第七話 桜の花の咲く頃
昭和二十年四月、前哨戦となった激しい航空戦と猛烈な砲爆撃の末、アメリカ軍は沖縄本島に上陸を開始した。——その頃、東京では桜がようやく咲き始めていた。例年より寒い冬のせいで遅い開花だった。
紀依は本田の外出日に花見の約束をしていた。待ち合わせをしていた赤羽駅の改札前に、軍服に帯剣した本田が巻いたアンペラ(ござ)を小脇に抱えてやってきた。そのアンバランスな姿に紀依は思わず吹きだした。必要だと思って、と頭をかく本田に、紀依は謝った。本田は風呂敷包みを紀依の手から取り、反対側の手に持った。
いつものように赤羽基地に向かう二人だったが、いつもとは別の北側に向かって歩いていく。飛行場をぐるりと回って橋の袂にたどり着く。土手を登ると、そこには小さな桜並木が続いていた。近所の人たちと思われる花見客がまばらに座り込んでいた。本当なら近くの飛鳥山公園や上野公園が花見の名所だったが、前者は桜を切ってグラウンドと防空壕に、後者は空襲犠牲者の仮埋葬地になっていた。だから本田がいつも空から見ていたこの場所を二人は選んだ。
「ちょっとお嬢様には似つかわしくないですが、一番綺麗なのを持ってきましたので」
本田は比較的桜の花の開いている木を見繕うと、大仰な仕草でアンペラを敷き、笑った。
「もー、だから違うんだってば!」
紀依は膨れっ面で笑いながら、それでもその上に座った。そして本田から受け取った風呂敷包みを解いた。
中から現れたのは、少し古びているが立派な二段の重箱だった。
「お……重箱ですね」
紀依は嬉しそうに蓋を開けた。一段目には小さなおにぎりが並んでいる。白米の丁寧に握られたもので、海苔が巻かれている。
「すごい、これ、紀依さんが?」
本田は目を見開いた。二段目には煮物と漬物、それと卵焼きと野菜の和え物が入っていた。
「そうなの!と言いたいところですが、半分お母さんに手伝ってもらいました」
本田も笑って答えた。
「いやいや、それでもすごいです。ありがとうございます。いただきます」
二人は手を合わせた。紀依がおにぎりを取り本田に手渡すと、自分の分も取り出した。本田が一口食べて、目を細めた。
「うまい」
「ほんと?よかった」
紀依も嬉しそうに笑い、おにぎりを頬張った。
「ところで、さっきの誤解。私は別にお嬢様じゃないんだって。前も言ったけど、うち町工場だよ。小学校に上がってからはずっと朝と夕方は工場で働かされてたし」
「えっ?」
「私ずっと一人っ子だったのね。だから将来は婿をもらってこの工場を切り盛りせにゃならん!とかお父さん言ってさ、朝は五時起きで工場の掃除からだよ。今考えたら信じられないよね」
「軍隊より朝早いじゃないですか!」
「だから四年生のときに弟が生まれて本当に嬉しかった!あぁこれで私が工場継がなくていいんだって。もう工場って怖いんだよ。職工さんたち私には優しかったけど、横で小僧さんがぶん殴られるの。ビンタとかじゃないよ?こーんなスパナで……」
紀依は身振り手振りで説明する。
「軍隊より酷いかも……」
本田は苦笑いで答えた。
「お陰様で色々覚えましたけどね。お小遣いももらえたし、結局小学生の間は手伝ってた。女学校入ったら何の役にも立たなかったけど、それはいいの。友達に旋盤でネジを切れますって言っても、あなた何言ってるの?って感じだよ。しろさん旋盤て何か知ってる?」
「もちろんです!東航(東京陸軍航空学校)……少年飛行兵の学校の術科で習いました。金属加工用の工作機械ですよね。あの、鉄の丸棒がぐるぐる回る」
「そうそう!しろさん、さすがだよ」
紀依はニコニコしながら喋り続けた。
春の暖かい日差しの中、二人はおしゃべりしながら、並んでお弁当を食べた。時折、桜の花びらが敷物の上に舞い落ちていた。
◇◇
「あのね、これ、着物を解いたもので作って、新品じゃないんだけど」
紀依はバッグの中から折り畳まれた布を取り出した。紺色に小さな水玉模様のマフラーだった。
「空の上は寒いんでしょう?しろさんもマフラーは持ってると思うけど、もう一枚あってもいいかなって……それほど派手な柄じゃないから大丈夫かな、って思って」
「ありがとうございます」
本田はマフラーを受け取り、じっと見つめた。
「だめかな……」
不安そうに顔を覗き込む紀依の声に、ハッと本田は我に帰った。
「いえ!違うんです!伊吹さんも紺のマフラーをずっとつけていて、あれは航空士官学校を卒業する時に桜さんから贈られたものらしくて——」
「桜が?」
「そうです、伊吹さん、それから二年間、ずっと使ってたから、もうだいぶくたびれてるけど、今も繕って巻いていて。ちょっとだけ羨ましかったんです。そうか——それに、もしかして、そのもんぺとお揃い?」
「そう!マフラーの残りでもんぺも作ったの。おそろいだよ」
紀依はにっこり笑い、両手でもんぺの裾を引っ張って見せた。
「そうしたら空の上でも、紀依さんと一緒にいられる」
「使ってくれる?」
「もちろん!」
「よかった!」
紀依の顔が、ぱっと明るくなった。その顔を見る本田の頬も緩んだ。本田がマフラーを巻こうとすると、慌てて紀依が止めた。
「待って!私が巻く」
紀依は本田の前に膝立ちになると、丁寧にマフラーを首に巻いた。マフラーの絹と紀依の指の柔らかな感触が首に触れる。紀依は本田の首元で結び目を作った。
「はい、できた」
紀依は少し離れて、本田の姿を見た。
「似合ってる」
「ありがとう、紀依さん」
本田は首元のマフラーにそっと手を当てた。
周囲では、花見客たちの賑やかな声が響いていた。戦前のようなどんちゃん騒ぎはさすがになかったが、酒を酌み交わしながら談笑するグループ、子供たちを連れた家族。戦時中とは思えない、ちょっとした賑わいだった。
「そうだ。写真撮りましょう」
本田は軍服のポケットからカメラを取り出した。
「伊吹さんから借りてきました」
「あ、カメラ!」
紀依は目を輝かせた。
「じゃあ、まず撮りますね」
本田は立ち上がって離れると、フィルムを巻きカメラを構えた。桜の木の前に座った紀依をファインダーで覗くとピントを合わせる。紀依は少し緊張した様子で、ぎこちなく笑った。
「もっと自然に笑ってください」
「むりだよ!緊張する!」
二人は笑った。
本田はシャッターを切った。
「じゃあ、今度は私がしろさんを撮るね!」
そのままでいいですから、とフィルムを巻き上げた本田から紀依はカメラを受け取ると、ファインダーを覗いてシャッターを切った。首に巻かれた紺地のマフラーがカーキ色の軍服の上で目立っていた。
そして近くにいた花見客に頼んで、二人並んでの写真も撮ってもらった。本田と紀依が桜の木の下で並んで座る。紀依は本田の腕にそっともたれかかり、本田は少し照れた様子で前を向いた。
シャッターが切られる。
「ありがとうございました」
二人は花見客に礼を言うと、再び敷物の上に座った。
「今日の写真、現像したら一枚くれる?」
紀依が本田の顔を覗き込んで言った。
「もちろんです」
「やった。大事にするね」
紀依は嬉しそうに笑った。
二人はしばらく黙って桜を見上げた。まだまだ満開ではない、咲き始めの桜が青空を覆っていた。風が吹くたびに、花びらが少しだけ舞い落ちる。
「綺麗だね」
紀依がぽつりと呟いた。
「ええ」
本田も頷いた。
「また、来年も来たいな」
紀依が桜を見上げたまま言った。
「そうですね……」
本田も同じ桜を見上げて答えた。
「また来年も、そのまた来年も、ずっと……」
本田は小さく頷いた。
「もちろんです」
紀依は安心したように笑うと、本田の肩にもたれかかった。
桜の花びらが、二人の間に舞い落ちた。
春の午後の、穏やかな時間が流れていた。
◆◆
夕方、赤羽基地の伊吹の執務室に本田がやってきた。
「どうだった?」
「楽しかったです。あ、これカメラ、ありがとうございました。フィルムは駅前の写真店に出しておきました」
伊吹は本田の差し出したカメラを受け取ると、本田が小脇に抱えた紙袋に気がついた。
「そうか……それは?」
「頂き物のマフラーです。着物を解いた反物で作ったそうで、彼女のモンペとお揃いです」
本田がマフラーを取り出して見せると、伊吹は吹き出した。
「笑わないでください、俺は……こんな個人的な贈り物、生まれて初めてもらいました」
「——いやすまん。やっぱりいい子じゃないかと思ってな。正直なところ、羨ましいな」
伊吹はちょっと遠い目をする。
「伊吹さん……。彼女は桜さんと本当に親友なんですよ。ちょっと俺には眩しすぎます。目を開けていられませんよ」
おどけて目を塞いだ本田に、伊吹はまた吹き出した。
「そんなわけないだろう!」
「本当です。自分なんかと釣り合いが取れません。思ってたより庶民的なのは分かりましたが……でも高等女学校出のお嬢様ですよ?」
「だったらお前も将校になれば問題ない。少候(少尉候補者)に志願しろよ。いつでも推薦するって言ってるだろう?」
「それは……」
「まだ迷ってるのか?お前が言うほど事務仕事はないぞ?いま志願すれば陸士出と変わらん。場合によっては陸大も行ける。そうしたら釣り合いも取れるだろう?」
「うう……ん」
「なんでお前は地上ではそんなに優柔不断なんだ。空の上とはえらい違いだな」
「失敗しても死にませんからね」
「そういう割に戦闘中は平気で危ない橋を渡ってるように見えるがな。まぁいい、何かあったらまた相談しろ」
「はい。ありがとうございました」
本田は屋内の敬礼で退室した。




