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第五話 熱望

 日曜日の朝、紀依はいつものように赤羽飛行場にやってきていた。受付で名前と住所と年齢、そして関係を書き、”本田軍曹は掩体壕にいると思います”と言われて、そのまま通されて基地に入って行った。

 掩体壕のある滑走路脇に向かいかけた紀依は、そこでふと立ち止まった。そして誰もいない操縦者宿舎に入ると、広い板張りの床に置かれたベッドの一つに寝転がった。そうしてしばらくゴロゴロとまどろんでいた。

「誰だ!」

 突然の声に、紀依は飛び起きた。

「き、きーちゃん!?」

「……なんだ、あっきーか」

 部屋の入り口にいたのは”あっきー”こと横井明夫伍長だった。横井は紀依の一つ下の十六歳、丸顔に幼さの残る少年飛行兵だった。

「びっくりさせないでよ」

 紀依はちょっと安心した顔で文句を言った。一つ年上だとわかった瞬間から、彼は弟扱いされていた。

「きーちゃん、なにやってるの?」

「なにって、匂い嗅いでるの。しろさんの」

 紀依はベッドから起き上がると抱えた枕を顔に持っていき、クンクンと鼻を鳴らした。

 横井は困惑した顔でつぶいやいた。

「……そこ本田軍曹じゃなくて、平川のだよ」

 紀依は眉をひそめた。平川伍長は”あっきー”と同期の少年飛行兵だ。

「うそ、だって前ここだったでしょ?」

「本田軍曹が暑いからって、場所変わったんだよ。昨日から」

 紀依は枕をぱっと放すと、汚いものを見るような目で枕を見つめた。

「ぺっぺっ!そういうのはもっと早く言いなさいよ!」

「もう嗅いでたじゃないか!」

「くさっ!汗臭っ!!ペーやん、くさっ!」

 紀依は枕を放り投げた。

「だ、ダメだよ怒られるんだから!」

 横井は慌てて飛ばされた枕を拾い、元の場所に置いた。


「あっきー、その紙って、なに?」

 ベッドから立ち上がって靴を履いた紀依は、横井が持っていた紙を見て言った。

「こ、これは……」

 横井は右手に持った粗末な葉書サイズの藁半紙を改めて見てから、下を向いた。

「ラブレターか何かかなー?それにしては色気が……」

 紀依は笑いながら、サッと横井から紙を奪い取った。


”特別攻撃隊編成ニ係ル意向調査”

 と書かれた下に

”熱望”

”希望”

”希望セズ”

 の言葉が並んでいた。

 敵艦に体当たり攻撃を行う特別攻撃隊のことは新聞やニュース映画でも度々報道されていたから、もちろん紀依も知っていた。自らを爆弾と化す特別攻撃隊は、十死零生の決死隊だった。


「ご、ごめんなさい!」

 紀依は慌てて紙を両手で差し出し、頭を下げた。

「いいんだ。きーちゃん」

 横井はうつむいたまま紙を受け取った。

「これって?」

 紀依は心配そうに尋ねた。

「今朝みんなに配られてさ、今日中に出さないといけないんだ。桜隊は伊吹中尉が取りまとめて、戦隊長に提出する。それで何人か選ばれるんだと思う」

「そうなんだ」

 紀依は静かに頷いたあと、上目遣いでつぶやいた。

「あっきー……どうするの?」

 横井は周囲を見渡し、そっと入り口から廊下を覗き、誰もいないことを確認した。そしてわずかにためらったあと、口を開いた。

「……正直、迷ってるんだ。少年飛行兵学校に入った時からいつでも死ぬ覚悟はできてるつもりだった。けど、特攻隊は……。でも希望しないとは、書けないよ」

 紀依は少しの沈黙のあと、横井の目を見つめて言った。

「……私、なにも言えないけど、よく考えてね」

「うん……」

 二人はしばらく下を向いて押し黙った。

「ところで、これって全員配られた、の?」

「そうだよ。操縦者は全員……」

 と横井が言い終わる前に、紀依は走り出した。


 紀依は飛び出すように操縦者宿舎を出て、滑走路脇の掩体壕へと駆け出した。

 掩体壕では、本田が自分の飛燕の右翼の上に立ち、整備員と一緒に機関銃弾を搭載しているところだった。ジャラジャラと音を立てて翼の中に収納されていく金色の弾帯が、鈍く光っていた。


「しろさん!」

 紀依は、はぁはぁと息を弾ませたまま、叫んだ。

「あ、門倉さん。今日は早いですね」

 本田は整備員に声をかけて、翼から飛び降りた。紀依はそのまま本田の軍服の裾を掴むと、誘導路脇のいつもの土手に引っ張って行った。


 二人は土手の上で向かい合った。

 本田は紀依の真剣な顔を見て、事情を察したようだった。ポケットから黙って畳まれた藁半紙を取り出して、紀依に渡した。

 紀依は畳まれた紙を受け取ると、恐る恐る開いた。


 本田史郎、と自筆の名前の上の選択肢は

 ”熱望”

 の文字に丸が記されていた。紀依の心臓が早鐘を打ち、喉が詰まりそうになった。


「どうして……」

 紀依は大きな目を見開き、本田の目をまっすぐに見てつぶやいた。本田は被った略帽の庇をさげ、視線を外した。

「誰かが行かないといけない。だったら自分が行きます。隊長は戦闘経験が少ない特操の少尉の誰かがなるでしょうから、そうすると自分が面倒を見ないと……」

 紀依の目にみるみる涙がたまり、ポロポロと頬をこぼれ落ちていくのに気がつくと、本田は狼狽し、腰を落としてなだめるように両手を紀依の前で広げた。

「門倉さん……」

「しろさんのばかっ!」

 紀依は叫ぶと、本田の胸を両手で突き飛ばした。

「えぇっ!?」

 本田は不意打ちを喰らい、バランスを崩して後ろにひっくり返った。その間に紀依はすでに十歩先、振り返りもせず駆けていった。

「門倉さんっ……!」

 追いかけようと立ち上がった時には、紀依の姿はもう建物の影に消えていた。


 本田を巻いた紀依はそのままの勢いで伊吹の執務室にノックもなしで飛び込んだ。伊吹は机に向かい、書類を書いていた姿勢のまま、目を丸くして紀依を見つめた。

「何か……?」

 紀依は肩で息をしながら机の前に近づき、手に持った紙を伊吹の前に置いた。

「これですけど、間違いなんです!」

 伊吹は紙に目を落とし、ほんの少しの間だけ考えているようだった。

 そしてその紙を手元に手繰り寄せ、右手に持った万年筆で”熱望”の丸印を横棒で取り消すと、代わりに”希望”セズに丸をつけた。

「これで、いいですか?」

 伊吹は紙をくるりと反対側に向けて、紀依に見せた。紀依は驚いた様子で伊吹を見ると、小さくうなずいた。伊吹は紙を手元に戻すと、右袖の引き出しの中にしまった。

「念のためですが、決めるのは自分ではなく戦隊長です。そこは、理解しておいてください」

「……あ、ありがとう……ございます」

 紀依はペコリと頭を下げると、踵を返して部屋を飛び出した。


 数分後、伊吹の部屋に本田が入ってきた。もちろん、ノックの後、要件を申告して名乗り、許可を得た後だが。

「これか?」

 伊吹は引き出しにしまった紙を出した。

「そ、そうです。やっぱり……」

「”希望セズ”で受領したぞ」

「いえ!それは違います!」

「帝国軍人ともあろうお前が女にそそのかされてなんたる様だ」

 気のない口調で言った後、伊吹は続けた。

「と、立場上言わないといけないんだろうな」

「伊吹さん……」

「羨ましい話だな、彼女は桜の親友だそうだが。俺とは大違いだ」

 伊吹は自重気味に笑った後、ため息をつき、改めて引き出しに紙をしまった。

「どのみちお前は最初から対象外だと言われてる。戻っていいぞ」

「そ、そんな!」

「本田、これは順番だ。二年前ニューギニアでポート・ダーウィン行きに指名されたのは俺とお前だったじゃないか、あの時と同じ、順番だ。あれからお前の順番が変わっただけだ」

 それに、と伊吹は前置きして続けた。

「いい子じゃないか。彼女を泣かすんじゃない。これは中隊長じゃなく、伊吹芳彦としての忠告、というよりも諫言だな」

「はい——」

 本田は敬礼して退室した。


 ◆◆


 翌日の学校の昼休みの屋上、お弁当を食べながらどんよりする紀依に、桃子は何があったのか尋ねた。ぽつりぽつりと、紀依は昨日の赤羽基地での出来事を桃子に話した。

「嫌われた、絶対嫌われた……本当に私ってばか。でも死んでほしくない……しろさん死なないでほしい……」

 紀依は、最後には半泣きになっていた。

「それは……紀依の気持ちはわかるけど」

 桃子は困惑顔で答えた。

「特攻隊なんて絶対やめてほしい……」

 うなだれる紀依を見て桃子は言った。

「紀依は悪くない。悪くないけど……ちょっと、お節介だったかもね、明日一緒に謝りに行こうか」

 紀依は桃子に抱きついた。

「ありがとうモモ……」


 翌日の放課後、赤羽飛行場に面会に行った二人を、本田はいつものように笑顔で応対した。そしてチラチラと上目遣いで謝罪する紀依に、大丈夫ですから!と何度も念を押した。早々に退散する二人に本田はまたお土産を持たせてくれた。洋酒入りだから一気に食べないようにして下さい、と言われた、やはり航空糧食のチョコレートのチューブは甘く、ちょっとほろ苦く、でも二人をすこしだけ陽気な気分にさせてくれた。

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