第三話 星の印
翌日のお昼前の陸軍赤羽飛行場。
飛行場の隅にある射撃試験場の土手の前に、尾部を持ち上げられた飛燕が置かれていた。本田史郎はその操縦席に乗り込んでいる。
一昨日の東京大空襲の夜、B-29の防御銃火を浴びた本田の飛燕は不時着を余儀なくされていた。不時着の原因となったのは被弾によるエンジン停止だが。その直接原因の過給機以外にも、右翼の機関砲も銃弾を受け、交換が必要になっていたのだ。
交換した機関砲は実際に試射をして弾道と照準を合わせる必要がある。本来この作業は整備中隊の武器係の仕事だ。しかし本田はいつもその場にいるようにしていた。
土手の標的に向け、交換した機関砲を数発射撃しては調整し、正しい照準になるよう詰めていく。本田はこの作業が好きではなかったが、任務を遂行するためには絶対必要な作業でもあったから、整備兵任せにしたくはなかったのだ。
整備兵たちとの調整作業が終わった。本田は深いため息をついて操縦席のヘッドレストにもたれかかり、しばらくそのまま目を瞑った。その後、主翼を伝って地面に降りた本田の前に、飛行場の衛兵が現れ敬礼した。
「本田軍曹殿、面会です」
本田は答礼した後、怪訝そうな顔で年嵩の衛兵に聞いた。
「面会?」
赤羽飛行場の第百九十一戦隊に異動になってから、本田に面会人が来たことはなかった。
東北出身の彼には東京に親類縁者はいなかった。
兵士は手元のメモを改めて見てから言った。
「門倉紀依さん、とのことであります。女学生の方です」
本田は驚いて答えた。
「わかった……すぐ行くから待っててもらってくれ」
「了解しました」
衛兵はサッと敬礼すると、営門に向かって走っていった。工具を片付けた武器係の整備兵も本田に敬礼し、去っていく。本田は急いで飛燕のそばに戻ると、尾部を下ろした飛燕を機付整備兵達と一緒に押し、掩体壕に戻していく。
◆◆
桜を見舞った翌日は日曜日で学校は休みだったから、紀依は早めに起きてセーラー服にもんぺ姿で陸軍赤羽飛行場までやってきた。京浜東北線はやはり上野から不通だったから、前日の帰り道と同じように品川から山手線で迂回することになった。電車には空襲の罹災者がたくさんの荷物を持って乗り込んできていた。あちこち焼けこげた衣服と火傷の痕も痛々しいその姿は、乗客の視線を集めていた。
紀依は飛行場の営門をくぐり、衛兵に”本田軍曹”に面会にきたことを告げた。すると、そばにあった面会所に案内され受付で名前と住所、それに年齢と本田との関係も聞かれた。
紀依は「命の恩人」と言ったが、衛兵は「知人」と記入していた。そして待っているように言われて入った面会所は、小さな小屋に長い木のテーブルが四つと、その両側にこれも木製の長椅子がしつらえてあった。紀依は緊張しながら一番手前の椅子に座った。
しばらく待つと、面会所の引き戸がガラッと開き、軍服姿の本田が息急き切って入ってきた。紀依は立ち上がった。
「こ、こんにちは!」
紀依はうわずった声で挨拶すると、お辞儀をした。本田も慌てた様子で略帽を脱いだ。
「おはようございます!あの、どうしたんですか?」
「え、ええと……昨日と、先月のお礼がしたかったんですけど……迷惑だった、かな……」
最後の方は消え入りそうな紀依の声に、本田は大袈裟に首を横に振った。
「い、いやとんでもないです。ありがとうございます!」
紀依の顔がパッと明るくなった。
「座ってください」
本田に促され、紀依がちょこんと長椅子に座り直すと、本田は反対側の椅子に座った。
「よかった!今日はね、これを持ってきたの」
紀依は脇に置いたカバンの中から包みを取り出した。そしてそのまま立ち上がると、テーブルの脇を通って本田の隣に座り直した。
「これね、工場の人たちに配った残りなんですけど、でも美味しかったから、一緒に食べようと思って……あれ?」
そう言って包みを広げ、本田の顔を覗き込んだ時、紀依は本田が硬直していることに気がついた。そして、ほとんど密着していた自分の体を、さっと離して座り直した。
「すみません!友達からいっつも近すぎって言われてて……ほんと、気をつけないと」
紀依はペコペコ頭を下げた。
「い、いえ、大丈夫です!ありがとうございます、いただきます!」
そう言って本田は慌てて包の中のおはぎを一つ頬張って……喉に詰まらせた。
「んごご……」
「私お茶持ってきてる!」
紀依は慌てて体を伸ばし、カバンの中から魔法瓶とカップを取り出した。急いで中のお茶を注ぎ、本田に渡した。
本田はカップを受け取り、お茶を飲み干すと、安堵のため息をついた。
そして下を向いたまま……笑い出した。
それを見た紀依も、つられて笑い出す。
しばらく二人で笑った後、本田がしみじみとつぶやいた。
「うまかったです、ゆっくり食えばよかった。ええと、門倉、紀依さんですよね?」
「そうです!きいって呼んでください」
満面の笑みで、紀依は続けた。
「本田、史郎さん?なんて呼べばいいの?」
「えっ、普通に、本田でいいです」
「それだと、おじさんみたいだよ」
紀依は一瞬考えて、本田の顔を上目遣いで覗き込んだ。
「そしたらね、えーと。しろさん、しろさんでいい?」
「え……あ、はい!」
本田は目を白黒させながらうなずいた。
その後、残りのおはぎを二人で食べると、紀依は本田を質問攻めにしていった。
「しろさんて、結婚しているの?」
紀依はじっと本田の目を見て尋ねた。本田は思わず目をそらす。
「い、いえ。まだ二十歳ですし、独身です!」
「私より三つ上なんだ!お付き合いしてる人とか……いるの?」
「い、いえ。去年まではずっと外地にいましたし、おりません」
紀依は少し安堵した顔になったが、本田には見えていないようだった。
「外地って、ビルマ、とか?」
「はい。ここに来る前はフィリピンにいましたが、その前はビルマです。それで、その前はニューギニアに行ってました。一度だけ、オーストラリアにも」
「オーストラリア!コアラ見た?」
紀依の大きな瞳が輝いた。
「いえ、空からだったので……でも着陸しましたし、そのとき砂漠は見ました!」
「今度お話聞かせて!」
「は、はい」
本田の隣に座った紀依は話をしている間にジリジリと近づき、再度くっついていた。それに気がついた紀依は、あっと小さく声を上げると少しだけ離れて座り直した。ちょこんと頭を下げると、俯きながら本田に尋ねた。
「そうしたら……私、また来てもいい……かな」
「も、もちろんです!」
ちらっと、横を見た本田の目に、紀依の屈託のない笑顔が映った。二つ結びにした髪が、ふわっと揺れた。
「よかった!」
本田は軍服のポケットから取り出したハンカチで汗を拭き、いきなり立ち上がった。
「ひ、飛行機をお見せします!」
◆◆
本田は面会所をものすごい勢いで走り出て、数分後に帰ってきた。上官である伊吹中尉に急いで許可をもらってきたらしい。紀依は本田の案内で基地内を歩き、滑走路の脇にある多数の掩体壕、コンクリートで覆われた格納庫の一つにやってきた。
掩体壕の中には、水冷エンジンを搭載し尖った機首を持つスマートな戦闘機、飛燕が翼を休めていた。紀依があの日見たままの、上面が緑色、下側はシルバー——紀依はその時灰色だと思っていたのだが——に塗られていた。二人が近づくと機体を取り囲んでいた数人の整備兵が作業の手を止め敬礼した。本田が答礼し、紀依もペコリとお辞儀をすると、彼らは作業に戻った。
「これが、あの時の……」
紀依は横に並んで立つ本田の顔を見た。本田は飛燕を眺めながら答えた。
「そうです、あの時の機体です。フィリピンで受領してから半年くらい、ずっとこれに乗ってます。突っ込みも効くし、手足のように動いてくれる、いい飛行機ですよ」
本田は飛燕に近づいて、すらっとした機首部分、エンジンの収められているカバーを右手で撫でた。
「一昨日の夜の戦闘で過給機が被弾してエンジンが停止して大変なことになったんですが、こいつの頑丈さのおかげで、なんと帰ってくることができました。昨日のうちに修理も済ませてもらって、もう飛べます」
それから本田は飛燕の脇に置かれた棚の上から始動用のハンドルを手に取り、機体の脇を指差した。
「これをあそこに差し込んで、ぐるぐる回して、操縦席からスイッチを入れるとエンジンが始動します」
面会所での動揺ぶりとは打って変わって楽しそうに話す本田を見て、紀依も自然と笑みがこぼれ、飛燕に近づいて本田の横に立った。
「高く飛べる?」
紀依は本田の顔を覗き込んで尋ねた。
「もちろん。でも九千メートルくらいが限界ですね。そこまでいくと空気が薄くて、ふらふらして。飛んでるだけで必死です。でも、その時の空はどこまでも青いですよ」
「いいな、私も飛んでみたい!」
本田は笑った。
「綺麗ですけど、零下四十度くらいの極寒の世界です」
「……やっぱりいい」
紀依は目を瞑って手で体を抱え、笑った。
「そこの白い星は何?」
紀依はふと目についた操縦席の脇に並んでずらっと描かれた、星のマークを指差した。
「それは……」
今まで楽しそうに話していた本田の表情が、サッと曇った。
操縦席の脇に立って作業をしていた整備兵が振り返ると、口ごもった本田と紀依を交互に見て、ちょっとためらい気味に、口を開いた。
「これは、撃墜した敵機の印です。一つのマークで一機撃墜です」
紀依は目を丸くして、整備兵に聞いた。
「え、これ全部そうなの?何個あるの!?」
「二十六個です。本田軍曹殿は大型機を四機、小型機を二十二機撃墜されています」
「……ほんとに? しろさん、すごい!」
紀依は驚きの表情で横に立つ本田の顔を覗き込んだ。あれ?と紀依は思った。
「そうなんですよ、本田軍曹殿は凄腕の撃墜王なんです。第百九十一戦隊の誇りです」
整備兵が続けると、本田はなぜか眉をひそめて答えた。
「こんなのやめようって言ったんですが。これまで戦果はみんなのもので、個人のものじゃないはずだったのに……先月から士気向上のため、ってことでこんな印をつけることに……」
◆◆
翌日の昼休み、湊高等女学校の校舎屋上で桃子と紀依が二人で弁当を食べていた。
「しろさんて……犬じゃないんだから」
桃子は呆れたように紀依に言った。話題は昨日の紀依の面会のことだった。
「いいでしょ!しろさんはしろさんだよ。それに本人がいいって言ったんだから、いいの!」
紀依は少し膨れっ面で答えたあと、ぼーっとした表情で空を見あげた。
「彼女いないって言ってた……」
「いきなり面会に行ってよく聞けるね。なんかこう、そうっと探ったりするものじゃなくて?」
「聞くでしょ!大事なことだよ」
「そ、そっか……」
「陸軍の軍人さんなのに髪も長くてなかなかハンサムだし真面目そうだし、いい人かも……でもちょっと怪しい時があるけど、なんでかな」
桃子が目を細め、疑わしそうに紀依を見た。
「それさ、紀依が私らといつもみたいにベタベタくっついたんじゃないの?」
「うっ!」
「図星か……」




