配管工のマリオン
近くにフランコ軍の兵士がいないのを確認して、グリエゴ神父は荷馬車のくび木をロシナンテから外し、近くのアパートへ静かに僕たちをいざなった。
神父は控えめにノックして呼びかけた。
「マリオン!起きてくれ……わしじゃ。グリエゴじゃ!」
ほどなく出てきた男は毛細血管の末端までアルコールが詰まってるにちがいない、というほど酒の臭いをさせながら、ろれつの回らない口で言った。
「起きてるぜ!仕事中ら……オレ様がこんら時間まれ起きてう勤勉な配管工でよかっらな……(ヒック!)」
「仕事中?」
グリエゴ神父は聞き返した。そりゃそうだ。どうみても仕事ができる状態の人間とは思えない。ふらふらと揺れているオーバーオールを着たヒゲ面の中年男。そうとうビールを溜め込んだとみえる、まんまるいお腹。
「おうよ……ひと晩中、胃袋と口をつなぐ水道管をアルコール洗浄してたところさ……」
「マリオン、おぬし、酔っておるな?」
「あんた、オレが水やお茶を飲むために一晩中起きてたと思うろかい?」
このマリオンと呼ばれた男、ろれつは回らなくても頭は回る男らしい。この答えがマリオン氏がいつも言ってる決まり文句でなければ、だが。
グリエゴ神父はかまわず、単刀直入に用件を言った。
「おまえさんの作ったワープ・トンネルを、この子らに使わせてやってほしいんじゃ」
ワープ!意外に思えるかもしれないが、1937年当時のスペイン人には、まったく馴染みのない言葉だった。実を言うと、僕は輸入されていたSF雑誌のアスタウンディング誌をときどき読んでいたから個人的には馴染みがあった。しかし、姉は初めて聞く言葉だったにちがいない。むしろ、グリエゴ神父の口からそんな言葉が出たのが僕には想定外だった。
そんな、こっちの当惑など気にもとめず、マリオン氏はとろんとなった目で僕ら姉弟を眺めて言った。
「……おたずね者か?……んん!!、ああ……共和国派か……。めんどうに巻き込まれうのはごめんらぜ……」
だが、グリエゴ神父は脅しにかかった。
「そうかね?ところでわしはこのごろ、みょうに昔の記憶が鮮明になってきてなあ……。わしの教会を壊したのは誰か、フランコ軍に心当たりを尋ねられるたびに、思い出しそうになるんじゃよ」
「チッ……わかったよ。とんでもねえ神父だ、人の弱みにつけこんで脅しやがる」
マリオン氏は不愉快そうに毒づいた。
マリオン氏は僕たちを自分の住居をかねている店舗に招き入れた。
「こっちら。入んな。馬ごと入っていいぜ」
歩きながら説明を続ける。
「ワープなんれ言っれもわかりっこねえらろう(ヒック!)。空想科学小説って知っれるか?そんなかにな、空間をねじまげて本当だったら不可能な移動を可能にするっれえギミックがあんろよ」
とマリオン氏。
「もちろん、オレのは空間をねじまげてるわけりゃねえがな……小説から言葉を拝借して、オレの掘っら地下トンネルをワープ・トンネルってぇ呼んでんのよ。不可能な移動を可能にするトンネルらからな……」
「マリオンから何冊か借りたが、なかなか面白かったぞ。空想科学小説とやら。ちと、荒唐無稽すぎるとは思ったがな」
とグリエゴ神父。
「じゃが、あのおっぱいの大きい女性の挿絵だらけの小説を悪くは言えん」
このとき、ぼくはマリオン氏の「とんでもねえ神父」という評価に深く同意した。
マリオン氏の店舗の奥の部屋には、3つの土管が床から生えていた。あたかも星を見るイワシのように、にょっきりと。
マリオン氏は説明した。
「左がカテドラルにつながる地下通路、右のは川、真ん中の、手回し昇降機のついてるのが郊外の畑の中に出るワープ土管だ。マドリードに行きたいんなら真ん中だ」
姉はたずねた。
「おじさんが作ったの?なんのために?」
「当局にはだまっててくれよ。古代に掘られら穴居集落の跡を掘り直したんら……。オレはそこに土管を通しただけさ(ヒック!)なぜかって?ブルジョワ狩りらのユダヤ狩りらの、当節は右も左もすぐに庶民を吊るし上げようとするからな……連中が踏み込んできても、安全な場所へ逃げられるようにってぇ、か弱い庶民の自衛策ってやつら」
マリオン氏は饒舌に説明を続けた。
「ヒスパニアって知ってうか?そう、スペインのあるイベリア半島の古名らな……。ラテン語で『隠れた土地』とか『ウサギの土地』ってぇ意味ら(ヒック!)」
やばい。おっさんが退屈な長話モードに入った。
「洞窟だの地下道だのってぇのは、あんがい、じめじめして住みにくいもんらが、イベリア半島のような雨が少なく日差しの強い土地じゃ、穴の中で暮らすほうがまだマシだったんらろうぜ。すくなくとも石器時代にはな。だもんで、この国の地下は史跡に登録されてねえ穴ボコの跡が山ほどあるんら……。いっかい掘られたもんを掘りなおすのは造作もねぇことらぜ」
マリオン氏が掘り当てたのか古代の穴居集落の跡だったのかどうかはよくわからない。セゴビアには中世に城から川へと脱出する地下通路も作られていた。マリオン氏が見つけたのは、それに類する防衛施設のひとつかもしれない。
いずれにせよ、この国には古代から連綿と続く穴居の文化があった。我らラスコーの子ら、であった。
マリオン氏の言葉は切れることなく、姉へとからんできた。
「お嬢ちゃんはアナキストかい? おまえらアナキストやコミュニストが革命らんて始めなゃ、ファシストだって生まれなかったし、オレだってこんらもんを作らずにすんらんだぜ?(ヒック!)」
姉はさして政治論争ができるほうではなかった。共産主義についてあまり勉強していなかった。ドルシニオ氏、ひいてはバスク社会労働党のゲルニカ支部の人々の受け売りしか言えず、アーメンのかわりに資本論から拾ったフレーズを唱えていれば、革命が成功して格差のない社会が来る……という程度のことしか考えていなかった。これは姉がバカだったという話ではなく、当時の自由主義支持者の大半がそのレベルだったという話である。
相手は酔っ払いであり、怒らせてワープ土管を使わせてもらえなくなっても困るので、姉は慎重に言葉を選びながら、控えめに封建主義社会を批判した。
「……王制はゆっくりと社会を腐らせる死の病よ。国家を蝕む病魔を取り除く手術が必要なの。手遅れになるまえに」
「ご立派なこった。ただ、困ったことに、革命という手術はたいてい執刀医が素人なんだな」
「…………」
マリオン氏の皮肉に姉は言葉に窮した。
そう、古今東西、革命とは数十年から数百年にわたって国家の運営を続けてきた国家運営のプロの一団を追放して、新たな一団(それまで政治に関わったことの無い、あまり高い教育を受けてもいない、ならず者に近い社会の底辺の人々であることが多い)が政権を奪取することである。
ここまで何度も述べた通り、ここスペインでも持てる者と持たざる者の格差は深刻だった。19世紀のスペインでフランスほどの規模で市民革命が起きなかったのは、それだけスペイン大海圏の生み出した富がすさまじかったということだ。国家財政の破綻が先延ばしにされただけのことであり、20世紀に入ったいま、ついにスペインも庶民の生活が破綻し、ようやく市民革命が始まったのだ。
生活が破綻すれば、人々は破綻したシステムを強制終了させようと試みる。これはしかたのないことだ。プロであっても(むしろプロとして高い報酬を国民から徴収していたがゆえに)生活を破綻させた責任は免れない。これもしかたがないことだ。そして、政権を奪取した人々が問題のあるシステムをもう一度使うより、より破綻しにくいシステムの導入を試みるのも、また無理からぬことだ。
マルクスが存在しなくても、ムッソリーニがいなくても、人々はよりよいシステムを模索したにちがいないのである。導入したらかえって悪くなる可能性があっても、だ。
フランスの自由革命の成果物はギロチンの発明だった。
マリオン氏は無表情に言った。
「おれたちも生きにゃならん。お医者さんごっこで殺されるのは、ごめんだ」
20世紀に生きる僕たちは、フランス革命において、自由の名のもとになにが行われたかを知っていた。産みの苦しみを経て、フランスの自由主義が最終的には人民が主体となって運営する新しい国家システムとして、なんとか軌道にのったの隣で見ていたのがスペインだった。
民主主義社会がすばらしいのはわかる。スペインの未来のためにそれが必要だとも思う。しかし、そのために自分が危険な目に遭わなければならないとしたら、民主主義なぞクソクラエだ……それがマリオン氏の言い分だった。この点、マリオン氏は徹底して現実主義者であり、個人主義者だった。
「だからと言ってあんたの教会を壊したのはすまないと思ってるよグリエゴ。あやまる」
とマリオン氏。グリエゴ神父は懸命に、話を本題へ戻そうと努力した。
「気にするな。謝罪は行動で示せばええ」
「愚痴を言ってわるかったな、ねえちゃん。……ワープ土管を使うなら勝手にしてくれ。オレは何も見なかった。聞かなかった」
言いたいことはすべて吐いたと言わんばかりに、マリオン氏も本題に戻った。
「ワープ土管は馬も通れるの?」
と姉。それこそが大事な点だった。ぼくたちがこうして苦労しているのも、ロシナンテを隠して検問を通るのが難しいからなのだ。
「そのための手回し昇降機だ。郊外に逃げても移動手段が徒歩じゃ話にならんだろ。カンテラは通路の終わりに置いていってくれればいい」
20世紀にはいっていたとはいえ、まだまだ、いざというときは馬が頼りになる、そんな時代だった。
郊外の畑に通じるという土管には太いシャフトに支えられた、手回し式の昇降機がとりつけられていた。重労働になるだろうが、これでロシナンテを連れてセゴビアを脱出できそうだ。
「ありがとう。マリオンさん」
姉はお礼を言った。マリオンさんは団子鼻の下のヒゲの奥にかすかな笑みを浮かべて、こう言った。
「しかし我らが姫は別の城へ……だな。ご武運を、キホーテ姫」
「あたしを知ってるの!?」
「さっさと行かないと世があけちまうぜ」
酔いが醒めてきたのか、ろれつのしっかりしてきたマリオン氏はそう言った。
内戦終結後にマリオン氏から聞いた話。マリオン氏はゲルニカからセゴビアに移り住んだ人間だった。ときどき里帰りして、そのときに姉の演舞も見ていたらしい。ニコラス親方とは遠縁の親戚にあたるそうだ。セゴビアではバスク人であることを隠して暮らしていた。バスク人アナキストのテロで頻繁にカスティーリャ人が殺害されていたため、自分の出自を明らかにするのは得策ではなかった。仕事のためにも、隠す必要があった。マリオン氏は、徹底して政治的な偏りのないふつうのカスティーリャ人として周囲に合わせた。グリエゴ神父の教会破壊に参加したのも、そういう理由だった。
夜明けが近いのはたしかだった。フアン氏とマリオン氏、姉を知っており助けてくれる人に、ひと晩でふたりも出会うという幸運を無駄にするわけにはいかない。姉も僕もマリオン氏ともっと話がしたかったが、挨拶もそこそこに昇降機に乗り込んだ。ハンドルを回すと耳障りな金属音とともに、昇降機が下がっていった。
マリオン氏が掘りなおしたという古代の地下道について、特筆すべきことはない。凶暴な動物に襲われることもなかった。マリオン氏は土管のプロであり、地下の空気坑にも配慮がなされており、僕らは溜まったガスに突入して酸欠になるなんて事故も起こさず、出口側の昇降機までたどり着いた。
おもった通り、人力の昇降機で地上まで上がるのは重労働だった。交替しながらハンドルを回したけれども、体力的な理由で結局は僕が2割、姉が8割を回した。
郊外の畑に出たときはキラキラとまばゆい太陽の光に世界がつつまれていた。
僕たちの旅路には未来があると感じられた。そう、すくなくともこのときは、自由と革命の本拠地、マドリードへの期待に僕たち姉弟の胸のうちは満ち溢れていた。
「サンチョ、さっさと着替えるわよ」
と姉はぶどう畑のしげみの一角で軍服を脱ぎだした。検問を抜ければ変装に用はないが、急いだのは追っ手から逃れるためだけではなかった。姉は一刻も早くシラミの沸いたフランコ軍の軍服からオサラバしたかったのだ。ベルトをゆるめズボンを下ろすと、パンツもろだしのまま手を使わず足だけでお行儀悪くズボンを脱ぎながら、同時に上着のボタンを引きちぎって(!)勢いよく脱ぎ捨てた。
比喩ではなく、文字通りに、脱いで、捨てたのだ。あまりに勢いよく脱いだので、ブラジャーがずれて、小さな胸の頂点の銅の色のコインが跳ねるように現れたほどだった。
僕はといえば、これまた女の子の格好なんて一刻も早くやめたかったので、カチューシャをむしりとり、付け髪をはずし、スカートを下ろしたのだけど、これまた勢い余って下の服までいっしょにおろしてしまったので、スーパーキノコがポロリして右に左にいったりきたりする有様だった。
「ねえちゃん……、見えてる」
おもわず僕は口走った。家族が相手ならなんとかしゃべることができるのは、これまで述べた通り。
「見えてるのはあんたでしょーが!」
と反射的に答える姉。
僕と姉は互いの恥ずかしい部分を目の当たりにし、相手の視線から自分の恥ずかしい部分が丸見えになってることに気付き、気まずさと照れ笑いを共有した。
そうして、赤面しながら着替えを終えてロシナンテに乗り込むと、希望の都・マドリードへ続く黄色いレンガの道を進みはじめたのだった。
そのとき、丘の上から僕たちを双眼鏡で見下ろしていた人影には気付きもしなかった。
そして、その人物もまた、丘の下をマドリードに向かってひた走るテロリスト、すなわち千の手配書を出された男ことミル・カラニアヤシに気付いていなかった。
空は快晴であったが、比喩上の風雲は急を告げていたのである。
第3章はこれで終わり、次話から第4章です。