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ゲルニカの郷姫ドーニャ・キホーテの聡明なる冒険  作者: 桝田道也
第1章 ゲルニカ
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旅立ちの朝

 キホーテ流の伝承者として厳しい修行によって鍛え上げられた引き締まった肉体。スペイン北部の女性にしては日に焼けた小麦色の肌。割れた腹筋と固そうな小ぶりの乳房。僕は12歳の健康的な男子らしい観察眼を発揮した。そしてドギマギしながらも毅然とした口調で問い詰めた(多くの弟がそうであるように姉という絶対権力者への畏怖は劣情を萎縮させるのだ)。


 こんなときに、なぜ重くて邪魔なだけの全身鎧を着ていく必要があるのか。姉の言い分はこうだった。

「どこへ行くにしたってお金は必要でしょ。うちで価値のあるものなんて、これくらいしかないから。うまくブルゴスまで逃げられたら、そこで売って旅費の足しにしようと思って」


 姉は全身鎧は暑いからとショーツとブラジャーの上に直で鋼鉄の鎧を着ようとした。僕は、そんな着方では固い金属との摩擦で全身にマメができて地獄を見るぞと押しとどめた。しぶる姉に長袖のシャツと長パンツをはかせて、それからガントレットだの尻当てだのを装着するのを手伝った。説明しておくと、フル・プレート・アーマーを一人で着ることはできない。初代キホーテのみならず、あらゆる遍歴の騎士が従者を必要としたのは、そのためだ。姉は体を動かすことにかけては天才だったが、道具の手入れや整理整頓・鎧の装着といったこまごましたことは大の苦手だった。


 装着を終えると僕と姉は荷物をまとめて愛馬・ロシナンテに乗り込んだ。初代キホーテの愛馬・ロシナンテはやせ馬だったか、馬の性能は現在のキホーテ流の心臓であるので、ここだけは父もお金をかけていた。長旅にも耐えられる、そんじょそこらの馬には引けをとらない名馬だ。僕は鎧なんかより、ロシナンテの方がよっぽど売ればお金になると思ったが、姉にはロシナンテを売るという発想がなかったのだろう。


 破壊された我が家に別れを告げて僕らは出発した。この家での最後の睡眠が星空を眺めながらだったのは、思い出したくない良い思い出だ。


 家の周囲も爆撃の痕跡が生々しく残っていた。そして死体も。

「ホアン!おまん、その格好はどぎゃんしたったい?」

後ろからバスク語が飛んできた。町の古老のマラドーナ爺さんだ。死に損ねたらしい。

「マラドーナじっちゃ、わたっじゃが」

とバスク語で答える姉(文章では単なる方言のように見えるだろうが、これは読者諸氏のための配慮であり、ここでマラドーナ老と姉は、スペイン語とはまったくことなる言語で会話している。このことは頭の片隅に覚えておいていただきたい)。

「あげー、ガラちゃんね?なんごっちゃしとっと?こげんときに……」

いぶかしがるマラドーナ爺さんだったか、なにか思い当たったらしく破顔一笑して言った。

「わかったど!ジャンヌ・ダルクのマネで町の男ン衆を勇気づけよーち、わけじゃね!うんがうんが、そいはよか考えたい」

そんなつもりは毛ほどもなかったが、この町から逃げ出すのだと真実を述べて老人を落胆させる必要はない。

「男ン衆は町の南端でバリケードやら塹壕やらを作っちょる所じゃっど。行ってはげましてやっちくり!」


 僕らとしても南から町の外へたかった。目指すモロッコはスペインの南、ジブラルタル海峡を挟んで向こう側、アフリカの北部にあるのだから。しかし、爆撃したのがフランコ将軍ひきいる反乱軍であるならば、彼らの地上部隊は南から来る線が濃厚だった。だからこそ、町の南にバリケードを築いて防ごうというのだろう。だから、僕たちが南から町の外へ出たら反乱軍の部隊と鉢合わせする可能性が極めて高いと思われた。正気の沙汰じゃない。しかし姉は自信をたっぷりにロシナンテの鼻先を南に向けたので、僕は何か考えがあるのだろうと思ってだまっていた。


 爆撃で地面にあいた大きな穴を跳び越えながら進む僕らを見て、死体を片付けていたペドロさんが声をかけてきた。

「おいキホーテ!まさかその鎧で戦車や装甲車と戦おうってんじゃねえだろうな?」

やはり父と間違えている。

「あたしです!ガラです、ペドロさん」

兜のフェイス・プレートを少し上げて姉が答える。

「……父も母も死にました。これから弟と二人で町を離れて親戚の住む町に逃げるんです。……でも、せめて家宝の鎧だけでもと……。再び平和になったら、春祭りのパレードで必要でしょ?」

目尻に涙を浮かべて話す姉。鎧を売り飛ばすつもりだなどとは口が裂けても言わない。

「かーっえらいねガラちゃん!さすがはゲルニカのお姫様だ!おっちゃん泣けてくらあっ!これ、少ないけど持ってきな!いいっていいって。今はこれくらいしかしてあげられねえんだから……道中、気をつけてな!」

春祭りのパレードでの演舞披露は県の重要無形文化財キホーテ流の大事な仕事のひとつで、幼いころから大勢の観客の前で鍛えられてきた姉にとって、この程度の演技は朝飯前だった。


 ここで、わがキホーテ家と、無形文化財キホーテ流について説明しておこう。


 読者諸君はアラビア人の歴史家、シデ・ハメーテによる記録をセルバンテスが翻訳・編集した初代ドン・キホーテの冒険についてはご存知だろう。例の、騎士道物語を読みすぎたあげく自分を伝説の騎士だと思い込んだ、あわれな男のドキュメンタリー。もっとも、シデ・ハメーテあるいはセルバンテスが誇張したとも言われ、実際のドン・キホーテはそこまで常軌を逸した人物ではなかったという説もある。


 真偽はいまとなってはわからない。ともかく重要なことは、最初の『ドン・キホーテ』が出版されベストセラーになった数年後のことだ。自分こそはドン・キホーテの子だと称する二代目キホーテが現れ、分け前をもらう権利を主張し訴訟をちらつかせ出版社から大金をせしめ、そののちも各地で講談し、ちょっとした富豪になったということである。現在、家宝として伝わるキホーテの鎧も、この二代目が講談のときに着ていたものだ。二代目はそれが初代の遺品だと主張していたけれども、ぶっちゃけていえば子孫は誰もそれを信じていない。二代目は単なる馬のホネであると、歴代のキホーテたちは薄々そう思っていた。成り上がった二代目は金にあかせてラ・マンチャに土地を購入し、没落貴族の娘と結婚し、強引に貴族となった。


 そして馬上槍術キホーテ流を生み出した三代目が登場する。成金の二代目キホーテは息子をイングランドへ留学させた。この三代目も初代に負けず劣らず騎士道物語にハマり、とりわけ自分の祖父(と親は主張する)の伝記『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』は幾度となく読み返したほどだった。ただし三代目は、なんとか気はふれずに正気に踏みとどまった。彼は週末に郊外に出かけて騎士になりきって中世の馬術や槍術の研究と実践に没頭するという少年期を過ごした。ついでに言えば三代目は鎧を自分の体型に合わせてリメイクし、デザインが大幅に変わった。これ以降、鎧は代々のキホーテの好みに合わせて改変されることになり、伝記の描写やドレの挿画とぜんぜんちがうというクレームに見舞われることになった。


 三代目キホーテが年頃になったころ、ヨーロッパ全土で決闘が大流行した。それは銃の出現によってやり場をなくした騎士道精神の歪んだ発露だった。多くの若者がつまらぬ喧嘩から決闘にいたり命を落とした。親友の死を悲しんだ三代目キホーテは、馬と防具と槍による一騎打ちの勝負を提案した。生死ではなく落馬をもってして勝敗を決めようというのだ(自分が決闘で死にたくなかったのだという説もある)。この提案は、実は死にたくない派だった大多数の学友に受け入れられ、またたくまに広まった。


 そして、子供のときから独学で中世騎士の一騎打ちを仮想トレーニングしてきた三代目キホーテはこの決闘方式で圧倒的な勝率を記録した。


 三代目キホーテが帰国したのち、彼の発明した決闘方式は彼によってスペインにも広められた。当然ながら決闘に負けたくない若者は三代目キホーテに教えを乞い、ここにキホーテ流馬上槍術が誕生したのだった。首尾よく勝利をおさめた弟子たちは──そして敗北したものの命を落とさずにすんだ者たちも──感謝の念をこめて、彼を「サルヴァドール(スペイン語で救世主の意味)」と呼んだ。現在に連なるキホーテ家のミドルネームはこのとき誕生したのである。もっとも三代目は自分の編み出した技の名前を英語にするほど英国かぶれだったから、このミドルネームを喜んでいたかどうかはわかりかねる。


 19世紀、ナポレオン登場。銃剣を装備した軽騎兵全盛の時代にあって、八代目キホーテは決闘専用の武芸であったキホーテ流を乱戦にも対応できる白兵戦用に改良した。今日のキホーテ流はこの八代目の考案したスタイルを基本としている。


 ライフルが登場し騎兵の価値が下がると同時に、キホーテ流を新たに学ぼうとする軍人もいなくなった。お家芸は世襲で細々と伝承されていった。


 十代目キホーテ、つまり姉と僕にとっての祖父はとんでもない放蕩者だったらしい。身上を潰し、王制が終わるより少し早くラ・マンチャの領地を失い、没落貴族として放浪したあげくゲルニカに住み着いた。これは父ホアンにとって思い出したくない古傷なのか、それ以上のことは教わっていない。ともあれ祖父は姉が生まれる前に亡くなり、父は平民としてしがない教師になった。保守的な父は自分の代でキホーテ流を途絶えさせるわけにはいかないと半分は独学でキホーテ流を復活させた。そう、十代目はろくに教えもしなかったのだ。教師特有の研究熱心さが父ホアンにはあった。


 世襲で、と言ったが第十一代キホーテ、すなわち父は血縁にこだわってはいなかった。むしろ性別にこだわっていたと言える。ホアンは実践を重視するキホーテ流の厳しい修行は女が耐えられるものではないと考えていた。孤児院から僕を引き取ったのは、男児にめぐまれなかったからだ。ゆくゆくは僕をキホーテ流の後継者にするつもりだったらしい。しかしホアンの思惑は外れ、僕は人並みよりずっと運動オンチだった。逆に姉の騎士としての才能は幼い頃から火を見るより明らかで、姉が9歳になったときホアンはあきらめて娘を後継者として育てることに決めた。


 キホーテ流が県の重要無形文化財に指定されたのは、つい数年前だ。といっても、指定で何か変わったということはなかった。第一次世界大戦後の世界不況、共産主義と国粋主義の戦いが日常となった余裕なき世界では、古武術を見学する人さえめっきり減っていた。キホーテ流が世に披露されるのは年に一度の春祭りくらいとなっていた。


 そしていま、余裕なき世界はゲルニカにおいて死と隣り合わせの世界に変貌していた。崖を降りる坂道がまるっと爆撃で吹き飛んでおり、戦闘機の機銃に撃ち殺された人々の死体が崖下に転がっていた。

坂の下に住むマルコ氏が、降りられずに困ってる僕らを見かねて助け舟をだしてくれた。

「屋根に空いた穴からうちの二階に入って、スロープを降りるといい。壊れちまった家だ、馬が通ったところでかまやしねえって。ああ、そうだ、1階の小間物部屋にアンナが隠れているんだよ。ガラちゃん、この町を出るんならお別れを言ってくれねえかな」


 アンナは姉の友人だ。小間物部屋に姉が入ると、その鎧武者姿にアンナは絶叫した。

「きゃあああああああああっ!!!!……あ?ああ、なんだ、ガラ、あんたなの…驚かせないでよ、もー」

「ごめん」

「でも、意外といい考えかもね。全身鎧なら男か女か、すぐにはわからないもの」

「アンナ、この町に残ってたら敵の兵士になにをされるかわかったものじゃないわよ」

と姉。

「だから隠れてるんじゃない。見つかったら運が悪かったとあきらめて、相手のしたいことをさせてあげるわ。しょうがないじゃない。抵抗しなければ命までは奪われないだろうと、そう願うばかりよ」

アンナは姉と同じ16歳。内戦は──同じ国民が殺しあう世界は、たかだか16年しか生きていない少女をここまで達観させてしまうものなのだろうか。このころのスペインは誰もがこの種のあきらめを抱いて生きていたように思う。

「あんたは逃げるの?そう……町の外が中より安全だとは限らないわよ。気をつけてね」

「無事を祈るわ、アンナ」

「ガラに神様のご加護がありますように」

姉はさびしげに手を振り、アンナと別れた。


 町の南端に到着した。即席のバリケードが見えた。ドルシニオ・ロレンソ氏──バスク社会党ゲルニカ支所の若きリーダーで、姉のかつての恋人──が大声で指示を出していた。姉の表情は兜に隠されてわからない。

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