王太子に手放された公爵令嬢、トンビにさらわれる
ベニー・ド・モンタランベール公爵令嬢は、法律の一行に人生を変えられた。
この世界には『番』というものがある。
出会った瞬間、互いの胸が高鳴り、「この人だ」と分かるのだという。
かつて悪しきものが地上を覆ったとき、それに抗った人間たちがいた。
神は彼らに獣の力を授けた。
力を得た者たちはやがて男女一組の番を成し、その絆によってさらなる力を開花させた。
悪しきものを打倒した後、それぞれの故郷へ戻り、各地に国を興した。
王侯貴族の子孫に番が現れやすいのは、そのためだと伝えられている。
番と結ばれた者たちは互いの能力を高め合い、大きな力を発揮する。
ただ傍にいるだけで心が凪ぐのだともいう。
その穏やかさは周囲にも広がり、人々の暮らしは安定し、国は豊かに栄えていく。
それゆえ、運命の相手を求める者は少なくなかった。
番に出会うため獣の姿を取る者もいた。
白鳥になった伯爵令嬢、狼になった騎士団長、兎になった聖女。
歴史書には、そうした美しい逸話が並んでいる。
ただ、大半の者は番など見つからぬまま普通に結婚する。
番以外を伴侶に選べば、想いはやがて消えるとも言われている。
こうして、番に出会える者は年々減っていった。
いまや番は一種のおとぎ話だ。
王国の婚姻法にも『番が見つかった場合は既存の婚約に優先する』という但し書きが、一行残っているだけである。
彼女の運命を変えたのは、その一行だった。
*
春の暖かさが増した、王宮の大広間。
「ベニー。君との婚約を破棄する」
王太子エルヴェ・ド・リュクスールは、大勢の貴族が見守る中でそう宣言した。
金髪碧眼、容姿端麗。王族としての気品に溢れた青年だが、今その瞳は隣に立つ栗色の髪の令嬢にしか向いていない。
「番が見つかった」
エルヴェが示したのは、男爵令嬢ルシール・ド・ラ・モット。
社交界入りしたばかりの十七歳。大きな薄茶の瞳に桃色の頬。小動物のような愛らしさがある。
会場がざわめいた。
「番ですって……?」
「王太子殿下に番が見つかったの?」
「あの令嬢が?」
ベニーは、その喧騒の中で静かに立っていた。
白金の髪に青灰の瞳。二十二歳。王太子の婚約者となって五年だった。
王太子妃教育を完璧にこなし、外交儀礼から財務管理まで一通り心得ている。
社交界では『氷の令嬢』と呼ばれているが、本人としてはただ合理的なだけのつもりだ。
エルヴェの顔を見ても、胸は痛まない。
ああ、そうですか――という感想が、静かな湖面のように広がっただけだった。
「殿下」
ベニーは完璧な角度で一礼した。
「長い間お世話になりました。番をお見つけになったとのこと、おめでとうございます」
エルヴェが一瞬たじろいだのが見えた。
あいにく、五年の王太子妃教育には感情の制御も含まれている。
ベニーは踵を返した。
背後で「なんと冷静な……」という囁きが聞こえたが、気にしない。
今夜のドレスは裾が長い。階段で踏まないことだけに集中した。
残された貴族たちは思い思いに語り合った。
「番なら仕方ないわね」
「王太子殿下もまあ、お若いから」
表向きは穏やかだ。番制度は婚姻法で認められている。法的に問題はない。
ただし。
「……五年の婚約の後で、番が現れるなんて」
「お気の毒に」
扇の陰に隠した溜息は、確かにあった。
翌日の夕方、侍女がおずおずと報告した。
「……お嬢様。社交界では『氷の令嬢』改め『鋼の令嬢』という渾名が……」
「的確ね」
ベニーは紅茶を一口飲んだ。
悔しくもなければ悲しくもない。王太子に恋をしていたわけではないのだ。
政略だったとはいえ、心を通わせることができなかったのは不本意ではあった。
なぜかエルヴェに対して興味を持てなかった。
せめて、もう少し歩み寄れていたなら、彼もこんな切り出し方をせずに済んだだろうか。ほんのり申し訳なく思った。
番を見つけたというなら否はない。
ただ、王太子妃教育が無駄になったという事実だけは、わずかながら腹立たしかった。
「まあ、いいわ」
ベニーは窓の外を眺めた。
「人生の第二章といきましょう」
*
婚約破棄から三日後の夜。
ベニーは自室で書類を整理していた。王太子妃教育で使った資料のうち、自宅に持ち帰っていた分を王宮に返却しなければならない。
王家の情報も含まれるため他人の手には任せられず、自分でまとめる必要があった。
外交史年表、各国王族の系図、宮中儀礼の手引き――机の上に積み上げると、ちょっとした砦になった。
「……五年でこんなに」
感慨よりも呆れが勝った。
ふと、男爵令嬢のことが頭をよぎる。彼女はこれほどの教育を課されずに済むのだろうか。
ベニーだって、本来は二年で終わるはずだった。それがあれもこれもと際限なく増やされた。
勉強が嫌いではなかったから耐えられたが、本当に必要だったのか。
そもそも、なぜ王太子妃教育に貸借対照表が含まれていたのだろう。実務を担うのは役人のはずだ。
(……実は職業訓練だったのでは?)
王妃陛下の慈悲深い教育方針などではなく、単なる嫌がらせ――あるいは、都合のいい働き手が欲しかっただけかもしれない。
考えが悪い方へ向かってしまう。
ベニーは小さく息を吐いて、窓を開けた。
夜風が心地いい。
バサッ。
バルコニーの手すりに、鳥が止まった。
茶褐色の羽根に鋭い嘴。普段見かける鳥よりずいぶん大きい。
「……鳶?」
ここは王都の中心部にある公爵家の別邸だ。猛禽類が飛んでくるような場所ではない。
鳥はじっとベニーを見つめていた。
「珍しいわね。迷子かしら」
バルコニーに出た瞬間――。
「やっと見つけた」
鳶が喋った。
輪郭が光に包まれ、ぐにゃりと歪む。
「……!?」
男が立っていた。
黒髪、灰色の瞳。二十代半ばだろうか。長身に軍服をまとい、精悍な顔立ちにどこか疲れた表情を浮かべている。
「君に会いに来た」
男は当然のように言った。
ベニーは三秒ほど沈黙した。
王太子妃教育で『鳶が人間に変身した場合の対処法』は習っていない。
「……誰?」
「オットー・フォン・ゾルデン=ヴェルター。隣国ゾルデン帝国の皇族だ」
「存じ上げないわ」
「知らなくて当然だ。皇族でも傍流だから」
「隣国の方が、なぜ空から公爵邸に」
「番を探していた」
ベニーの動きが止まった。
番。今いちばん聞きたくない単語だ。
「……なぜ鳶?」
この国では鳶は『盗み鳥』と呼ばれている。他の鳥の獲物を横取りすることから、裏切り者の象徴として嫌われていた。
「この国での印象が悪いのは知っている」
沈黙が降りた。
*
「説明していただけますか?」
ベニーは侍従と侍女を呼んでから、オットーを部屋に迎え入れた。
二人はバルコニーに見知らぬ男がいることに目を丸くしたが、主人が落ち着いた様子なので口を挟まなかった。
両親は外出中だった。応対は自分でするしかない。
ソファに腰を下ろし、オットーには来客用の椅子を示した。
紅茶と小菓子も用意させる。非常時であっても礼儀は忘れない。
オットーは椅子に座った。軍人らしく姿勢がいい。
「どうして、服を着ているのかしら?」
「いきなりそれなのか?」
だって仕方がない。気になったのだから。
狼になった騎士団長が人に戻った瞬間、社交界を別の意味で騒がせた逸話は有名である。
「この服は帝国の宮廷魔術師が仕立てたものだ。変身に追従する。ただし一着作るのに半年かかるから、今は三着しかない」
(洗濯の都合で、番探しに出られない日があるのね……)
ベニーは紅茶を一口飲んで、気持ちを切り替えた。
「整理するわね。あなたは鳶に変身する体質で、番を探して飛んでいた。そしてここに辿り着いた」
「そうだ」
「つまり、私があなたの番だと?」
「会った瞬間に分かった」
オットーが真っ直ぐにベニーの目を見た。灰色の瞳に迷いはない。
ベニーの胸の奥で、何かが反応した。
心臓の鼓動が乱れる。体の芯が、じわりと熱くなる。
五年間エルヴェの隣にいて、一度も感じたことのないものだった。
「え」
「――やっと見つけた」
オットーが繰り返した。さっきよりも、ずっと柔らかい声で。
ベニーは自分の胸に手を当てた。
教科書で読んだことはあるが、実際に体験すると全くの別物だ。
「……本当に番なのね」
ベニーは深く息を吐いた。
三日前に「番が見つかった」という理由で婚約を破棄され、三日後に自分の番が鳶の姿で空から飛んできた。
噂はすぐに王都の社交界へ広まった。
「お耳に入りまして? 公爵家のご令嬢が、空からのお迎えを受けたそうですのよ」
「なんでも、鳶のお姿で参られたとか。――まあ、白馬ではなく翼でいらしたのね」
鳶という鳥の印象よりも、空を駆けて番のもとへやって来たという情景が人々の心を動かしたらしい。
そして、ある言葉が貴族たちの間を瞬く間に駆け巡った。
「ご存知かしら。遠い国には『鳶に揚げ菓子をさらわれる』という諺があるそうですわ」
「まあ。――揚げ菓子が何を指すのかは、申し上げるまでもございませんわね」
*
王宮。
エルヴェは、側近からの報告を聞いて固まっていた。
「……鳶?」
「はい。隣国の軍人が、鳶の姿でベニー嬢の元に現れたとのことです」
「番だったのか」
婚約を破棄したのは自分だ。ルシールが番だと宣言したのも自分だ。もうベニーに対して何かを言う権利はない。
分かっている。分かっているのだが。
「鳶に取られたのか……」
「殿下、正確には『番が見つかった』だけで――」
「つまり私は何だ。揚げ菓子を持っていたのに自分から手放した間抜けか」
「……そこまでは誰も」
「思ってるだろう」
側近は目を逸らした。
エルヴェは天井を見上げた。
後悔はある。五年間、隣にいてくれた。完璧に公務をこなし、自分の足りない部分を補い、黙って支えてくれた。
正直に言えば、ルシールに惹かれた理由は単純だ。若くて可愛かったからだ。
五年変わらず隣にいるベニーより、眩しく見えた。
――だが、そんなことは王太子として口が裂けても言えない。
だから「番」という言葉を使った。番なら仕方ない。便利な言葉だった。
この国では久しく番は現れていなかった。法律だけがそのままだ。
変更すべきではないかと意見したことがあるが、近隣国では番が現れた実績がある、番がいれば豊かさが保証されると却下された。
その後もずっと番が現れることはなかった。だから逆手に取った。
ベニーの表情を崩したいという気持ちも、少しはあった。
なのに。
ベニーに本物の番が現れた。
エルヴェは思った。
自分が婚約を破棄せずとも、ベニーの方から申し出ただろう。番が現れた以上、そうするのが道理だ。
いや。あの生真面目な彼女のことだ。番が現れようと決められた婚約を律儀に守り通したかもしれない。
――どちらだったのだろう。
「殿下」
側近が遠慮がちに言った。
「『王太子と令嬢にそれぞれ番が見つかるのは、確率的にありえないのでは』という声が出ております」
エルヴェは頭を抱えた。
ルシールとの『番』が本物かどうか、今さら検証されたらどうなる。変身もしていない。ただ「番だ」と宣言しただけだ。
ベニーの番は実際に獣の姿で現れている。
比較されたら終わりだった。
*
数日後。
ベニーは客間でオットーと向かい合っていた。
今度は玄関からの正式な訪問だ。公爵家の当主である父も同席している。
「――つまり貴殿は、ゾルデン帝国の皇族で、現役の軍人である、と」
父――モンタランベール公爵は、一語一語を確かめるように言った。
「はい。皇族とはいえ帝位継承権は十七位。実質的には無いに等しい」
「軍での階級は」
「少佐です」
「二十代で少佐。……優秀だな」
「恐縮です」
公爵は娘を見た。
「ベニー、お前はどう思う」
「何がですか」
「番だということについて」
「本物です。心で分かりました」
「そうか」
ベニーは紅茶を飲んだ。オットーも公爵も紅茶を飲んだ。
三人とも同じ拍子でカップを置いた。
「まあ」
公爵が口を開いた。
「番であるならば問題ない」
オットーは居住まいを正した。
「モンタランベール公爵。ベニー嬢との婚姻をお許しいただきたい」
「お父様。私の意見は」
「もちろん聞く。反対なのか?」
ベニーは口を開きかけて、いったん閉じた。
オットーの目を見ると、胸の奥が温かくなる。
「……反対では、ないけれど。出会ってすぐ結婚だなんて」
「三年待たされた後だ。これくらいの速度でちょうどいい」
王太子妃教育の基礎が終わって三年、一向に話を進めない娘の婚約者を見守ってきた父の怒りが、ほんのりと滲んでいる。
「王太子の元婚約者が隣国へ嫁ぐとなれば、面白く思わない方もいらっしゃるかもしれません」
ベニーが静かに切り出した。公爵は片眉を上げただけだった。
「心配には及ばない。――先日、殿下がどのような『番』をお連れになったか、私はよく覚えている」
穏やかな声だった。しかし、その目は笑っていなかった。
「あの場にいた者は限られる。もし娘の縁談に異を唱える方がいるなら――少々、記憶を辿る必要が出てくるかもしれないな」
オットーがわずかに唇の端を上げた。精悍な顔に少年のような笑みが浮かぶ。
「――鳶だが」
オットーが言った。
「大切にする」
不器用な宣言だった。
でも、嘘はなかった。
婚約が正式に発表されると、社交界は再び騒然となった。
「お相手の方、番を求めて空を飛び続けていらしたそうですわ」
「殿下が新しい花に目を移されている間に、あちらはたったお一人を探していらした。……どちらが誠実か、皆様もうお分かりでしょう?」
「揚げ菓子……いえ、ベニー様のお幸せをお祈りいたしましょう」
「「「今、揚げ菓子とおっしゃいましたわね」」」
上品な笑い声が、部屋を満たした。
*
一方、王宮ではエルヴェが胃を痛めていた。
「殿下、来週の議会ですが、『番制度の運用に関する質疑』が提出されております」
「……私に対する当てつけか」
「正式な議題です。番であるという申告に、検証制度を設けるべきではないか、と」
つまり――番だと言い張るだけで婚約を破棄できるのは問題ではないか、ということだ。
完全に自分のせいだった。
エルヴェは両親――国王と王妃に呼び出された。
「法には番の真贋を判定せよとは書かれていない。……偽っても益がないからだ」
エルヴェが怪訝な顔をすると、国王が続けた。
「番は結ばれると生涯離れられない。つまり、エルヴェ――お前は何があろうと、あの娘と添い遂げなければならない」
王妃が言った。
「あの娘の教育が滞っているのは知っています。ベニー嬢が優秀だったから、ついあれこれ教えてしまったけれど……とてもあのレベルには達しそうにないわね」
エルヴェは言った。
「学べばすぐに身に付くでしょう。私もベニーもそうでした」
「ベニー嬢と呼びなさい」
王妃が厳しい顔をする。
「彼女は優秀なのよ。他の貴族令嬢に、ましてや男爵令嬢に同じことを求めるのは無理なの」
王妃は一呼吸置いて、続けた。
「私は女性の官吏を登用する計画を立てていたわ。優秀な女性を使わないのは国の損失よ。そして王宮に勤める女性の管理は王妃の仕事でもある」
瞳に残念そうな色が浮かぶ。
「管理するには実務を知っておくべき。私も学んだわ。だからベニー嬢にも同じ教育を授けた。……夢物語になってしまったけれど」
国王が口を開いた。
「番が国益になるからと、お前が婚約を結び直すのを許可した。ならばベニー嬢の結婚も認めねばなるまい」
「あなたに理解させてやれなかった。私のせいでもあるから力は貸すわ……」
王妃は溜息をついた。
「せめて、あの娘がお飾りの王妃としてでも務まるよう、なんとかなさい」
エルヴェが執務室に戻ると側近が声をかけてきた。
「殿下。社交界で新しい慣用句が流行っているようでして」
「聞きたくない」
「『鳶にさらわれる』――油断すると大切なものを失う、という意味だそうです」
「だから聞きたくないと言っただろう!」
廊下を通りかかった侍従が、小声で呟いた。
「……さらわれ殿下、今日もお元気そうで」
その渾名が本人の耳に届くのは、もう少し先の話である。
*
婚約者となり、ベニーとオットーは少しずつ互いを知っていった。
オットーは臨時の外交特使としてこの国に滞在することとなり、その間、公爵家の邸宅で暮らすことになった。
オットーは朝が早い。軍人の習慣だ。
ベニーも朝は早い。王太子妃教育の名残である。
二人の朝食は、いつも静かだった。
「このパン、美味しいな」
「はい」
会話はこれで終わりだ。
侍女たちは最初、心配した。
「お嬢様、オットー様とはうまくいっているのですか……?」
「ええ、とても。必要なことは話しているわ」
侍女たちは納得しなかったが、数日後、二人が並んで本を読んでいる姿を見て理解した。
言葉は少なくても、空気が柔らかいのだ。
エルヴェと一緒にいた時のベニーは、常にどこか張り詰めていた。
オットーと一緒にいる時のベニーは――ただ、そこにいた。
肩の力が抜け、時折、本から目を上げてオットーの横顔を見つめる。
その時の表情を、侍女たちは見逃さなかった。
「お嬢様、笑ってますね」
*
ある日の午後。
オットーが庭で鳶の姿に変身しているのを、ベニーは見つけた。
「何をしているの」
鳶は木の枝に止まっていた。茶褐色の羽根が風に揺れている。
「飛びたくなった」
ベニーはベンチに座った。鳶――オットーが枝から降りてきて、隣に止まった。
「私も獣に変身できたらいいのに」
「昔は番の両方が変身できたそうだ。血が薄まって、今は片方だけになった――番を探す側だけが、獣になると聞く」
「つまり私は、待っていた側ということね」
「そうだ。――ずいぶん待たせた」
「どの獣になるかは、どう決まるの?」
「本質で決まる」
「つまりあなたの本質が鳶だと?」
「そういう言い方をするな」
「でも実際、空から私を見つけたのでしょう」
「……そうだな」
王国では、鳶は横取りの鳥として嫌われていた。
だが帝国では『天の道を知る鳥』と呼ばれる。どこまでも高く上がり、ただ一つを見つけ出す鳥として古くから番の象徴とされてきた。
「なら、ぴったりじゃない」
オットーの声が低くなった。
「空の上から見ると世界は広い。どこまでも続いている。その中で君を探していた」
ベニーは黙って続きを待った。
「見つけた時――王都の上空を飛んでいて、突然体が引き寄せられた。ここだ、と思った」
「――オットー」
「何だ」
「鳶で良かったわ」
「なぜだ」
「鷹だったら、格好つきすぎて嘘くさいもの」
オットーは羽根を膨らませた。
「褒められているのか、けなされているのか」
「褒めているのよ」
ベニーは手を伸ばして、鳶の頭を撫でた。
温かかった。
*
エルヴェはルシールと過ごす日々の中で、徐々に気づき始めていた。
ルシールは可愛い。笑顔は華やかで仕草は愛らしく、一緒にいると楽しい。
だが。
「殿下、今度のお茶会で何を着ていけばいいですか?」
「……それは自分で考えてくれ」
「えー、でもわからないですぅ」
(ベニーなら……)
ベニーなら自分で考え最適な判断を下し、完璧にこなしていた。
王太子妃教育は遅々として進まなかった。礼法、社交の作法、外国語――どれも序盤でルシールの目に涙が浮かぶ。
「無理ですぅ、覚えられません……」
教育係は困り果て、エルヴェに報告を上げるばかりだった。
「殿下、隣国への返書ですが」
「ルシールに任せて――いや、無理か」
「ルシール嬢は外交文書の書き方をご存じないかと」
「……私がやる」
エルヴェは机に向かった。ベニーが下書きしてくれていた外交文書。あの的確な文面は、もう二度と出てこない。
(ベニーは……五年間、ずっと研鑽を重ねていたんだな)
一緒にいた頃は、それが見えていなかった。
今さら気づいても、もう遅い。
揚げ菓子は、とっくに鳶のものだ。
*
晴れた秋の日。
ベニーとオットーの結婚式が、ゾルデン帝国の大聖堂で執り行われた。
誓いの言葉が交わされ、指輪が嵌められ、二人が口づけを交わした時――。
オットーの体が一瞬だけ光った。
そして、鳶の翼の幻影が背中に現れた。
「――っ」
オットーが焦ったが、幻影はすぐに消えた。感情が高ぶった瞬間の反応らしい。
列席者はどよめいた。
「本当に鳶だった……」
「番なのは本物ね」
「王太子殿下のとは大違い」
「……聞こえるわよ」
「聞こえてもいいのよ」
エルヴェに招待状は届かなかった。
二人の結婚を報じる新聞を、黙って見つめていた。
側近はその横顔を一瞥したが、何も言わなかった。
*
結婚式を終え、ベニーとオットーは新居で暮らし始めた。
二人は沈んでいく夕日を眺めていた。
「オットー」
「何だ」
「私たち、一生『鳶夫妻』って呼ばれると思うわ」
「構わない」
オットーは窓から空を見た。鳶が一羽、はるか高みを旋回しているのが見えた。
「――君は嫌か?」
「いいえ。むしろ、誇らしいわ」
オットーが目を見開いた。
「何年も空を飛んで、私を見つけてくれたのですもの」
灰色の瞳が、夕日を受けてわずかに揺れていた。
「……やめてくれ。また翼が出たら困る」
「あら。困るの?」
ベニーは声を上げて、飾らずに笑った。
オットーが不意にベニーの手を取った。
軍人の手だ。硬くて、大きくて、温かい。
「俺は口が上手くないから、一つだけ言う」
「何?」
「もう空を飛ぶ理由はなくなった」
「――でも、時々は飛んでくれる?」
「なぜ」
「あなたが空を飛ぶ姿、好きよ。鳶の姿」
「……褒められているのか、けなされているのか」
「褒めているのよ。――ずっと」
「ベニー」
「何?」
「鳶は、一度番になると、生涯同じ相手と飛ぶそうだ」
「知っているわ。博物誌で読んだもの」
「――俺も、そうする」
ベニーは何も言わなかった。
ただ、繋いだ手に、少しだけ力を込めた。




