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ゲルニカの郷姫ドーニャ・キホーテの聡明なる冒険  作者: 桝田道也
第4章 マドリード
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スペイン広場の公開処刑

「……はぁ……」

建物を出ると、姉は重いため息をひとつついた。

「……マドリードに入り込めば、ひと息つけると思ってたんだけどな……。なんだかかえって、暗い気分になっちゃったわね、サンチョ……」

同感だった。 なんだかんだいって、姉はもちろん、僕もまたマドリードに期待を抱いていた。


 自由と平等。


 王や貴族に支配されない、身分差別のない新しい世界の枠組みが、そこで生まれていると信じていた。そりゃあ、まだ生まれたばかりで不具合は山ほど出ているだろう。それでも、スペイン国内では、もっとも先進的な、ハイカラでナウでトレンディでグルービィでクールな新しい社会のオペレーティングシステムが運用されている都市だと思っていた。


 文明が生まれて数千年は続いてきたであろう"支配する者と支配される者"の関係が消滅した都市、マドリード!……そう、思っていた。


 事実、まだ共和国派の劣勢が明らかでなかった開戦当初のマドリードやバルセロナは、そういう雰囲気があったらしい。夢と希望とバラ色の未来がそこにあった。富を誰かが不当に独占することがなく、必要な人に必要なだけのリソースが割かれ、やるべき人が当人に適したタスクを処理し、バッファオーバーフローの起きない理想社会が来たのだと、庶民はみな、そう感じていたのだという。


 だが、推奨環境での運用を想定して約束された性能は、劣悪な環境での運用ではまともに起動さえしなかった。現実には、王や貴族や資本家を削除すると、単にスペイン国内を試合場とした天下一武闘会(武器使用可能・チーム戦)が始まっただけだった。新しい平等な社会において、人々は自分の弱さに応じて"平等に"強者の支配を受けた。


 子供は大人に支配された。女は男に支配された。少数民族は巨多民族に支配された。そうして、そもそもの推奨環境が現実離れしていたのだと気づいた人々は、ひとりまたひとりと、古い環境へと戻っていった。動けば素晴らしいが動かない新しい社会システムより、設計が古く将来性はなく問題だらけではあるが、ともかく機能する古い社会システムの方がマシだったのだ。


 自由で平等な社会。それはすばらしい!だが、移行のコストが高すぎる!……と。


 暗くなった雰囲気を払いのけようと姉はつとめて明るい声で提案した。

「そうだ!スペイン広場に行きましょう!ここから近いはずよ!我らがご先祖、ドン・キホーテ1世と従者サンチョ・パンサの銅像があるの!」


 スペイン広場。のちに映画『ローマの休日』で有名になるローマのスペイン広場ではなく、マドリードのスペイン広場のことだ。


 19世紀初頭には、ここには監獄があった。1808年5月2日、マドリードの市民はナポレオンの支配に反旗をひるがえした。そのとき暴動で逮捕された人々は即座に監獄へブチ込まれ、すみやかに銃殺された。この仕事の早さは、いうまでもなく独立運動を加速させた。


 公園化されてから20世紀の初頭にかけて、様々なモニュメントや銅像が整備された。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像もそのひとつだ。


「十年くらい前かな、除幕式があってね。父さんがマドリードまで招かれたのよ。それで、

『お父さんだけずるいーっ!』

って、あたしが泣いて困らせて、お母さんがなだめて……」

姉はそう言うと、まだ父と母が生きていた幸せだったころ(つい数週間前だ)を思い出して泣きそうになった僕を見て、しまったという顔をした。


 姉は、そっと僕をだきしめた。

「ごめん、サンチョ……。思い出させちゃったね……」

そして、姉もまた、父と母のことを思い出していたのだろう。ポケットから汚れたハンカチを取り出すと、かすかに声をふるわせて、

「さあ、サンチョ。涙をふいて。じゃないと、あたしもつられて泣いちゃう」

と言いながら、僕の目尻の涙をぬぐった。


 そのとき突然、横から

「あのう、ちよつと、よいですか?」

とフランス訛りのまじったスペイン語で話し掛けられた。見れば、カメラを抱えた二人連れの男女が会釈していた。

「いまの、抱きしめあつてゐたところ、素晴らしかつたです。もういちど、やつてくれませんか?カメラの前で。わたしたち、この内戦の様子を海外に伝えてゐる報道写真家なのです」

姉は不快感をあらわに、けんもほろろに言った。

「見世物じゃないから!あっちへいって!」

「まあまあ、そう言わないで。あなたがたのような戦争被災者の写真が海外の世論を動かすのですよ」

男の方が、鞄から米国のグラビア誌『LIFE』と取り出して、僕たちに見せながら言った。

「この兵士さんなんか実に協力的で、じようずに"崩れ落ちる"ふりをしてくれましたよ」


「しつこい!いいかげんにしないと、そのカメラぶっこわすわよ!」

姉が一喝すると、二人は顔を見合わせ肩をすくめて、大事なカメラを守るように抱えて去っていった。


 そのころから、周囲の雰囲気がただならぬ感じになりつつあることに、姉も僕も気がついた。緊張と期待が混じった表情の人々が広場の方へ続々と向かいつつあり、広場から

「粛清しろ!粛清しろ!」

という怒号が聞こえてきたからだ。


「……なにかしら?」

僕ら二人も広場へ向かう緊張と好奇心を抱いた一箇の自動人形と化した。深く考えずに行動してしまっていた。


「うそだと言ってくれカルメン!お前がスパイだったなんて!」

「あたしを裏切ったの!?アンタこそ真の革命戦士だと信じていたのに!」

スペイン広場、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの銅像の前に、女が座らせられ、群集が取り囲んでいた。女の手足と首は椅子につながった鉄環で拘束され、身動きひとつできそうにない。そして椅子の背には奇妙なことに大きなハンドルがついていた。女の横には共産党員が一人立っており、このショーの司会者と思われた。人々の怒号ともヤジとも悲鳴ともとれる叫びは、おさまる気配もない。


 共産党は大声で言った。ハンドマイクなんて気のきいた物はない。

「諸君らの気持ちはよくわかる。この女と寝ていないマドリードっ子はまずいないだろうからな!だが、おとり捜査によって現場をおさえた。誤認逮捕は

ない!」

これがアジテーションというやつだろうか。いくらなんでも誇張がひどすぎる。そのころマドリードの人口は百万人に到達しようとしていた。365日、毎日10人ずつヤッても280年かかる計算だ。


「名前はカルメン・ブラスコ。その正体は、男に女、老人に子供、リベラルにファシスト、誰とでも寝て情報を盗み、売った、二重スパイだったのだ!」

テレビドラマならジャジャーンと効果音が鳴り響いていたことだろう。

「マルディート!(くそったれ!)」

よぼよぼの爺さんが苦々しげに叫んだ。ヤッたのだろうか?


「カルメンは観念して、すでに自白している。供述によりフランコ軍が大規模空爆を予定していることがわかった。そして、こちらの重要機密の多くが洩れたことも判明した。すべて、この女が我々から探り出し、やつらに売った」

「その女を許すなァ!」

複数の方向から同じ言葉が飛んだ。人々の個性は消滅しかけていた。

「二度とこのような裏切り者が出ないようにするには、諸君、どうするべきだと思う?」

群集の答えがどうであれ、"それ"を実行するつもりであることは明白だった。しかし、司会者はあえて、民意による結果それをやったという方向に持っていこうとした。


「見せしめだァ!ぶっ殺せ!」

「"私は堕落した敗北者"と書いたプラカードを下げ、大通りに吊るせ!市中を引き回せ!」

過激な言葉が飛び交い、人々はそれを言葉通りに復唱した。感情は群集を支配し。過激な行為に賛成していない人さえも、自分の保身のために心にもないことを復唱し、表面上は支配された群衆の一人になった。



 だが、この雰囲気に支配されない剛の者がいた。そう、僕の隣に。



「たいへん。やめさせなきゃ」

姉はつぶやいた。僕は焦って、姉の袖を引っ張った。


「こうなったらもう止められない、下手すると巻き添えをくうからなにもするな――そう言いたいんでしょ?」

わかってるわ、という顔の姉。うなづく僕。

「おお、サンチョ、この愚か者め。いやしくもキホーテの名を継ぐ騎士が、初代の像の前で、この状況を見過ごせようか?」

姉は、力強く、雄々しく、凛々しく、竜の王に立ち向かう騎士の顔をして言った。

「そなたも初代の伝記は読んだであろう。"罪なき強者を打ち殺しても、目の前の罪深き弱者を救う"……それがキホーテの名を受け継ぐ者の宿命なのだ」


「だが案じるな、暴力で解決するつもりはない。……だって、いまは鎧がないもん」

最後に、芝居がかった口調をやめて、姉はニコリと微笑んだ。

「大丈夫、話せばわかってくれるはずよ。20世紀だもの。中世じゃないわ」

同意しかねたが、もはや姉を止められないのはわかった。司会者の方へ群集をかきわけて向かう姉のうしろを、僕はロシナンテを引き、ついていった。……いざとなればすぐ逃げられるように、馬具の緩みを引き締めながら。


 司会者は、例の奇妙な椅子を指差し、群集に語りかけた。

「諸君、これがガローテ(鉄環絞首台)だ!ハンドルを回せば鉄環が締まり罪人は死ぬ!ガリア人(フランス人)の使ったギロチンのように使用後に大掃除が必要にはならない!アメリカ人の使う電気椅子とちがって停電しても処刑ができる!非常に洗練されたスペインの伝統的処刑道具だ!」


 カルメンと呼ばれた女の声は独特の艶と刺を感じさせた。

「ごたくはいいから、さっさとやったらどうなの?ハハッ!ミゲル、あんたの童貞は美味しかったよ。はじめてのとき震えていたビビリのあんただもの。女ひとりを殺すのにも、みんなの後押しがなきゃできないんだろう?」

ミゲルと呼ばれた司会者は激昂した。

「だまれ売女ばいたッ!」

「売女で結構よ!娼婦のなにが悪いのさ!あたしは売れるものならなんだって売るわ!オ×コだろうと情報だろうとね!ついでだから商人として言わせてもらうけど、あんたらリベラルは客としては最低だったよ!」

吐き捨てるように、とはこのことだ。

「やれ革命のためだ、自由と平等のためだ、新しい社会秩序のためだのなんだのと理屈をこねては、ヤッた代金を踏み倒そうとするクソ野郎ばかり!」

啖呵の勢いに気圧されて、群集も一瞬、静まり返った。

「女を見下してるのはフランコ軍の男どもも同じさ。でも、やることをやったらお金を払っただけ、ファッショの方があんたらよりマシだったわ」


 それは、おそらく事実だったのだろう。リベラルを擁護するわけではないが、新政権の樹立を目論む人々は、例外なくビンボである。それは歴史的必然としてビンボなのである。"持たざる者"だから、革命という手段で一発逆転にかけるのだ。そして、それを阻止しようとする保守勢力は、当然に"持てる者"だった。


 少し間を追いて、ミゲル氏は逆襲に出た。

「いまのを聞いたか諸君!?」

もはや暴徒一歩手前となった群集も答える。

「ファッショが俺たちより上だと言ったああああっ!ファッショが俺たちより上だと言ったああああっ!体制批判だ!情状酌量の余地なしだあああっ!」

「今すぐ粛清しろ!オレにハンドルを回させろっ!そのエプロンの息の根を止めてやる!」

人は差別するとき、その存在を象徴する語をあえて用いる。中世ヨーロッパの男性達は長いあいだ、女性は諸悪の根源として嘲り、そういうとき女を女と呼ばずにエプロンと呼ぶ伝統があった。


 姉が群集をかきわけかきわけ、ミゲル氏の前に出られたのは、そのときだった。

「待って待って待って待って!ちょっと待って!」

「なんだ?貴様は?」

当然の質問。フー・アー・ユー?あんた誰?あなたのお名前なんてぇの?


「通りすがりの他所者よ……。皆さんの気持ちはわかります。でも、これじゃ魔女裁判だわ。どんな罪人にも弁護人を立てて弁明の機会を与えないと。私たち20世紀に生きる文明人でしょう?」

姉は一気にまくしたてた。残念ながら、説得者としての姉の能力は低かった。上から目線で本人が正論だと思うことを述べるだけで、これでは火に油を注ぐも同然である。


「今は戦時中だ。裁判所は機能していない。非常時には非常時のやりかたというものがある」

「だからって私刑リンチは……」

姉は食い下がったが、そのとき、横から困ったヤジが飛んできた。


「あ!お前は朝、オレをなぐった女じゃないか!」

姉の股間を触ってぶっ飛ばされた男が、腫らした頬にガーゼを貼って、立っているのが見えた。


「なにぃっ!?女たちのために命をかけて戦ってるオレたち"男"を、なぐったというのか?守られている"女"の分際で!」

と、隣の男が大げさにわめいた。マンガなら、きっと良い解説クンになれる。


 労働には対価が払わなければならないという紀元前からの常識が、戦時下ではゆがんだ形で現れていた。繰り返すが、スペイン内戦において、女性は徹底的に低く見られ、セクハラを受けつづけていた。

「キミの笑顔のためにボクは戦う」

と歌って男達は戦争を始め、その対価としてセックスの無償提供を暗に要求した。共和国派の勢力下では、特に顕著に。


「ちょっ、ちょっと……」

姉は、正しいことを言っているのだから相手も納得するはずだと思い込んでいた。純真にもそう思い込んでいた。自分が正しいと信じている人間が陥りやすい失敗の典型例だった。


別の男が叫んだ。

「オレはそのエプロンが何者か知ってるぞ!そこの銅像、キホーテの子孫の、なんとかキホーテだ!何年か前にバスクの祭りで見たぜ!」

「つまり貴族ってことか?ブルジョワのクズか?」

「バスク人だと?俺たちスペイン人にテロを繰り返した、あの極悪非道の

バスク人だと?」

「ついでだ!そのエプロンも粛清しろ!」

怒号は怒号を呼び、憎しみは連鎖し、叫びは誘爆し、栓を抜いたバスタブのように禍禍しい感情の渦は一点に集中した。


「…………」

姉はプロの戦士として感情を顔に出さない術を習得していた。しかし、ここでポーカー・フェイスを使うということが、いまが危機的状況だと姉が考えている何よりの証拠だった。従者の僕にはわかる。


 だが、ひとまずミゲル氏は穏便に処理する道を選んだ。

「ガラ・キホーテか。ゴシップ記事は読んだ。いいかな?これは魔女裁判ではない。市民の団結を高めこれ以上の裏切り者を出さないようにするための、必要な処刑なのだ。わかったら下がれ」

「恐怖で人を協力させるのは、団結じゃない」

相手が穏便にすませようと水を向けてるのに、なぜ乗らないのか、このバカ姉は。もう!


「下がれと言った。初代と同じように、官憲を打ち殺して婦人を助けようというのか?だが、それをやると、初代のように半殺し程度ではすまないぞ……群集は爆発寸前だ」

さすがに、聖書に次いで世界で二番目に読まれてる本というだけのことはある。みんな、ドン・キホーテ1世の伝記を読んでる前提で話をしている。わがご先祖のドン・キホーテは、罪を犯して連行されていく女性を釈放するよう修道士に頼み、頼みが受け入れられないと激昂して、叩き殺してしまうのだ(結果、ドン・キホーテ公は護衛によって半殺しにされる)。


「…………」

沈黙する姉。


「もっとも、このピストルをかわして私を打ち殺せたら、の話だがな」

ここでカルメン・ブラスコ氏が口をはさんだ。

「いいのよ、セニョリータ。まだ、この国に理性のある人がいたとわかっただけで十分。ありがとね。さあ、自分の命を大事になさい」

これから処刑されるスパイ容疑者にまでそう言われたら、姉とて引き下がらないわけにいかなかった。


 一歩、二歩、あとずさりして踵をかえすと、うなだれて、姉は僕のところに戻ってきた。そうしてロシナンテにまたがると、僕を後ろに座らせ、落ち武者のようにスペイン広場を立ち去ったのだった。

「アーッハッハッハッ……そう、それでいいのだ、ドーニャ・キホーテ!」

去りゆく僕たちの背中にミゲル氏の嫌ったらしい笑い声が突き刺さった。


「さて、カルメン。すぐ殺してもらえると思うなよ……。貴様にはおしおきと反省が必要だ」

ふりかえって、ミゲル氏は言った。もちろん、この場に僕たちはもういなかったので、あとから取材して得られた談話を元に書いている。


「へえ、ミゲル、めずらしく、じらすじゃない。ベッドの上じゃ、いつも1分もたないくせに」

カルメン・ブラスコ氏は、死を目前にして、まったく臆するところを見せなかった。


 一方、姉はロシナンテを全速力で走らせていた。鞭や拍車を嫌う姉が、めずらしく力いっぱい踵でロシナンテの腹を何度も蹴っ飛ばした。うなだれていたのは演技で、あのとき姉はすでに、"これからなにをやるか"決意していたらしい。


「落っこちないようにしっかりつかまってなさい!どこへ行くのかって?王宮博物館よ!!」

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