教会の尖塔に登って姉は叫んだ
「あなたひとりならなんとか出て行けると思う」
という姉の言葉は正しかった。メガネを外して、あとは堂々としているだけでよかった。追っ手は僕に気付かないか、気付いても追ってこなかった。出入口が封鎖してあるから安心だと思っていたのだろうか。
追っ手の人数はわからなかったが、せいぜい二十から三十名くらいだろう。ブルゴス大聖堂のような建物を封鎖できる人数ではない。正面玄関ほか主要な出入り口には見張りがいたけど、小さな勝手口や大きな窓からの脱出は容易だった。僕はその中のひとつから音もなく外へ抜け出した。
さて、ロシナンテのいる厩舎はどこだろう?聖堂内部でいやというほど迷った僕が、簡単に厩舎を見つけられるとは思えないけど……。と、キョロキョロしている僕に向かって小さな声が飛んできた。
「あ!サンチョくん!よかった、無事だったのね!」
ふりかえると、ペリーヌさんがロシナンテを連れて立っていた。かたわらには僕たちの旅行荷物を入れたリュックまで。これには頭が上がらない。
僕がうまくお礼を言えず、モゴモゴと言葉に詰まっていると、ペリーヌさんは察して言った。
「あー、いいのいいの。お礼なんてほんの百万ペセタ出世払いでいいのよ。そんなことより、ガラが大変なことになってるわよ」
ペリーヌさんの手にはオペラグラスがあった。僕が教会の尖塔を見上げると、白い柱を黒い修道服のまま登っていく姉の姿が見えた。ここからだとまるで黒焦げのレンズ豆のようだ。
それにしてもオペラグラスとは。いくらなんでも用意がよすぎないか?
いぶかしんでいるのが顔に出ていたのだろう、ペリーヌさんは説明をはじめた。
「こういう天井の高い教会が職場だと、いつも持ち歩いてるとなにかと便利なのよ。掃除のときとか案内のときとかね。オペラグラスはあたしなりの七つ道具のひとつってこと」
そういうと、そのままオペラグラスを片手に、尖塔を登っていく姉の実況を始めた。
「もうかなり先っぽの方まで登ったわ。追っ手は二十人くらいかしら?人民戦線の民兵もまじってるけど、反乱軍からちょっと距離を置いてる。」
ペリーヌさんはあきらかに状況を楽しんでいた。心配しているような雰囲気はなかった。
僕は別れたときの姉の自信に満ちた表情から、何か策があるらしいとは思っていた。だが、ペリーヌさんはどうだろうか。僕は正直に言って、なんとかできるとは思ってなかった。姉はいつも自身たっぷりに後先を考えずに行動して自分の首を締めるタイプだったからだ。
もしかするとペリーヌさんは、僕を心配させまいと演技していたのだろうか?
いや。不自然な点は見当たらなかった。親友が持つ根拠のない確信に満ち溢れた表情をしていた。──あいつなら、やってくれるはず。あいつのことは家族以上にあたしがわかっている──そういう顔を。
「あ……」
その、笑みを含ませて見守っていたペリーヌさんの眉間がすこしせばまった。
「ガラったら、雨どいに板をかけて足場にして、トゥニカの裾をたくしあげはじめたわ」
姉は修道服のすそを帯紐にゆわえたらしい。尻っぱしょりである。さすがに女性が袖まくり・裾まくりするのをハレンチだと思うような時代は過ぎ去っていたが、下着まで見えるような姿がはしたないのは現在でも同じだ。1937年ならなおさらである。聖職者であるペリーヌさんの表情が曇るのも無理はない。
「動きやすいようにってことかしらね……まさか、いくらガラが向こう見ずでも、この高さから飛び降りたりしないわよね。80mはあるのよ」
ビルで言えば25階建てくらいだろうか。だが僕は、尻っぱしょりにしたと聞いて、ますますいやな予感がした。確信に近い予感が。なにせ昨日の道中にその話をしたばかりなのだ。そして確信は確認に変わった。ペリーヌさんがうろたえながら言ったのだ。
「しししし、下の服をぬいだあああああっ!」
下の服。すなわちショーツだとかパンティなどの下着を指す、スペインでの言い方だ。姉はそれをおもむろに脱いで仁王立ちになったらしい。
下の服などないっ!である。
僕はもちろんオペラグラスなんか持ってない。約80メートル先の人間がノーパンかそうでないか……地上の僕が視認できるものではなかった。
だが、下半身の大事なところをあらわにして仁王立ちで見下ろした姉の発した、澄んだ、朗々たるラテン語は下界の僕たちの耳にもかすかに届いた。姉はこう言った。
「エッケ・メー(私を見よ)!」
キリスト教美術の人気ジャンルの「エッケ・ホモ(この人を見よ)」のもじりにはちがいない。もじったことで教会関係者から叱られなければよいのだが。この言葉を発して、数秒。追っ手の視線が自分に釘付けになったのを確認して──正確には、自分の股間に釘付けになったのを確認して──姉は、静かに、ゆっくりと、美しい弧を描く側転をした。
くるり。その大事な部分の残像は兵士たちの目に焼きついたことだろう。ゆっくりと空中を舞う、白パンにはさんだパプリカ・ムースとプチトマトとピンク・サーモン(この比喩は姉による表現だ。ペリーヌさんはこの比喩について「ピンクぅ~?」と疑問を呈したが女の友情を尊重しそれ以上は追求しなかった)。兵士たちは動きにあわせて目を動かし、頭を動かし、体も動かした。
追っ手の半数が落下した。




