第六話 月明かりの下で
その日、いつものように面会に訪れた紀依は、待機中の本田を連れ出して、赤羽飛行場の誘導路の土盛りの上に並んで座り込んでいた。
本田は出撃待機中だったから、飛行服のままだ。紀依は白のセーラー服に紺のもんぺ姿。少し離れた掩体壕からは、飛燕の暖機運転の爆音がとどろいていた。
すっかり日の落ちた飛行場に明かりは何もなかったが、月の光が穏やかに周囲を照らしていた。紀依は魔法瓶に紅茶を入れて持ってきていた。そしてカバンの中から取り出した琺瑯のカップに注ぐと、一つを本田に渡した。紀依が自分の分のカップから一口紅茶を飲んだとき、飛燕の暖機運転が終わり、飛行場に再び静寂が訪れた。
虫の声が、微かに聞こえていた。
「約束通り、何かお話しして」
紀依がそう言うと、本田は一口だけ紅茶を飲み、空を見上げて答えた。
「そうですね……ビルマで見た”ヒマラヤを越える渡り鳥”の話か、ニューギニアで見た”飛行機の墓場”の、どっちかかな」
「飛行機の墓場?」
紀依は思わず目を見開き、ぶるっと震えるて、あたりを見渡した。月の光でほのかに明るい広い飛行場には何もない。整備兵たちが忙しく動く掩体壕の中で、微かに漏れる電灯の光だけが揺れていた。
「怖いお話なの?」
「いや……綺麗な場所でした。とても心が安らぐような……」
本田は座り込んだ手もとの草を少しちぎって放ると、話し始めた。
「あれはたしか、昭和十八年の五月だったと思います……もう二年前か。あの頃は自分も実戦に参加してすぐの頃で、最初に行ったラバウルからニューギニアに移って戦っていました。そこで、その当時の基地だったウエワクを出撃して、敵の飛行場を攻撃した帰りに奇襲攻撃をくらったんです」
夕闇の迫る中、帰路を急ぐ九九式双発軽爆撃機とそれを護衛する一式戦闘機”隼”の編隊。そこに、アメリカ陸軍の大型戦闘機P-38”ライトニング”の編隊が上空から襲いかかった。隼に乗っていた本田が急いで天蓋を開いて戦闘態勢に移ったとき、数機の双発軽爆が火を吹いて墜落していく光景が目に飛び込んだ。本田は隼を加速させ一撃離脱で逃走するライトニングを追撃する。しかし二機のエンジンを全開にして逃げるライトニングには追いつけない。直後にさらに別のライトニングの編隊が上空から襲いかかってきた。本田の少し前を飛んでいた隼が銃撃を受け爆散する。本田は敵の銃弾をギリギリで回避し、そこに戻ってきたライトニングも交えた乱戦になった。
激しい空中戦がしばらくの間、続いた。
本田の隼は一機のライトニングと正面からの対向戦となった。ライトニングの中央胴体に備えられた合計五丁の機関銃の凄まじい弾雨に包まれた本田の隼は、エンジンから主翼まで被弾し、墜落していった。奇跡的に火は吹かなかった。本田は敵がどうなったか確認するまもなく、戦場を離脱した。
「そうやって、自分は遠のく意識の中で必死に隼を操縦していました。頭に刺さった銃弾の破片で血が止まらなくて、目も霞んでくるんです。どこをどう飛んだのかも覚えていない。雲の中を飛んでいく途中で、もうダメだと何度も思いました。」
そして、不意に音が消えた。機体の震動も、風の音も、何もかも。意識はかすかに残っていたが、それも夢のようにぼやけていた。
しばらくすると、本田の隼は雲の上に出た。
快晴の青空だった。眩しい太陽の光が、隼と本田を照らした。
ふと気がつくと、本田の周りには双発軽爆と、隼と……ライトニングが飛んでいた。操縦席の若者たちは皆、空の一点を見ている。
その遥か上空には一筋の雲が靡いていた。目をこらすと、それは星の数ほどの飛行機の流れだった。
「そこが、”飛行機の墓場”……」
「そうです。ずっと遠くまで、いろいろな飛行機が浮かんでいました。隼や、海軍の零戦もたくさん居て……遠くて見えるはずはないんですが、少し前に戦死したはずの同期の顔も見えるんです。敵の戦闘機や爆撃機もいました。でも、ゆっくりと上昇していく間、暖かくて、心も穏やかになって、幸せな気持ちでした。エンジンの音も、風の音も聞こえない、静かな場所でした——」
彼らの列に加わるように、本田と周囲の飛行機は上昇を続けていた。
とつぜん、本田の隼は高度を落とし始め、雲の中にすうっと降りていく。他の双発軽爆や隼、ライトニングたちは彼を置いていくように空高く昇り続けて行った。
「気がついた時、自分の隼は日の落ちた真っ暗な海の上を飛んでいました。雨の中、海面すれすれで、プロペラが水面を叩く音で我に帰って。慌てて機首をあげると、すぐに基地のあるウエワクの上空でした」
「道案内、してくれたの?」
紀依が本田の顔を覗き込むように尋ねた。
「わかりません。ウエワクの基地に戻った時には燃料はほとんどなくなっていて。風防を開けたままだったせいか、ずぶ濡れでした」
本田は暗闇の中、翼の着陸灯を頼りに基地に降り立った。最後の隼が帰投してから、一時間以上が経っていた。
本田はカップのお茶を一口飲んだ。
「——この話は誰にもしたことがなかった、信じてもらえないと思って」
紀依は真剣な顔で本田の顔を見つめた。
「私、信じるよ。しろさんが戻れてよかった」
本田は空を見たまま答えた。
「どうかな。たまにあの時一緒に行っていたら、と思うこともあります」
不意に紀依は立ち上がった。
「そんなことないよ!そうしたら私が先月死んでたもん!」
本田は微笑みながら頭を振った。
「……確かにそうですよね。そうだ、戻れてよかったんだ。今、わかった気がします」
本田は残りの紅茶を飲み干し、立ち上がった。
「だいぶ遅くなってしまいました、そろそろ戻ったほうがいい。自分は配置を離れられないけど、営門までは送りましょう」
◇◇
星空の下、二人は誘導路脇の小道を歩いた。本田が歩く少し後を紀依がついていく。
突然、紀依が小走りに走り出し、本田の脇をすり抜け、数歩前で立ち止まった。驚いた本田も歩みを止めた。
紀依はくるっと振り返ると、大きな瞳で本田の目をまっすぐに見つめた。
本田は少し、たじろいだ。
「しろさん、私のこと、好き?」
「えっ!?」
唐突な問いかけに、本田は何も言えなかった。
紀依は真剣な顔で続けた。
「嫌いなの?」
「い、いや。そんなことないです……す、好きですよ」
本田は視線を逸らした。
「よかった……」
そう言うなり、紀依は本田に駆け寄ると、そのまま抱きついた。本田の飛行服の縛帯の金具が、静かに音を立てた。紀依は両脇からそっと背中に腕を回した。紀依の小柄で華奢な体を全身で感じて、本田は思わず感電したように身震いした。
「い、いや、あの……」
本田は気をつけの姿勢のまま空を仰いだ。星空が、明るかった。
紀依は本田の飛行服に埋めた顔を少し離し、上目遣いで本田を見つめた。本田も彼女の顔を見ると、視線を外せなくなっていた。
紀依が、そっとつぶやいた。
「きい、好きだ、って言って……」
「い、いや、あの……門倉さん?」
本田が顔を引き攣らせて返事をすると、紀依はパッと本田から離れ、両手を取ると自分の胸に押し付けた。
「私の名前は、きい。しろさん?」
「きいさん……」
「き・い」
「き、きい……」
「うれしい」
紀依は本田の手を離し、また本田に抱きついた。本田は呆然として軽く手を挙げたまま固まった。
「ちゃんと言って……きい、好きだ、って……」
「き、きい……」
「……好きだ」
「す、好きだ」
紀依は嬉しそうにまた顔を本田の飛行服に埋めた。
「……私も、しろさんのこと、好き」
本田は恐る恐る、飛行服の腕を紀依の背中に回した。
赤羽飛行場の隅で、しばらくのあいだ二人のシルエットは重なり合い、明るい月が二人を静かに照らしていた。
◆◆
翌日の日曜日、紀依は蒲田の自宅の自分の部屋で、いつものように遊びに来た桃子に話を聞かせていた。
「それって告白されたうちに入ってるの!?」
桃子は疑惑の視線を紀依に向けた。
「ちゃんと好きだって言ってくれたんだよ。どう考えても告白でしょ」
「なんか……無理やり言わせてない?」
「そんなことないよ。抱きしめてくれたし。こう、ぎゅっと」
紀依は目を瞑って天井を見上げた。
「うーん……で、そのあとは?」
「……帰った」
「帰ったって、抱きしめられて、そのあとは?」
桃子は少し真剣な目つきで、紀依を見つめた。
「本当はね、キスして欲しかったけど、それは言えなかった……」
紀依は苦笑いで答えた。桃子も乾いた笑いで応えた。
桃子はそうそう、と続け、カバンの中から紙の包みを取り出した。
「そしたら、はい。これ台湾バナナ。おすそ分け」
紀依は目を丸くした。
「お、おお、これは!モモすごいよ」
バナナは高級品だった。その上、戦争が始まって店頭からはすっかり姿を消していた。もちろん、配給の割り当てなどあるはずもない。
「海軍に行ってた兄がいま帰って来ててね、台湾まで行って帰ってきたらしくて、そのお土産。当たり前だけど台湾には一杯あるんだってさ。いつかのどら焼きのお返しね」
「食べていい?」
「もちろん」
二人はバナナを一本ずつ頬張った。
「あまーい!」
「……よかったね、紀依」
「——うん」
本田が紀依に語る「飛行機の墓場」のエピソードは、ロアルド・ダール(1916-1990)の短編小説『彼らは年をとらない』(They Shall Not Grow Old, 1946)から着想を得ています。ダール自身が第二次世界大戦中にRAF(英国空軍)のパイロットとして従軍した経験をもとに書かれたこの作品は、後に宮崎駿監督の映画『紅の豚』(1992)と『風立ちぬ』(2013)でもオマージュされました。戦場で散った若者たちへの鎮魂の想いが込められた美しいエピソードに感銘を受け、本作の世界に取り入れさせていただきました。




