破壊されていた教会
「たしかにこの住所であってるはずなんだけど……」
姉は不安げに何度も地図と瓦礫を交互に眺めた。そのとき、いかにも神父らしい服を着て十字架をさげた老人がとおりがかった。おそらく、この人がグリエゴ神父だろう。そうじゃなくてもこの街の神父なら何か知っているにはちがいない。姉は老人にたずねた。
「あの……、このあたりに聖アントニオ教会ってありませんか?」
頭の禿げ上がった浅黒い老人は、垂れ下がった長くて白い眉の下から姉をジロリと見ると、わかってるんだろう?という顔で言った。
「目の前のクソ溜めになっとる残骸がそれじゃよ。そしてお察しのとおり、わしが神父のグリエゴじゃ」
姉は手紙を差し出して言った。
「ブルゴスのペリーヌに紹介してもらったんです。あなたを頼るようにと……」
声に不安がまじっていた。無理もない。この状況では、むしろグリエゴ神父こそ助力を必要としているように思えた。
差し出された紹介状を読んで、神父はにらむように質問した。
「バスク人か……。アナキストかね?」
スペイン内戦中、自分がどの政治イデオロギーに属するかは、子供でなければ誰もが意識していることだった。共和国派であればコミュニスト(共産主義者)かソーシャリスト(社会主義者)かアナキスト(無支配主義者)か。ナショナリスト派であっても、コンサヴァテヴ(保守主義者)なのかファシスト(団結主義者)なのかアンチコミュニスト(反共産主義者)なのか。
共和国派を構成するリベラリストたちが一枚岩でなかったのは有名だが、ナショナリスト派とて、全員がファシストではなかったのである。
バスク人はずっとバスク地方の自治を求めており、伝統的にアナキスト(無支配主義者)だった。アナキズムはよく、無政府主義と誤解される。僕がいちいち無支配主義と書いているのは誤解してもらいたくないためだ。アナキストは大きな組織や権力による支配を否定しているだけで、無政府状態(と、それにともなう無秩序)を求めているわけではない。支配・被支配という一方的な関係ではない、双方向の秩序を望むのがアナキストなのだ。その別の秩序とやらがどういったシステムなのか、アナキストたちも統一見解をもってない節があるが、ともかくそういうことだ。むろん、姉もアナキストだった。ドルシニオ氏と交際していたときは特にそうだった。
そして、重要なことはマルクス=レーニン主義は神を信じなかったことだ。共産主義者と社会主義者は当然のように無神論者になり、宗教を攻撃した。そして、アナキストもその影響を色濃く受けた。むしろテロリズムの行使ではアナキストの方が過激だった。共和国派の支配地域では教会が襲撃されることが少なくなかったのである。
あいにく、ゲルニカのような古い街のアナキストは、そこまで先進的かつ過激な思想に染まっていなかった。したがって僕たち姉弟も左翼による教会破壊の実例を見たことがなかった。いま、このセゴビアで見たのが初めてのそれだった。
グリエゴ神父はアンダルシア人やバスク人を差別しないとペリーヌさんは言った。だが、コミュニストやアナキストだったら?神を信じないと公言してはばからない人々──それどころか、教会を破壊する人々に、神父は救いの手を差し伸べるだろうか?それを期待するのは、あまりに虫が良すぎる。
だが、姉は臆せずに真実を述べた。
「ええ、少し前までは。……今は、生きのびるのに精一杯で、政治のことはどうでもいいです」
グリエゴ神父は干しトマトのようなしわくちゃ顔をピクリとも動かさずに言った。
「……正直な娘じゃ。感心したぞい。」
「生きるので精一杯か……。いまの世の中ではだれもがそうじゃ。恥じることはない」
神父は少し歩いて、破壊された教会をあごでしゃくって、話を始めた。
「この教会はの、アナキストとコミュニストに壊されたんじゃ。ちょうど内戦が始まったころ……まだ、この街が左翼たちに支配されとったころじゃ」
姉は返事をせず、だまって聞いていた。
「正確には、壊したのはアナキストとコミュニストではなく、彼らを恐れたノンポリの中産階級の街の人々じゃ。決して裕福ではないが、貧しくもない。もしも左翼からブルジョワのレッテルを貼られたら、自分たちの命が危なかった。だから、共産主義者の嫌う『宗教』を攻撃することで、左翼におもねろうとしたんじゃな。私たちは左翼を支持しています!……というわけじゃ。そう考えた街の人々に教会は破壊され、これみよがしに公衆便所の代わりにされた」
田舎者の僕たちは想像もしていなかったことだが、おそらく、それはセゴビアだけでなく共和国派が支配した都市のすべてで起こったのだろう。神父は話を続けた。
「知ってのとおり、「知ってのとおり、共和国派は敗退を続けておる。左翼はセゴビアから撤退したんじゃ。教会を壊した街の人々はどうしとるかって?手のひらを返して、こんどはナショナリスト派に媚びを売るのにやっきになっておるよ。ファシストの旗をふって万歳を叫んでおる。アカの手先だとレッテルを貼られたら命が危ないからな」
神父は振り返って、姉の目を見つめながら言った。
「……いまは、誰もが生きのびるので精一杯。それを責めることはできん」
姉は、なおもだまって聞いていた。もしかしたら痛烈な皮肉を練りに練っていただけかもしれないが、姉は息するように皮肉を言うタイプであり、熟慮して皮肉を言うタイプじゃなかった。たぶん、話を真面目に受け止めていたのだろう。
神父はかるく溜息をついて言った。
「やれやれ……あのおっぱいの大きい娘のたのみとあっては断れんわい。わしのバラックに来なさい。野宿するよりはマシじゃろう」
またもペリーヌさんに助けられた。この場合、感謝の対象はペリーヌさんなのか、ペリーヌさんのおっぱいなのかはさておき。
日が暮れた。エレスマ川の河川敷にトタン板や廃材を組み合わせただけの、電気のきていない粗末なバラックが建ち並んでいた。グリエゴ神父のように左翼に襲撃されて家や財産を失った元資本家や戦争孤児らがここで暮らしていた。神父のバラックで粗末なスープをすすり、ゆらゆら揺れるたよりないオイルランプの灯火のもと、僕たちはセゴビアの大通りを抜ける方法を話し合った。