第九話 出発の日
翌日、紀依は蒲田の家にいて、家族総出で引越し作業をしていた。紀依の父は府中に家を借り少しずつ家の荷物を送っていた。府中には紀依の母方の実家があり、空襲の危機が迫る情勢に、母と小さな弟が疎開することになったのだ。蒲田の家には、父と紀依、最年長の女中の三人だけが残ることになっていた。
紀依は赤羽飛行場に行き、本田と話がしたかった。引っ越し作業の間は気もそぞろで、食器を数枚落として割ってしまった。引っ越しには会社の従業員も手伝いに来てくれていたので、実際のところ紀依がいる必要はあまりなかったのだが、こんな状態で行かなくて良かった、という気持ちもあった。
その夜、会社のトラックが、母と弟を乗せて出発するのを見送り、物がなくなりガランとした自分の部屋で眠りについた数時間後、紀依は空襲警報に叩き起こされた。先月の下町空襲の時のように低空を次々とB-29が東京の上空に飛来し、焼夷弾を投下して行った。
北の空がどんどん赤くなり、黒い煙が舞い上がる様子を、紀依は父が止めるのも聞かずに二階の物干しから眺めていた。そして以前はあまり気にしていなかった日本軍の戦闘機を探し闇夜に目を凝らした。暗闇の中、照空灯が照らしだすB-29の少し後ろを飛ぶ小型機を見つけた時、紀依は胸が締め付けられるような思いだった。
◆◆
空襲警報が解除され、少しだけ寝たあと、紀依は残った女中と二人で朝食の準備をはじめた。三人で朝食を取り、父の出勤を見送ると、紀依は手早く身なりを整え、家を出た。
昨夜の空襲で山手線は全線不通、京浜東北線は上野で折り返していた。しかたなく紀依は上野で電車を降りて歩き始めた。三時間以上かけ、赤羽飛行場までたどり着いた時はお昼過ぎになっていた。紀依は本田たちが出発する時間は聞いていなかったから、もし行ってしまっていたら、という焦りを感じていた。
だから営門の前で、日の丸の小旗を持った民間人が基地に入っていくのを見た時、紀依は安堵のため息を漏らした。どう見てもこれから出発を見送る人たちの姿だった。昨日の空襲は赤羽周辺にもかなり被害があったから、ほとんどは関係者の家族だったのだろう。
実際に、営門をくぐると紀依は懐かしい声を聞いた。
「きい!」
紀依の女学校時代の親友、上條桜だった。三月十日の下町空襲で家を焼け出された桜は今は埼玉の浦和に住んでいた。彼女は桜隊の隊長であり幼馴染でもある伊吹を見送りにきていた。
紀依は強張った顔で黙ったまま、桜の手を取ると滑走路に向かって走り出した。桜は普段の紀依からは想像もできないような真剣な表情に気圧され、引っ張られるようについて行った。
滑走路脇の見送り場所に着くと、出発しようとしている戦闘機と整備兵たちに目を凝らす紀依に、桜は恐る恐る声をかけた。
「紀依、大丈夫?」
「うん」
紀依はそれ以上何も言わず押し黙ったまま滑走路を見ていた。
滑走路には茶色に塗られた十数機の見慣れない戦闘機が、エンジンとプロペラの轟音を響かせ並んでいた。本田たちが数日前に受領したばかりの新型、飛燕の水冷エンジンを強力な空冷エンジンに変更した五式戦闘機だった。
桜隊のピスト前に、操縦者たちが飛行服姿で並んでいる。その中に本田を見つけ、紀依は再び安堵のため息をついた。実際のところ、昨夜の防空戦に桜隊の操縦者は参加していなかったのだが、そんなことは紀依が知る由もなかった。戦隊長が彼らの前に立ち、訓示をしているのだろう。直立不動の姿勢で、彼らはじっとしていた。
やがて話が終わったのか、桜隊の操縦者達が敬礼し、戦隊長が答礼を返した。そして、操縦者たちはそれぞれの乗機に駆け寄って行った。
桜が、操縦者たちに日の丸の小旗を振るのと同時に、紀依は駆け出した。
「えっ!?」
驚いた桜の声を背に、紀依は本田に向かって全力でまっすぐに走った。
飛行場には十機の戦闘機が暖機運転をするエンジン音が轟々と響き渡っていた。
本田は走り寄る紀依に気がつき、立ち止まった。
そして紀依が目の前に来た時、静かに声をかけた。
「紀依さん、一昨日はすみませんでした。あんなこと言うべきじゃなかった。でも、お話ししたことは全部本当です」
本田は下を向いて続けた。
「自分はあなたが好きでした。だけど、自分のことは忘れてください」
そう言って本田は顔をあげて敬礼すると、走り去ろうとした。
サッと、紀依は身を乗り出して本田の飛行服の縛帯を掴んだ。
「待って!」
そして本田の顔を見上げ、叫んだ。
「私もしろさんのことが好き!ずっと一緒にいたい!」
紀依の真剣な眼差しに、本田は一瞬、たじろいだ。
「待ってるから。私ずっと待ってる。だから帰ってきて、絶対に!」
そう言って、紀依は縛帯を離した。
一瞬、本田は躊躇したあとに、機体に走り出した。
紀依はその場で立ち尽くしていた。見送っていた残留組の横井たち少年飛行兵が駆け寄り、紀依をピスト前に連れ戻した。
数分後、桜隊の五式戦闘機は一斉に誘導路を移動し、滑走路から西の空に飛び立って行った。
桜隊の機影が地平線の彼方に消えると、誘導路を渡って紀依が元の場所に歩いてきた。日の丸の小旗を振る人々が三々五々帰っていく中、桜は紀依を心配そうな面持ちで待っていた。
「きい……」
「桜、ごめんね。ちょっと私、今日は……」
ポロポロと、紀依の頬を涙を伝った。紀依は上を向いて上着の袖で涙を拭った。
「私は、泣かない……」
紀依の無理やり作った笑顔を見て、桜は目を瞑って彼女を抱きしめた。
「ありがとう、さくら……」
◆◆
翌日のお昼過ぎ、紀依の自宅のあった場所で桃子は紀依の話を黙って聞いていた。
二人はしばらくの間、押し黙って地面を見つめていた。
桃子は言葉を絞り出すように言った。
「本田さんも、ちょっとずるいよ。嘘でもいいから好きじゃなくなった、って言ってくれればいいのに、そしたら紀依も……」
紀依は珍しく桃子の話を遮った。
「しろさんは、そんなこと言わないよ!」
「……そうだよね。ごめん」
桃子は紀依の手を取った。紀依はその手を握り返して言った。
「私待ってるよ、ずっと待ってる。しろさんはきっと帰ってきてくれる」
「そう、大丈夫だよ、きっと大丈夫!私も信じてる!」
桃子は続けた。
「でも、ここでは無理ね……」
桃子は周囲をぐるっと眺めた。
周囲一帯は、紀依の家だけでなく、昨夜の空襲で見渡す限りの焼け野原になっていた。
夜中に始まった空襲で主な目標となったのは川崎だった。しかし、そのすぐ北の東京蒲田区もほぼ全域が焼夷弾による火災で焼失していた。紀依の家の跡地から、骨組みだけになった六郷土手の駅が見えていた。
「荷物は一昨日にほとんど持って行ってたし、うちは誰も怪我もなく無事だったけど、さすがに凹む、この状況……」
紀依は空を仰いだ。
「こんなこと気休めにもならないけど、しっかりね。よかったら、しばらくうちに来て」
「ありがとうモモ。大丈夫、明後日には府中に行く予定。でも桜に悪いことしちゃったな。せっかく元気になって会えたのに、ちゃんと話ができなかった」
桃子は首を振った。
「あの状況じゃしょうがないよ。桜もわかってくれるよ。私が浦和に行って説明しておくから」
桃子は紀依の肩を抱いて、一緒に空を眺めた。
周囲の廃墟からたちのぼる煙が、静かに、ゆっくりと流れて行った。
今回で第一部の東京編は終了、次回第二部の九州編がスタートします。
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