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ゲルニカの郷姫ドーニャ・キホーテの聡明なる冒険  作者: 桝田道也
第4章 マドリード
24/26

汝は女なり。バスク人なり。アナキストなり

 セゴビアを脱出してしまえば、幹線を使ってセゴビアからマドリードへ向かうのは容易だった。さしもの反乱軍も、共和国派との境界、緩衝地帯、すなわち前線、つまり敵の鼻先に検問所をもうけて戦闘そっちのけで女を追い掛け回すようなことはしなかった。


 セゴビアの外れの最後の検問所をマリオン氏謹製のワープ・トンネルで回避した後は、反乱軍の検問所はどこにもなかったのである。


 ただし幹線道路は共和国派によって、あちこち破壊され塹壕につぐ塹壕で分断されていた。自動車だったら通れなかっただろう。20世紀前半の戦争では、自動車を封じてしまえば敵の攻撃力は大きく下がったのだ。かつて中国人が馬さえ封じれば北方遊牧民怖るるに足らず、と万里の長城を築いたのと同じようなものだ。だが、僕達は自動車ではなく馬だったし、素敵な万能のオーク板があったから、難なく越えることができた。


 幸いにも、姉の体にシラミは移住しなかったようだ。一緒に旅をしている僕としても、これは喜ばしいことだった。


 軍服を捨てた姉は久しぶりに私服の質素な空色のブラウスにくたびれた白いスカートへ着替え、ブルゴスで買った実用本位なつばの大きな帽子をかぶり、いかにも戦争難民の民間人らしい格好をしていた。僕の服もまた、空爆の日から着たきりの少年らしい半ズボンとシャツが薄汚れてヨレヨレになっていて、これまたまさに戦争孤児という様相をしていた。


 だから、マドリードへもすんなり入れるかと思ったけれども、門番の兵士達のチェックは意外にも厳しかった。


 門兵は、うさんくさげに見つめながら言った。

「ゲルニカから逃げてきた戦争難民だと?ファシストじゃない証拠はあるか?」

「あたしがファシストの民間人だったら、猛攻撃にさらされてるマドリードには絶対に近づかないわ」


 こんなときにすら皮肉をはさむ姉に、僕は心で溜息をついた。門番もあきらかに不快感をあらわにしていた。

「皮肉屋だな、同志。だがな、我々はスパイという可能性も疑わねばならん」


「さんざんボディチェックしておいて、まだ疑うの?これ以上、なにをすれば信じてもらえるわけ?ここで裸になれとでも?」

そう。セゴビアの身体検査は回避した姉だったが、結局、ここで、体中を男の兵士になでまわされてしまったのだった。


 門兵は言った。

「貴様の格好が気に食わん。コミュニストの赤も、アナキストの赤と黒も、

身につけていないではないか」

「ここまでナショナリスト陣営の土地を逃げて来たのよ!そんな挑発的な格好できるわけないでしょ!」

まくしたてて、姉はさらに続けた。

「髪が赤くて瞳は黒いわ!文句ある?」


 門兵は片眉を上げた。

「うまいことを言う同志だな。まてよ、ガラ・キホーテ?……聞いた名前だな。フランコの一個師団を壊滅させたというデマで荒稼ぎしてるという噂の没落貴族の子孫がいるとか……お前がそうか?」

「あたしが半殺しにしたのは一個小隊!それに、ビタ一文稼いでないわよ!どういうデマのねじ曲がりかたよ!」

「一個小隊?女の細腕ひとつでか?それだって十分信じ難いが……。まあいい、ともかく、今は武器を持ってないわけだし、入れてやろう」


 そして、門番兵は最後に鼻で笑って言った。

「同志だろうとスパイだろうと、若い女は大歓迎だ。フェッ」


 姉と僕、そしてロシナンテは希望を抱いて、マドリードのバリケードを通過した。頭上にはスローガンの書かれた横断幕が掲げられていて、それにはこう書かれていた。

「"それ"は起らない!──マドリードはファシズムの墓場──」

僕の胸にはこのスローガンが痛々しく空しいものと響いた。なぜなら 1937 年の夏には"それ"──すなわちリベラルの敗北は誰の目にも明らかだったからだ。共和国の政府はすでにマドリードを撤退しバルセロナに退避していた。マドリードは自由を愛する者たちの予約墓地だった。




 とにもかくにも、僕たちは役所に行かねばならなかった。この都市でどのような支援が期待できるか、さっぱりわからなかったからだ。人民戦線の幹部待遇で迎えるという、新聞記事を鵜呑みにしたわけじゃない。そもそも民兵に志願するつもりはまったくなかった。姉はアナキストであり(本人曰く、少し前までは、だが)、リベラリストであり、社会主義革命によって平等な社会になれば、この世のあらゆる問題が解決すると信じていたし、必要ならば武力闘争もやむなしと考えていた。しかし、当面の目標は姉弟とも生きのびることであったから、死と隣り合わせの職業は就職先の選択肢には入っていなかった。


 第二次世界大戦後、多くの社会主義政権が失敗した事実をもって、姉の信念を笑い飛ばすのは簡単だ。だが、第一次世界大戦後の空前絶後の世界的不況の中、ソビエト連邦だけは世界恐慌の影響をそれほど受けずにいた、つまり成功した社会主義国家だったのである。そして、世界恐慌が始まったのは米国だった。世界経済の中心はもはやヨーロッパではなく新興国家の、身分制の無い自由の国に移っていた。コミュニストやアナキストでないノンポリの人々さえ、身分制社会が時代遅れだと悟っていた。スペイン人の下層階級の大半が、自分の国でも革命が成功して自由と平等が手に入れば、すべてうまくいくと信じていたのだ。そういう時代であり、姉もそういう庶民のひとりだった。


 道をたずねるために姉がにっこり微笑んで、通りすがりの働き盛りの中年男に近づくと、男は我が意をえたりとばかりにニタリと笑い、言った。


「よう同志!景気はどうだい?」

言うなり、男は姉の股間に手を伸ばし、くたびれた白い綿のスカートの上から子猫をやさしくなでた。もちろん、電光石火で姉の左フックが男の頬にめり込んだ。拳のターゲットが男の鼻ッ柱でなかったことは、姉が理性を保っていた証拠だ。

ガッ…と鈍い音が響き、吹っ飛んだ男に対して姉は、あくまで笑顔をくずさずたずねた。

「ごきげんようセニョール。いきなり股間に手を伸ばすのがマドリード流の挨拶なの?」

「いてて…よそものか?同志よ、ふたつ教えてやる。ひとつ、セニョールと呼ぶな。『同志』を使え。平等を愛するオレたちに敬称はいらねえんだ」

横で聞いていた僕は、共産主義者のキモい部分、出たー!と思った。


「ふたつ、マドリード流じゃないが、いまのはオレの考えた自由と平等の挨拶さ。……つまり、オレは自由にさわりたい所をさわるし、同志よ、おまえもオレを自由にさわっていいんだ」

男は頬をおさえていた手を離すと、ふたたび姉の股間に手を伸ばしながら高らかに謳った。

「コミュニスト差別しない!」

「それ、ぜんぜん平等じゃないっ!」

今度は男の手が触れる前に、姉の右ストレートが男の無事な方の頬に炸裂した。ふたたび鈍い音を立てて男は転がった。


 痛さで悶絶して起き上がれない男を見下ろしながら、姉はそれでもおだやかに(冷ややかにともいう)たずねた。

「同志、教えてくださる?この街でいちばんえらいひとはどこにいるの?」

男はうめきながら、答えた。

「いてて……オレたちの中に『えらさ』のちがいはねえ。コミュニスト差別しない!」

僕は姉の方をチラッと見た。笑顔の奥でイライラしてるのがよくわかった。

「司令部はどこなの?」

ポキポキ。姉はついに拳の骨を鳴らし始めた。完全にチンピラだ。

「気の短い同志だな。司令部なら王宮の前だよ」

「ありがとう。セニョ……同志」


 道をたずねる相手を間違った姉だったが、男のほうも自分の間違いに気づいていた。つまり、この赤いシャツを鼻血でますます赤くした中年男は、姉の笑顔の意味を商売女の営業スマイルだと勘違いしていたのだった。あとでわかったことだが、いまやマドリードの女性は女性兵士か、世界最古の商売に携わる女性か、どっちかが大半だった。疎開先のない普通の女性もわずかに残っていたが、日常的に男達のセクハラにさらされ、それにただひたすらだまって耐えていた。男達のほとんどは民兵も兼ねていて、たいがい拳銃を携帯していた。男達のご機嫌をそこねると、どんなひどい目に遭わされるか、わからなかったのだ。


 姉にとっては幸運にも、セニョール否定氏は怒りにまかせて銃で撃ってくることはなかった(たまたま銃を携帯し忘れていた可能性もある)。ただ、じゅうぶんに僕たち一行が離れたのを見て、わざと聞こえるように叫んだ。

「チッ。乱暴な同志だったぜ。女のくせに!戦争中だぞ!肉便器ひとつ満足にできねえのか!」

キッと姉が振り返ると、男はわき目もふらず遁走していった。


 戦時下。戦車や戦闘機が戦争の主役になったとはいえ、軍事活動はあいかわらず過酷な肉体労働であり、結局は筋力に勝る男が有利な仕事に変化はなかった。有史以前から変わらない現実がそこにあった。しかるに、守る者と守られる者が生まれ、強い立場の男と弱い立場の女という、あいもかわらぬ格差が生まれた。良く出来たジョークと言うべきか壮絶なる皮肉というべきか、自由と平等のために戦うコミュニストの男達は、スペイン内戦中、徹底的に女性を見下し、セクハラし、差別した。負け戦のうっぷんのはけ口を女いじめに求めた。


 身分差別の撤廃。身分平等の実現。その大義こそ最優先課題であり、女性差別の撤廃、男女平等の実現なんか、コミュニストの男達の眼中にはなかったのだ。




 ブルゴスよりも大きな都市を知らない僕ら姉弟にとって、マドリードはとにかく巨大だった。さすがに王宮への案内板は各所にあるのだけれども、その看板の読み方に慣れていない。何度も違う道に入り込んでは引き返すということを繰り返した。昔の人は、くちがあればローマに着けただろう。現代人の僕らは目があるから王宮へ着けずにいた。迷い込んだ路地裏の、いかにも安そうな食堂で一番安いパンとスープのセットを頼み、人の良さそうな店の主人に王宮への地図を書いてもらった。そうして13時を過ぎたころ、ようやく王宮前に出ることができた。


 スペイン共産党とスペイン社会労働党、マルクス主義統一労働者党など、「そっち側」の旗の数々が掲げられていたので、目的の建物はすぐにわかった。ただし、ここは実は司令部ではなく、僕らのような他所者や難民のために便宜的にも受けられた、言わば出張窓口だった。王宮の前ならわかりやすいだろうという親切心で特別に設置されたのだという。


 姉はひととおり、つつみ隠さず現状を説明した。自分達は両親を失った戦争孤児であること。親戚の叔父がモロッコにいるので、もともと叔父に頼るつもりで南へ逃げたこと。自分はアナキストであるため、フランコたちファシストの支援は受けたくなかったこと。フランコの本拠地とも言えるモロッコへ行くのは、決してファシストに寝返るつもりがあるわけではなく、ただ、生活のためであること。追われる身となったため、モロッコ行きを中止してマドリードに留まる道も検討していること。自分は弟を養わなくてはいけないので、民兵のような危険な仕事を選ぶつもりはないこと。などなど──


「……新聞で、バスクの人民戦線があたしを幹部待遇で迎えたいと談話で答えたという記事を、読みました」

姉は、しおらしい顔つきで(演技だ。僕にはわかった)、丁寧な言葉遣いで言った。

「もちろん、そんな夢みたいな話を鵜呑みに信じたわけでは、ありませんけど……」

「たしかに、夢みたいな、ありえない話ですな」

頭髪の生え際が危険水域に達し始めている、四十代とおぼしきその職員は、慇懃に姉の言葉をさえぎった。

「結論から言えば、あなたを幹部待遇で迎えると言ったのはバスクの人民戦線の独断だ。マスコミ向けのリップサービスだ。そのバスクもいまや陥落した。はっきり言おう。我々はあなたを幹部に迎えることはできない」


 職員の強い口調に、めずらしく気圧されながら、姉は敬語をやめて答えた。

「そんな気はしてたわ」

「おまけにキミは民兵として我々に協力する気はないという。ならば我々もキミに用はない」

「でも、あたしと弟は戦争孤児で難民よ。行政として生活の支援くらいできないの?ここは、そのための窓口でしょ?」

「戦争孤児は山ほどいる。キミたちだけ特別扱いはできん。コミュニスト差別しない」

「そうね。山ほどの戦争孤児がね。あなたたちの始めた内戦のせいでね」


 厳密に言えば、姉は間違っていた。内戦を始めたのはフランコたち反乱軍だからだ(だからこそ反乱軍と呼ばれていたのだ)。だが、大きな反乱を引き起こすにいたった小さなジャブの応酬はそのずっと前から続いており、フランコが立ち上がったときには、既に"どっちが先に手を出したのか"なんて遠い過去の出来事で誰にもわからなくなっていた。内戦にいたる小さな殺人・暴行・テロ行為の積み重ねの、半分は共和国派が起こしたものだった(残る半分は、もちろんナショナリストの分だ)。


 姉の皮肉に対して、表情は変えずにこめかみだけ器用にひきつらせて、職員は言い放った。

「街には民兵や外国人義勇兵が大勢いる。男のな。きみさえその気になれば、いくらでも稼げるぞ」

職員は姉に対して敵意を隠そうともしなかった。

「……冗談で言ってるわけじゃなさそうね」

「先に挑発したのはキミだ。言われたくないなら、言わないことだ」

睨みつけられてもたじろぐことなく、職員は冷たくあしらった。日々、クレーマー処理をして鍛えられたものとみえる。


「難民のための施設があったりしないの?」

「施設はある。が、入所には条件がある。民兵として働くこと。女・子供でも後方支援はできるぞ」

「ありがたい申し出に涙が出るわ」

「キミの先祖は貴族だ。これでも寛大な処置なのだ。我々はキミの馬と荷物を没収して軟禁することもできるのだぞ。だが、我々はコミュニスト。差別はしない」


 姉は激昂した。

「貴族?あたしたちが?なけなしの領地も祖父の代に失われたと聞いてるわ!父は北部の田舎でしがない教師になって、その土地で根っからの平民の娘と結婚してあたしを産んだ!弟はみなしごで、孤児院から父がひきとってきた。父と母は身を粉にして働いて、一家四人、つましく生活してきたわ!贅沢なんか着たことも食べたこともない!今日のお昼ご飯だって、安食堂の、肉も魚も入ってない豆のスープよ!貴族ですって?このあたしたちが?」


 だが、まくしたてる姉にも職員は動じなかった。

「だから、差別しないと言っている。コミュニスト差別しない」

「さっきからそればっかり!なんなの?マドリードで流行ってんのそれ?ダッサぁーっ!あなたがコミュニストならあたしはアナキストよ!枝葉は違えど、根っこは同じ自由と平等を信じる革命の同志じゃないのっ?」


 ここで、ついに姉の悪意を帯びた言葉の鎚が相手の怒りの鐘に触れた。鐘はカンカン鳴り出した。

「そうとも!スペイン人の政権をいやがり、内ゲバを始めて革命の足並みを乱した戦犯バスク人だ!貴様らアナキストが考え無しにスペイン人のノンポリを攻撃したせいで、増やさなくていい敵が増えてしまった!貴様らバスク人のアナキストのせいだ!だれが貴様らを同志と認めるものかっ!」

ドンッ!と、机を叩く音が轟いた。

「さあ!用はもうないな?とっととうせろ!堕落した北部のメス猿め!」


 迫力負けして、僕と姉は慌てて廊下に退散した。

「……サンチョ、さっきの聞いた?堕落した北部のメス猿だって。すごいわねー。なかなか、とっさに出せる罵倒語じゃないわよ」

僕はうなづいて同意を示した。

「ソ連から支援物資が届いてるって聞いたし、マドリードが安全なら、ここで仕事を見つけて働こうかとも思ってたんだけど……。どうも、あまり安全じゃなさそうね……反乱軍の勢力地域より身の危険を感じるわ」


 階段を下りてると、二階で僕と同い年くらいの少年に声をかけられた。

「やあ!新入りだろ?来いよ、仕事場を案内してやるぜ」

うろたえる僕に代わって、姉が答えてくれた。

「ごめんね、弟はちょっとおしゃべりが苦手なの。それに、まだここで働くと決めたわけじゃないのよ。あなたはここで働いてるの?」

「ここで働いてないのに、案内しようとしたら、そりゃキ●ガイってもんだよ、お姉さん。ちぇっ、なんでえ。オ●かよ。ひさしぶりに五体満足なやつが入ってきたと思ったのにな。でも、カタ●なら、すぐに打ち解けられるぜ。みんなそうだからな。いまから入隊手続きする気はないかい?」

よく見ると、少年はふくらはぎが途中から木の棒になっていた。


「この階では僕らポンコツの少年兵が、武器弾薬の検品をやってるんだ。いざというときに役立たない不発弾ばかりじゃ、戦いにならないからね」

いちおう見学ということで僕らは中を案内してもらった。少年はコツコツと独特な足音を響かせながら、解説してくれた。

「後方支援だって、危険と隣り合わせさ。ラテン人種の仕事のいいかげんさって、わかるだろ?オレたちのほとんどは、イギリス人やドイツ人や日本人のように仕事をキッチリはやらないし、できない。すると、どうなるかっていうと、これだよ」

と、少年はニカッと笑って自分の足を指差した。


「後ろで作業してたやつが検品していた手榴弾の紙テープがゆるんでたのさ。床に置いたとき、なにかに引っかかってレバーが外れちゃったらしい。やつはあわててはらいのけたものの、間に合わず至近距離でドカン!即死。オレも破片を足に受けて、切断するしかなくなっちまったんだ」

「ここで働いている少年兵は、みんなそうなの?」

と姉がたずねた。

「ケガの理由は、それぞれだけどね。戦闘に巻き込まれたやつ。地雷を踏んだ同級生のとばっちりを受けたやつ。空襲で家が焼けて、顔中に火傷を負いながら、命からがら逃げてきたやつ。オレみたいに、ここでの作業でカタ●になったやつも大勢いる。まあ、五体満足でいたら、まだ子供なのに前線に送られちまうんだから、どっちがマシかはよくわかんないけどな」

「どうして、それでもここで働くの?」

「お姉さんが優しいのはよくわかったけどさ。オレたちァ戦争孤児なんだ。ほかに生きてく術がないんだよ。ここで働いてりゃ、メシ・フロ・ベッドだけは保証されるからね。事故で死ぬか、浮浪児になって餓えてのたれ死ぬか、選択肢はふたつにひとつってこと」


 部屋の向こう側には大砲の砲身を器用に左手一本で磨いている少年がいた。例の、問題の多い紙テープ式手榴弾を固く締めなおしている、長髪で顔を半分以上隠している少年もいた。その長い髪の隙間に、赤い火傷の跡が垣間見えた。


 手榴弾は、このころはまだ新しい兵器だった。後に主流となる映画でおなじみの安全ピンを抜き、レバー外して投げるタイプは、共和国側の軍隊はほとんど持っていなかった。共和国側が大量に所持していた手榴弾は、レバーを固定する安全装置がピンではなく紙テープだった。これは、しばしばゆるんだり、逆に固すぎて、いざというときとっさにつかえないという欠点があった。


 少年兵たちは、それぞれ距離を置いて作業していた。誰かがヘマをして事故が起きたとき、すこしでも助かるようにという知恵だと言っていた。作業している子供達に表情はなく、ただ黙々と機械のように仕事を続けていた。


 案内してくれた少年に礼を言って別れようとしたら、彼はポケットからモンキーレンチを出して、微笑んで言った。

「記念にもってけよ。ただの粗悪品だけど、いちおう政府謹製の非売品さ。好きなんだろ?こういうの。旋盤機械を見つめる目の色がちがってたぜ」


 僕はおずおずと、そのステキな贈呈品を受け取り、言葉はなく、固い握手を交わした。




 一階に下りると、屈強なおばさん兵士たちに声をかけられた。ちゃんとした軍服でなく、普段着にコミュニストの証しである赤い帽子やスカーフを身につけているだけの格好なので、彼女らは民兵なのだとわかった(共和国政府は軍服すら満足に供給できていなかった)。

「あら?いまどき、志願兵かい?」


 どうやら、人手不足は相当に深刻らしい。あの職員が僕たちに冷たかったのも、民兵になることを断ったからだろうか?と思った。期待を抱かせ、それを裏切る形になってしまったからだろうか?

「ちがうんです。あたしたち、マドリードについたばかりなの。難民申請したら、なにか援助が受けられるかと思って」

「だめだったんだね?」

「ええ」

「だろうね。いまのマドリードに他人の面倒を見る力は残ってないよ。見てごらん、このライフルの刻印。1898だってさ。前世紀、米西戦争のときの遺物だよ。こんな四十年前の武器で、どう戦えって言うんだろうね」

もうひとりが、合いの手を入れた。

「あんたなんかマシなほうよ。あたしなんかミニエー銃よ。古過ぎて、もう弾が入手できないわ。丸腰じゃ格好がつかないから持たされてるだけ。ただの重い杖よ、これじゃあ。良い武器はいつも、男達が優先。やってらんないったら、ありゃしない」

「そのうち、ジャベリン(投げ槍)で爆撃機を迎撃する訓練をやらされるかもね」

「ありうるー。アハハ……」


 姉はたずねた。

「民兵になったら、給料はどれくらいもらえますの?あたしは弟を養いたいんです」

(心にもないことを言ってでもラリーを続けるのが、会話のコツだ、と姉はよく、僕に言っていた。言うまでも無く、僕がそれをきわめて苦手としていたからだ)

「あらー。感心なお姉さんねー。でも、やめといた方がいいわね。給料はどんどん、現物支給の割合が増えていってるわ」

「上層部だって、腹が減ってはなんとやらってことはわかってるから、味は最低だけど餓える心配はないわね。でも、良い点はそこだけ。それも、あと1年もつかどうかよ。台所事情は男達よりあたしたちの方がよくわかってる。そして、いよいよ食料が不足しだしたら、あたしたちに銃をつきつけてでも、男たちが食料を独占するだろうってこともね」

「志願兵なんかなるもんじゃないよ。そりゃあ、あたしも革命に夢を見たクチさ。革命さえ成功すれば、貧富の格差が無くなって、家族みんな幸せになれるって、そう信じてた」

おばさん兵はタバコを少し吸って、白い煙を吐くと、話を続けた。

「……でも、気がついたらダンナも子供も死んじまってた。残ったのは、引くに引けなくなった哀れな中年女がひとり。ここで民兵をやってるのは、そんな女ばっかりよ。行き場のない夢のおがくずたち」

「ちょっと!いっしょにしないでよ!」

と、もうひとりが異議をとなえた。

「へえ、じゃ、あんたはどうしてここにいるんだい?」

「惚れた男に騙されて、うっかり入隊しちゃっただけよ」

「その、惚れた男の名前を当ててやろうか?カール・マルクスって言うんだろう?」

「おあいにくさま。フリードリヒ・エンゲルスよ」

「ぎゃははははは……」

おばさんたちの井戸端会議はとめどなく続きそうだったので、僕と姉は一礼して、そっとその場を離れた。


 そのころ、王宮前からそんなに離れていないスペイン広場に、黒山の人だかりができつつあった。だが、その喧騒・怒号は屋内の僕たち耳には、まだ届いていなかった。

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