいえ、姉は間違っていなかった。フランコはスペイン内戦終結後もバスク人を迫害し続けたのである)。
ペリーヌさんは言った。
「……あまり長居はできないわよ。ブルゴスはもう反乱軍の支配下。ここが見つかるのも時間の問題だわ。これ、紹介状ね。セゴビヤに向かうといいわ。懇意にしていただいている司祭様がいらっしゃるの」
「ありがとう、ペリーヌ。なにからなにまで」
……と姉がペリーヌさんの手を握ろうとした、そのとき!けたたましい音とともにドアが開き、反乱軍の兵士が数名、なだれこんできたのだった。
「キホーテ12世だな?我々といっしょに来てもらおうか!」