謎の覆面男
謎の覆面男の声には聞き覚えがあるような気がした。だが、今は男が何者かより、姉の方が大事だ。ロシナンテは旋風のような速さで疾走し、姉に向かってジャンプした。そして、固い鞍で姉を受け止めたりせず、尻のあたりで上手に姉をバウンドさせた。前にも言ったが、僕たちのロシナンテは初代キホーテのロシナンテとちがい、賢くて体格の良い名馬なのだ。
バウンドしてくるくる回転しながら落下する姉の体を、謎の覆面男がロングパスを受けるラグビー選手のようにダイビングキャッチした。ズザザザザーッ。石畳なので、けっこう痛かったはずだが、覆面の下の表情はよくわからなかった。覆面男は手早く、姉の体の銃弾の当たった場所を調べた。
「ガラ!だいじょうぶっ!?」
ようやく硬直のとけたペリーヌさんがかけよる。覆面男が答えた。
「弾は尻をかすっただけだ、命に別状は無い」
「お、おしり!?」
反射的にペリーヌさんは吹きだしかけた。
「……映画や小説なんかじゃ、たいがいこういうとき、かすめるのは肩だと相場が決まってるものだけど……おしりかー。そうかー」
感慨深げなペリーヌさん。たしかに、姉の着てる修道服の腰のあたりに長い穴が開いていた。
覆面男にお姫様だっこされた姉が、ようやく口を開いた。
「あの、あなたは……?」
だが、覆面男は姉の問いに答えず、懐から自動拳銃を出しながら言った。
「いいからはやく逃げるんだ。追っ手の残りはオレが引き受ける」
見張りのため尖塔に登らなかった、わずかに残った無傷の反乱軍兵士たちが体制を整えてこちらに向かってくるのが見えた。ぐずぐずしてるひまはない。
僕はリュックをせおいロシナンテにまたがった。姉もロシナンテに乗ると、かかとでロシナンテのわき腹を蹴って全力疾走を命じた。そして去り際にふりかえってこう叫んだ。
「ありがとう!ドルシニオそっくりの声の人!」
姉はしばらく立ったままロシナンテの手綱をとりつづけた。座るとおしりが痛かったのだろう。郊外へ入り地平線まで畑が続く景色になって、追っ手の姿の無いことを確認して、ようやく姉はロシナンテを休ませた。さすがのロシナンテも息が荒い。
しばらく、姉の表情は暗かった。おしりの痛みのせいではないことは僕にもわかった。とはいえ、沈黙は僕にとってまったく苦ではなかったから、僕もずっとだまっていた。とうとう、姉が話し始めた。
「まだドルシニオを愛しているのかって聞きたいんでしょ?まったく、子供のくせにませてるんだから……」
べつに、そんなことを聞きたいとは思ってなかった。が、姉は勝手に僕の質問を捏造して、それに答え始めた。
「……好き合っていることと、相性の問題は、別なのよ……」
さびしげに姉はそう言った。二人とも、愛が冷めたわけではなかった。だが、二人でいるとすぐに口論になってしまうこと、それを回避するには別れるという手段しか、若い二人には思いつけなかったのだ。
あの覆面男がドルシニオ氏だと仮定してみよう。ドルシニオ氏が生きているということは、ゲルニカではあの大規模な空爆のあと、地上戦が行われなかったのだろうか?僕たちが逃げ出す理由は無かったのだろうか?
いや、地上戦が行われなかったとするなら、ドルシニオ氏が覆面をしてブルゴスまで来る理由は?ストーカーをするほどドルシニオ氏が姉に未練を持っていたとしても、覆面で正体を隠す必要は無い。だとすれば、やはりゲルニカは反乱軍に制圧され、有力な社会党員であるドルシニオ氏は脱出し正体を隠してゲリラ活動に身を投じることになったと見るべきか。僕たちがあのままゲルニカに残っていたら、プチ有名人である姉は反乱軍兵士から優先順位の高い「レイプ対象者」と見なされただろう。
では、なぜドルシニオ氏はブルゴスに来たのか。ひとつの可能性は、ブルゴスがこの地方の大都市だから。僕たちが旅支度を整えるため立ち寄ったのと同じ理由だ。もうひとつは、先に言ったようにドルシニオ氏が姉のことを心配して追ってきた可能性。姉はゲルニカを出るとき、はっきりと「南へ行く」とドルシニオ氏に宣言していた。
覆面男がドルシニオ氏ではない可能性は?覆面男はロシナンテの名前を知っていたが、キホーテ家の春祭りの演舞を見ていれば、姉の顔や馬の名前くらいゲルニカの者じゃなくても覚えられるかもしれない。だが、その場合、男が何者かなんてことは考えても意味がないので、ひとまず覆面男の正体はドルシニオ氏ということで姉弟の意見は一致した。
「もう、やめましょ、こんな話。……あ、そうそう!」
姉は強引に話題を切り替えた。
「あんたもキホーテ家の一員だからわかってると思うけど、さっきのあれはれっきとした技だかんね!あたしのこと、痴女だと思ってないでしょうね?サンチョ」
顔をズイと突き出してすごまれた。むろん、わかってる。姉が尻っぱしょりにした瞬間から何をするか悟り、前日にそれを思い出させるような話題を振ってしまったのを後悔したのは、先述した通りだ。
「ほかに手はなかったんだから!あの場合、ああするしかなかったんだから!」
ほんとうにそうだろうか?
「痴女じゃないから!ほんとーに、痴女じゃないんだから!」
それからセゴビアに着くまでの数日、姉は折に触れて言いつづけた。
なお、これはあとになってペリーヌさんから聞いた話だが、案の定ペリーヌさんの立場はこの事件ののち、非常にまずいものとなった。反乱軍は教会寄りの建前があるので暴力がふるわれることはなかったが、連日、反乱軍による呼び出しと尋問が行われたそうだ。ペリーヌさんはあっさり口を割り、僕たちの次の目的地・セゴビアは反乱軍の知るところとなった。ただしペリーヌさんは紹介状のことは漏らさなかったので、僕たちが頼る予定の教会まではバレなかった。
僕たちのせいで尋問される羽目になったことをわびると、ペリーヌさんはケロッとした顔で言った。
「胸をゆっさゆっさ揺らしながら謝ってたら、いつのまにか尋問がうやむやになっちゃった」
居合わせた軍のお偉方が、
「この神に祝福された胸の持ち主がアカであるわけがない!」
と太鼓判を押したとかなんとか。まあ、いずれにせよ、よかったことである。
僕たちがセゴビアに向かっていたその頃、セゴビアに駐留してる反乱軍部隊に検問強化の電信が届いていた。命令はガラ・サルヴァドール・キホーテの捕獲。姉が反乱軍に与えた損害は微々たるものだったが、反乱軍にとっては潰された面目の回復こそが何よりも重要だったのである。道という道に検問所が設置された。
この章はこれでおしまいです。
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