第二話 あの日のこと
あの日、数週間前の冬の晴れた日。
いきなり空襲警報がなった時、学校が休校になっていた紀依は自宅で雑誌を読んでいた。普通は警戒警報が先に発令され、いよいよ空襲の危険が迫った時に空襲警報に切り替わる。両親は仕事場である工場に行っていたから、家にいるのは紀依一人だった。同じように学校が休みだった小学生の弟の勝己は、友達と多摩川に魚釣りに行っていた。
連続したサイレンが鳴り響く中、紀依は少し迷ってから防空頭巾を被り、多摩川に向かった。途中、一緒に遊んでいた弟の友人たちに出会い、弟が一人で多摩川に残っていることを聞くと焦りを感じて走り始めた。
土手を超えて河川敷に着くと、遠くで釣竿を持っている弟はすぐに見つかった。走りながら大声で弟の名前を呼ぶと、弟も釣竿を片付け、戻ってこようとしていた。
しかし、遅かった。
紀依が弟のそばに駆け寄って手を掴み、走り出そうとした時、空から爆音が近づいてきた。
音のする空を見上げた紀依の目に、青い戦闘機が急降下しながら接近してくるのが見えた。戦闘機は明らかに二人を狙っていた。
そして、両方の翼がチカチカと光った。
一瞬の後、銃弾の甲高い飛翔音、ドスドスと着弾する不気味な音、土の弾ける音、跳弾が上空に再度舞い上がっていく音——
凄まじい音に二人は包まれた。
視界は土煙で霞んでいく。
「お父さんお母さんごめんなさい——」
なぜか、紀依はそう思った。
直後、プロペラとエンジンの轟音と、機関砲のダーーーッという射撃音が、紀依と弟の頭上を通過して行った。
空から弟の持っていたブリキのバケツがペシャンコになって落ちてきて、音を立てた。
紀依は土煙の中、弟の手を取ってへたり込んだ。
二人は、まだ、生きていた。
口の中に土の味が広がり、硝煙の匂いが鼻をついた。
銃弾の嵐は、奇跡的に一発も当たっていなかった。
「……逃げ……るよ」
紀依は震える声で弟に声をかけると、目を見開いた弟は必死に何度も頷き、立ち上がった。
よろけながら、紀依も立ち上がると、弟の手を引いて土手に向かって走り始めた。
銃撃の後、二人の頭上を通過したグラマンF6Fヘルキャットは、ゆっくりとUターンを始めていた。そのさらに頭上を、もう一機のヘルキャットが援護するように周回している。
「かっちゃん……すこし……はやく」
小さな弟の手を引き、紀依は走った。機銃掃射の土埃は風に乗って彼女たち追いかけ、周りが見えにくくなっていた。空襲警報のサイレンと、飛行機の爆音がドロドロとうなりをあげて、冬の多摩川に響き渡っていた。
◇◇
その日、日本陸軍の戦闘機「飛燕」に乗った本田史郎軍曹は、空襲警報と同時に陸軍赤羽飛行場を離陸していた。出撃待機についていた、上官である伊吹芳彦中尉も同時に上がっていた。小型機多数接近の連絡が師団本部からあったものの、レーダーで探知できるはずの時間はなく、完全な奇襲攻撃を受ける形になっていた。
二機は都心上空を通りすぎ、侵入方向との情報があった横須賀方面に向かいながら、急ぎ高度を上げていた。その時、多摩川上空で地上を銃撃するアメリカ軍の戦闘機を先に発見したのは伊吹だった。
『——前下方に小型機二機。先行しろ、援護する』
伊吹からの無線の指示に、前を飛んでいた本田は河川敷に目を凝した。すぐにアメリカ海軍の戦闘機、ヘルキャット二機を発見した。銃撃が着弾した土煙の中、二つの人影がノロノロと土手に向かって移動しているのも見えた。地上を掃射したと思われるヘルキャットは上昇しながら旋回し、再攻撃に移ろうとしていた。
「了解」
無線で答えた本田は、周囲と後方を改めて見渡し、他の敵機がいないことを確認した。
そしてスロットルレバーを少し押し込み、操縦桿を倒して降下態勢に入る。ふわりと、体が浮き上がる感覚を覚えた。彼の操る三式戦闘機「飛燕」は、頑丈な翼と機体による突っ込みを得意とする機体だった。ヘルキャットの動きと、飛燕の速度と高度を計算した本田は、速度を一気に上げて急降下で接近して行った。
本田は攻撃体制に入ったヘルキャットの未来位置を目測で計算し、照準を遥か前に定めて修正する。ヘルキャットは地上の二人に向かって真っ直ぐに接近していく。本田は敵にはまだ気づかれていない、と思った。
急降下しながら、本田はこのままでは引き起こしが間に合いそうもないと判断した。そして有効射程距離のかなり手前から、操縦桿の機関砲の発射ボタンを押し込んだ。
軽快な音と共に飛燕の機首に備えられた二丁の十三ミリ機関砲が銃弾を吐き出した。遠すぎて当たらないと考え、両翼の二丁は使わなかった。両側各十発程度の発射で、すぐに射撃を止めた本田はスロットルレバーを戻し、操縦桿を全力で引いて飛燕の姿勢を上昇に持って行く。ギリギリだ、と本田は思った。すぐに、凄まじい下方向の荷重が彼の体を座席に押し付けた。
その間にも飛燕から放たれた銃弾は吸い込まれるようにヘルキャットの前方に真っ直ぐに突き進み、数秒後、エンジンから操縦席に正確に飛び込んだ。厚い防弾装甲を誇るヘルキャットも、真上からの攻撃を遮るものは何もない。操縦席を貫通し、床下の胴体燃料タンクに炸裂弾が飛び込んだヘルキャットは大爆発し、墜落して行く。
紅蓮の炎を吹き出すヘルキャットが、紀依の頭上を螺旋を描きながら落ちていった。多摩川の水面に、凄まじい衝撃音と共に水柱をあげて墜落した青い戦闘機を見て、死を覚悟していた紀依は再びへたり込んだ。
そこに、キーンという金属音と共に本田の飛燕が猛烈なスピードで紀依と弟の上を通過して行った。飛燕が多摩川の水面ギリギリをかすめ、川べりの学校のガラスを衝撃波で破りながら、校舎を際どく避けて急上昇して去っていく。
上空をゆるく旋回待機していたもう一機のヘルキャットがあわててフル加速で本田の飛燕の追尾を開始した。そこに伊吹の飛燕が急降下で降りて銃撃を加えると、そのヘルキャットは今度は川崎側の河川敷に墜落し、黒煙が多摩川上空に立ち上った。
「助かった……の?」
逃げる途中に転んでしまった弟を庇い、息を詰めたまま動けなくなっていた紀依は、空を見上げた。
すぐに、最初にヘルキャットを撃墜した本田の飛燕は、操縦席の天蓋を開いて河川敷に戻ってきた。そして、そのままゆっくりと翼の日の丸を見せるように機体を傾け旋回を始めた。本田は目に掛けたゴーグルを頭上にずらし、河川敷の紀依と弟を確認した。
紀依は弟を抱きしめたまま動けなかったが、機上の本田と目が合うと、力を振り絞って手を振った。本田は紀依たちの無事を確認し、笑顔で手を挙げた。そしてゴーグルを下げるとそのまま上昇、伊吹の飛燕と合流し南の空へ向かって行った。
◆◆
紀依と本田は、病室でお互いを見た瞬間に、全てを思い出していた。それはあまりにも衝撃的な、特に紀依にとっては忘れられない記憶だった。号泣する伊吹と桜、なだめる美沙子を病室に残し、本田と桃子と一緒に病院の中庭に紀依は移動した。
「ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました!」
小さな木に囲まれた病院の中庭で、紀依は何度も何度も本田に頭を下げた。
「い、いえ、たまたま横須賀上空に向かう途中で、それに任務ですから!」
本田は逆に恐縮しながら応えた。
「あの時は……弟と一緒に死ぬんだと思った!」
そして紀依は感極まって、泣き出した。
「怖かった、怖かったよ!うわあああん!」
「間に合ってよかったです……」
多摩川の時のように、その場に座り込んでひたすらに泣く紀依を、本田はオロオロしながら、なだめ続けた。
その日の事件は、その翌日に紀依本人から聞いてたので状況はわかっていた。しかし、桃子はただ二人を交互に眺めるしかなかった。
しばらくして落ち着いてきた紀依を、本田は隅にあったベンチに座らせた。
泣き止んだ紀依はそれでも少ししゃくり上げながら、隣に座った本田に自己紹介した。
「門倉紀依って言います。桜の同級生で、東京湊高等女学校の五年生です」
「自分は本田史郎、陸軍軍曹です。赤羽の飛行第百九十一戦隊で……見ての通り戦闘機の操縦士をしています」
本田は閑静な病院には場違いな自分の厳つい飛行服を差し、少し恥ずかしそうに笑いながら名乗った。
「本田……史郎さん……、桜とはどういう関係なの?」
「え、えーとですね。桜さんは自分の上官の伊吹中尉が妹のように可愛がっていてですね……」
本田はしどろもどりになりながら、伊吹と桜と自分の関係を説明し始めた。
◇◇
夕焼けの中、二人は病院を出て山手線の田端駅まで歩いていた。内回りで電車が動いているという話を聞き、帰宅するつもりだった。桃子は新宿まで、紀依は品川まで行けばそこから乗り換えて家まで戻ることができる。南の方の空には、いまだに大空襲の痕跡の幾つもの煙が見えていた。
「伊吹さんと桜のあの態度、兄と妹って感じじゃないよね」
桃子は空を見ながら伊吹芳彦を思い出していた。陸軍航空士官学校の生徒だった頃の伊吹とは、何度か顔を合わせたことがあった。彼は士官学校の休日の外出日には、ほぼ桜に家にいたからだ。
「桜って光ちゃんが好きだったんじゃないの?ちょっとショックだよ。私はお似合いだと思ってたのに……」
紀依は本田にもらった航空糧食のチョコレートを食べながら言った。
「そうだけど……いろいろ事情があるんでしょ。久々に会ったけど、伊吹さんて確かにかなりの美男子だ……」
そう言って桃子はニヤリと笑った。
「まさか、二股!?」
紀依はチョコレートを頬張りながら目を細めた。
「こんな時局でも妄想が捗りますな」
「でも伊吹さんの男泣きすごかったねぇ」
「びっくりしたけど、ちょっとキュンときたね」
二人は笑った。
「それはそうと本田さんにもびっくりしたね、何かこう……」
桃子は改めて驚きの表情で紀依の顔を見つめた。
「そう!まさかこんなところで会えるなんて、ドキドキするよ。ものすごい運命を感じるよ!」
紀依は泣いた後の少し腫れた目で、桃子を見返した。




