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第四話 日常

 数日後の夕方、曇り空の中を本田の操縦する九七式司令部偵察機が赤羽飛行場の滑走路に着陸した。朝から降り続いていた雨はすっかり止んでいたが、滑走路には所々に水溜まりが残っている。古びた迷彩がそのまま残された九七司偵は、旧式だが頑丈な固定脚で水たまりを跳ね飛ばしながら速度を落とし誘導路に向かっていった。

 つづけて、銀色の塗装も真新しい三式戦闘機”飛燕”が二機、間をおいて着陸してくる。くすのき隊の長谷川准尉と、たちばな隊の林曹長の機体だ。三人はその日の昼前、本来二人乗りの九七司偵で各務原にある川崎の工場に向かった。そして補充の新しい飛燕を受領してトンボ返りしてきたのだった。雨で空襲はないと判断した戦隊長の命令で、悪天候の中なるべく技量の高い三人が選ばれた輸送任務だった。

 本田は九七司偵を旧格納庫の脇の周辺を土盛されただけの掩体に収めると、長谷川准尉、林曹長と一緒に戦隊長の執務室で帰着の報告をした。

 その後、本田はどのみち今日の出撃はないと考え、飛行服を脱いで桜隊のピスト(空中勤務者詰所)に向かった。


 ピストは出撃や訓練飛行のない操縦者が集まる待機場所だ。大抵の場合、出撃までの時間を将棋を指したり本を読んだり、それぞれ思い思いに過ごす。本田が入った時、五、六人の下士官操縦者が居たが、なぜか気だるい雰囲気に包まれていた。

「……なんだ?」

 本田が怪訝そうな顔でつぶやいた。

「さっきまで、きーちゃん……門倉紀依さんがここにいらしてたのであります!」

 小飛出身、戦隊最年少の横井伍長が、立ち上がって本田に言った。

「なんだって!?」

 本田は仰天した。

「本田軍曹殿に面会だったのですが、面会所は寒いからと伊吹中尉殿がピストにお連れしたのであります。門倉さんは最初は緊張気味にお話しされていたのですが、彼女がみんなで銭回しをしようと言い出しまして……」

 銭回しは2チームに分かれて、それぞれ歌を歌いながら手の中を小銭を回していき、歌が終わった時に誰が小銭を手に持っているかを当てるゲームだ。

「遊んでいたら楠隊の連中もなだれ込んできて、全員で銭回しをしていたのであります」

 横井伍長と同期の平川伍長が、立ち上がって補足した。

「途中から金毘羅船船になっておりました」

 金毘羅船船こんぴらふねふねは、リズムに合わせて交互に椀を取るか置くかのお座敷遊びだ。

「だ、大丈夫なのか、いろいろと!?」

 奥に座っていた、最年長の田平軍曹が穏やかな顔で言った。

「いま通信隊のところに行っていますが、伊吹中尉殿もいましたし、こいつらに粗相のないよう釘を刺されていました。彼女もキャーキャー言いながら楽しんでいたので大丈夫だと思いますよ」

 本田は冷や汗を拭いながら、田平軍曹に答えた。

「あ、ありがとうございます。しかし、上に見つかったらただでは済まないのでは……」

「最後は戦隊長殿も入ってきて遊んでおりました!」

 平川伍長が答えた。

「嘘だろ……」

 本田は絶句して、入ってきたばかりのピストを飛び出した。

「もう帰られましたよ!」

「わかってる!伊吹中尉殿のところだ!」

 本田が出て行ったあと、年若い少年飛行兵たちは口々に感想を言い合った。

「きーちゃん、可愛かったなぁ……」

「あの大きな目が…‥」

「どこの歌劇団の子かと……」


◆◆


 翌日の昼下がり、本田は再び仰天することになった。

 紀依の父、門倉武雄が彼の経営する工場の従業員数名と共に赤羽飛行場に現れたのだ。どこで調達したのか、会社のトラックに慰問品を満載して飛行場に乗りつけた武雄は、本田に会うなり、娘が自分に”命の恩人”のことを昨日の夜まで話しておらず、参上が遅れたことを平身低頭で詫びた。大騒ぎになった営門に伊吹が様子を見に現れ、最終的には藤井戦隊長が応対することになった。後ほど宴席を設けることにして武雄は帰って行ったが、あまりの大事に、本田は恐縮しながら同席していた。


 だからその夕方、ピストで寛いでいたところに衛兵が現れ、「本田軍曹に、門倉紀依さんが面会にいらしています」と言った時、本田は椅子から転げ落ちそうになった。

「何っ!」

 しかし、そう言って立ち上がったのは平川たち少年飛行兵だった。

「ち、違うお前らじゃない!」

 本田は慌てて彼らを制したが、不服そうな彼らの顔を見て、奥で本を読んでいた伊吹が吹き出した。

「自分も行きます!」「行きます!」

「だめだ!昨日の非礼を詫びてくるんだからな!」

 そう言って彼らを座らせ、本田はピストを飛び出した。



 本田が面会所に走り込むと、いつものように紀依がちょこんと座って待っていた。本田の顔を見ると明らかに緊張した面持ちがパッと明るくなるが、すぐにまた神妙な顔に戻った。

「か、門倉さん?」

「あ、あの。昼間……父が来たよね?何か滅茶苦茶してた?」

 紀依は恐る恐る、という感じで切り出した。

「い、いえ。丁重にお礼を言われてました」

「そう……私の顔を見るなり門のところの兵隊さんが笑い出して、戦隊長の許可は出てるし本田軍曹はピストにいるだろうから勝手に入って行ってくださいって。私逆に怖くなって、しろさん呼んでもらったの」

 本田はほっとした表情で笑った。

「大丈夫です、ちょっと焦りましたが、戦隊長が応対されていたし、慰問品もたくさんいただいてしまいました。戦隊長は終始上機嫌でしたよ」

「よかった!今日はね、昨日しろさんと会えなかったから……あの、ちょっとだけ顔が見たくて」

 紀依の顔がまたいつもの明るさに戻り、本田も安堵した。

「それより昨日はすみません、うちの連中が……門倉さんのような両家の子女に芸者みたいなことさせてしまって」

 紀依は吹き出した。

「うちただの町工場だよ!家も蒲田の長屋だし」

「いえ、社長令嬢でしょう!」

 本田は頭をかきながら頭を振った。

「昨日はみんなと仲良くなれたし、しろさんのこともいろいろ聞けたし、楽しかったよ。しろさんが居なかったのは残念だったけど……あ、そしたらいまやろうよ!」

 そういうと、紀依はカバンの中からカップを取り出し、テーブルの上に置いた。

「これ袴の代わりね。三味線がないから、一緒に歌おう!」

 結局、本田が歌を知らなかったから、紀依が例の歌、金毘羅船船を歌い始めた。ニコニコしながら歌う紀依の澄んだ声に、本田は胸の内が暖かくなっていくのを感じ、自分も自然に笑みが溢れるのがわかった。

 そしてゲームを始めると、勝っても負けても笑い転げる紀依の姿を見て”箸が転んでもおかしい年頃”とはこのことかと本田は感心した。同時に、昨日の田平軍曹の話が嘘ではないこともわかり、安堵し、そして一緒に笑った。心の底から笑ったのはいつ以来だろうかと思った。


 ひとしきり遊んだ、というよりも紀依が笑い疲れたところで、ふと紀依が切り出した。

「そういえば、昨日しろさんが乗って行った”なんとかしてい”ってまだあるの?」

「あ、九七司偵ですか?」

「そうそれ。田平さんが、しろさんが凄く楽しそうに乗って行った、って言ってたから。どんな飛行機かなって思って」

「お見せします!」


 少し暗くなり始めた飛行場を歩き、本田は今は使われていない旧格納庫の脇の掩体壕に紀依を案内した。他の掩体壕と違い、土盛の上に木製の簡易な屋根をかけただけのものだ。九七司偵は今は飛燕のような作戦機でなく、連絡用に使われているせいで保護の優先度は低かった。

 本田は掩体壕の前の覆いを閉め、屋根にかかった電球をつけた。九七司偵の古い、中国大陸で使われていた時代のままの迷彩塗装が施された、スマートな姿と頑丈な固定脚が浮かび上がった。本田は九七司偵の胴体の脇の翼の上に乗ったあと、少し躊躇してから紀依の手を取り、同じように翼の上に乗せると、天蓋を開いて操縦席を見せる。

「この飛行機は九七式司令部偵察機と言って、戦闘機と違って敵の様子を探るための飛行機です。こいつはそれの初期型でかなり古いので今は偵察機としては使えないです。だから連絡機に使ってます。元々二人乗りなんですが、昨日は自分が操縦して後ろに無理やり二人乗せて、各務原まで新しい飛燕を取りに行ったんですよ」

 紀依はニコニコしながら話を聞いていた。

「武器はないの?」

 紀依は周囲を見渡して尋ねた。

「えーと、後部座席にあるにはあるけど、偵察機ですから、実際は飾りみたいなものです。こいつはスピードが武器ですね」

 そういって少し言い淀んでから、つぶやいた。

「自分も……司偵隊の方が良かったのかも」

「?」

「いえ、なんでもありません」

 そう言って本田は慌てて操縦席の観音開きの天蓋を閉めたが、手元が狂い天蓋の枠に軍服の裾を引っ掛けた。

「あぁ……」

 本田は憂鬱な面持ちで軍服の破れた裾を見たが、紀依の顔は嬉しそうだった。

「私が繕ってあげる!」

 そう言って紀依は翼の上を飛び降りると、掩体壕の隅に置いてある長椅子に肩からかけたカバンを置いて中を探り、小さな裁縫セットを取り出した。

「こっちきてそれ脱いで!」

 紀依がそう言ったところで、掩体壕の外でどさっと何かが転がる音がして……平川伍長が転がり出てきた。平川は慌てて立ち上がり、あからさまに「しまった!」という顔で、まだ翼の上に立っていた本田に敬礼する。続けて、平川と同期の横井伍長、中沢伍長も同じ顔で壁の影から現れ、敬礼した。

「お前ら、何しにきた」

 本田は答礼を返し、呆れたような表情で言った。

「司偵の様子を見にきたのであります!」

 平川が応えた。

「嘘つけ!……まぁいい。適当に見ていけ」

 本田が笑うと、三人はほっとした様子で姿勢を緩めた。

「きーちゃん、俺のもいい?外れかかってて」

 横井が紀依に向かって、自分の軍服のボタンを指差した。紀依はびっくりした表情で成り行きを見ていたが、横井の言葉で、また笑顔になった。

「もちろん!しろさんの次ね」

 紀依がそう言うと、平川と中沢もすぐに声を上げた。

「俺も!」「俺、靴下持ってくる!」

 紀依は笑いながら長椅子に座った。

「いいよ!ハイみんな並んで!」

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