第八話 本当の気持ち
四月の桜の咲く季節の半ば頃、雨の降る肌寒い天気の中を、いつものように紀依は赤羽飛行場の面会所にやってきていた。
「怪我は大丈夫?」
紀依は身を乗り出し、本田の頬のテープで貼られた白いガーゼにそっと手を当てた。その日、本田は迎撃戦の最中に、操縦席に飛び込んだ敵の銃弾を頬に受け、負傷していた。
「かすっただけですし、もう平気です。でも数センチずれてたらお陀仏でしたね。ハハハ」
「ハハハじゃないよ?」
真剣な紀依の怒ったような顔に、本田は一瞬たじろいだ。
「しろさん私心配だよ」
すぐに眉をひそめ、泣きそうになる表情の紀依に、本田は力なく答えた。
「そこは……すみません諦めてください……そういう任務なので」
「そうだよね。ごめんね、しろさん。わかってるはずなのに……」
二人は机の上に顔を向け、黙り込んだ。面会所の中に屋根を叩く雨音だけが響いていた。
しばらくして、本田はふと思い出したように顔を上げた。
「明後日の夜なんですが、時間があれば、ちょっと外で食事でもどうでしょうか?」
「えっ?」
レストランや食事処は閉鎖され、外食券不要で食べられる雑炊食堂が繁盛する今のご時世、気の利いた食事のできる場所などあるはずもなかった。しかし本田は続けた。
「大塚に将校の人たちが使っている料亭があるんです。紀依さんにはいつも面会に来て差し入れもしてもらっているのに、何もしてあげられてなくて。先日の埋め合わせもしたいし」
紀依はちょっとドキドキした様子で答えた。
「そ、それは全然気にしなくてもいいけど。いこうかな、いいの?」
「もちろんです。では自分も外出の許可をもらっておきますね」
◆◆
料亭「柳月」は大塚の三業通りのかなり奥にあった。門をくぐり玄関への道すがら、紀依は小声で本田につぶやいた。
「私こんなところ来るの初めて」
本田も笑いながら答えた。
「正直にいうと、自分も一度だけ、戦隊で宴会をやったときに来たきりです。でも楠隊や橘隊の特操(特別操縦見習士官)の人たちは年中来てるみたいですね。今日も居るかも」
暗がりの中、かすかにどんちゃん騒ぎの声が聞こえる。
「大丈夫かな?」
「ちゃんと許可もらってるので平気ですよ。それより市中では国民酒場で並んで飲んでるのに、軍人だけ贅沢して宴会で騒いでるなんて、申し訳ないですよね」
「そんなことないよ!本当に戦ってるんだし!特に、しろさんは頬の傷のぶんだけ飲んでいいです!」
本田は笑いながらうなずいた。
「もう治りましたけどね。せっかくだからいただきましょう」
「うん」
玄関に入るとすぐに女将が現れ、二階の小さな座敷に案内された。一階の広間では赤羽造兵廠の”作戦会議”が行われているらしい。廊下ですれ違った技術中佐に、本田はサッと屋内の敬礼をすると、紀依も慌てて頭を下げた。
本田は食事だけのつもりだった。しかし予約をした戦隊の経理の勘違いで、芸妓も二人手配されていた。
座敷は灯火管制のなか、暗幕が下され外は見えなかった。先付けの山菜和え物を食べ終わった時、障子が開き、芸妓が入ってきた。市中に溢れるもんぺ姿とは対照的な艶やかでありながら上品な着物に、紀依は目を見張った。二人の芸妓は、芸者の小雪と半玉(見習芸者)の月菜、とそれぞれ名乗った。本田に小雪、紀依に月菜がついてお酌をする。紀依は未成年だったので本田から酒は止められたが、女学校は卒業したからもう大人だという、理由にならない理由でほんのちょっとだけ口をつけた。
料理が椀物、焼き物と運ばれ、その合間の二人の歌と踊りに紀依は見惚れた。本田もその紀依を楽しそうに見つめていた。全員でお座敷遊びをするうちに、玄関の前で世間に申し訳ないと言った言葉とは裏腹に、二人は宴会を楽しんでいた。そして以前に桜隊のピストで遊んだ金毘羅船々が始まると、紀依は本田が怒って恐縮していたのはこれかと合点がいった。しかし、同い年の月菜とは気が合い、声が枯れそうなくらい笑って遊んだ。そうして食事が終わると、小雪と月菜は下がっていった。
お座敷遊びで紀依が負けた分の酒は本田が代わりに飲んでいた。座敷の入り口で女将と話し終え、戻ってきた本田の足元は、既にかなり危うかった。
「し、しろさん、だいじょうぶ?」
「大丈夫です」
本田はコップに注がれていた水を一口飲んで続けた。
「今日は楽しかったです。付き合ってもらって、ありがとうございます」
「私も楽しかった!お礼を言うのは私の方だよ」
紀依は嬉しそうに笑った。
「ところで、戦隊が——桜隊だけなんですが、九州に移動することになりまして」
「え?」
「ご存知だと思いますが、沖縄にアメリカ軍が上陸していて、それで。特攻ではないんですが、多分、今度こそ帰って来れないと思います」
紀依は怪訝な表情で本田の顔を覗き込んだ。
本田は言いにくそうに、続けた。
「だから……もう……ここまでにしましょう」
紀依の表情は真剣だった。
「それ、別れようってこと?」
本田は頷いた。
「なんで?何でそんなこと言うの?死ぬって決まったわけじゃないんでしょう?」
「ですから、今度の戦いはかなり厳しくてですね——」
「いやだよ、絶対にいや!それともしろさん、他に好きな人ができたの?」
「ちがう!そんなこと、あるわけない!」
本田の表情は必死だった。
「俺は、俺は……いつか戦争が終わった時、紀依さんと所帯を持ちたいと思ってるんだ!」
「だったら、どうして……」
本田は苦悶の表情を浮かべていた。
しばらくの間沈黙が続いた。そして本田は絞り出すように言葉を口にした。
「……俺は……俺はそんな資格のない男なんだ!」
本田の口から思いがけない言葉が飛び出て、紀依は驚きの表情で本田を見つめた。
「なに……言ってるの、しろさん?」
本田はためらいながら口を開いた。
「……飛行場で、俺の飛燕を見たでしょう。偉そうに、撃墜マークを二十八個も書いてる。みんなに撃墜王なんて呼ばれてる。凄いでしょう。でも、それがどういうことだかわかりますか?」
「え、ええと——」
紀依はなんと答えていいのか、わからなかった。
「二十八人は殺してるんですよ。B-29は十一人乗りだし、ビルマの”辻斬り”では輸送機もやったから、もっとだ」
本田は叫んだ。
「あの輸送機、民間人も乗ってたんだ!米軍のマークがついていたから撃墜したのに!墜落していく輸送機の窓から小さな子の……」
紀依は目を丸くして、本田を見つめた。
「全部で百人くらい殺してるんだろうな。自分は人殺しです。子供も、殺した。俺の手は血塗れなんですよ。だから、この手で紀依さんを抱きしめる資格なんてないんだ」
「し、しろさん……」
「いや、わかってます。自分は軍人です。戦うのが仕事だ。あの日、紀依さんを助けるためなら、何度でも同じことをする。もちろん次は俺がやられる番かもしれないけど、別にそれでもいいんだ」
本田は膝に両手を置いて下を向く。
「でも帰ってきて床に入って、夢を見るんだ。撃たれる寸前に振り返った敵の操縦士の顔。あいつにだって両親がいたはずだ。もしかしたら兄弟や奥さんや子供もいたかもしれない。それを俺は殺した。機関砲で正確に狙い撃ちして殺したんだ。俺が。この手で」
本田は顔を上げて紀依を見つめた。
「だから、俺には紀依さんと幸せになる資格なんてないんだ!」
紀依は立ち上がるとテーブルの脇を通って本田の脇に座り直した。そして、本田の手を取って叫んだ。
「別にしろさんだけじゃないでしょ!伊吹さんだってそうじゃない!アッキーやぺーやんだって、みんなしろさんみたいになりたいって頑張ってる!しろさんは立派に仕事をしてる!私、しろさんのこと尊敬してる!」
「そう!みんな平気なのに、俺だけなんです。俺は戦闘機乗りに向いてないんだ……」
本田は泣いていた。
「だから、戦争が終わって、もし生きていたら、俺は陸軍をやめる。もう沢山だ。でもその前にきっと俺は死ぬ、特攻か、空中戦かはわからない。でも、それでいいんだ。俺は死ぬ。だから紀依さんと一緒になることなんて、できないんだ」
「しろさん……」
「紀依さん。あなたといると、変に、いや正直にだな、なってしまう。すみません……」
本田は正面を見たまま、溢れる涙をぬぐいもせずにじっとしていた。
紀依は膝で立ち上がり本田の顔を抱きしめた。
「ごめんね、しろさん。私、しろさんの、ほんとうの気持ちがわかってなかったよ。でももうわかったから……だからお願い、死なないで」
本田は紀依に向き直り、紀依の胸に顔を埋めて泣き続けた。紀依は本田の軍人としては少しだけ長い髪を、そっと撫でた。
◆◆
しばらくしてやってきた女将が座敷の障子を開けると、正座した紀依に抱きつき膝に顔を埋めた本田の姿が目に入った。女将は慌てて障子を閉めた。
「失礼しました」
紀依はパッと振り返り、ひきつった笑顔で障子の向こうの女将に聞いた。
「待って!わ、私、どうしたらいいんでしょう」
女将は恐る恐る障子を開いて部屋に入ると、完全に熟睡している本田をそっと揺らした。本田は全く動かなかった。
「戦隊の方が別のお部屋にいらっしゃってるので、お声がけしてもよろしいでしょうか」
紀依は一瞬考えた後に、お願いした。これは一人ではどうにもならないと思った。
女将が出ていくと、すぐにドタドタと数人の足音が聞こえてきた。
「え、きーちゃん!?」
障子を開け、軍服姿の若者が入ってきた。以前に一緒に銭回しで遊んだ、楠隊の岩田少尉達だった。紀依は振り返ってひきつった笑顔で会釈した。
「え、この子誰?これ本田軍曹?なにやってんの!?」
「きーちゃんでしょ?最近いつも来てくれてるのにお前なんで知らんの?」
「あ、ほんとだ!」
「あれー本田軍曹じゃないですか!珍しい!」
楠隊の士官操縦者達は楽しそうに口々に囃し立てた。紀依と寝ている本田をひとしきりからかった後、とりあえず、本田を強引に紀依の膝から退けて、横に寝かせた。
「本田ー!起きろー!」
将校の一人、佐竹少尉が本田を起こそうと容赦無くビンタをくれたが、本田は全く起きる気配がない。結局、電話でたまたま週番士官だった伊吹が呼び出され、しばらくして伊吹が黒塗りの戦隊の公用車のパッカードに乗り、桜隊の田平曹長を引き連れてやってきた。
◆◆
「しっかりしろ本田!」
伊吹は座敷に転がされた本田を強く揺するが、それでも目を覚さない。
「伊吹中尉殿、我々も何度もかなり手荒にやりましたが、無理でしたので……」
岩田少尉が苦笑いしながら指摘した。
「そのようだな。田平ちょっと足を持ってくれ、このまま車に放り込むしかない」
「了解しました」
伊吹が熟睡する本田を頭の方から脇を持ち、田平が足を持って料亭の階段を降り、門の前に付けたパッカードの後部座席になんとか座らせた。紀依は本田のブーツを持ってその隣に座った。
灯火管制で真っ暗な夜の東京都内を、田平の運転するパッカードは紀依の自宅の蒲田に向かってひた走った。助手席に座った伊吹が紀依に頭を下げた。
「すみません、普段はほとんど酒に口をつけない男なんですが」
「いえ、私が悪いんです。しろさん、私の分まで飲んでしまったから……」
紀依は恥ずかしそうにうつむいた。
「こんな時間になってしまって。お父上には自分からお詫びします」
「すこし遅くなるとは言ってましたので大丈夫です!……でも、ちょっとびっくりしました」
紀依は隣で眠りこける本田の顔を見つめ、そっと頬を撫でた。
「我々は今週末に九州に進出するので、思うところもあったのでしょう」
「聞きました。でも、でも特攻ではないんでしょう?」
紀依はためらいながら伊吹に言った。
「ええ、我々は制空任務で進出しますので」
「よかった……。でも……こんなこと言っちゃだめですよね」
紀依は安堵のため息と同時にシートに体を沈め、本田の手を握った。
「本田軍曹が突っ込むときは、自分たちも終わりですよ」
ハンドルを握る田平軍曹がぼそっとつぶやいた。
「そうだな」
伊吹も流れる窓の外の風景を見ながら答えた。




