第十八話 暁空の下で
沖縄本島より東の海上八十海里、エセックス級正規空母”リヴァイアサン”艦内の作戦会議室で、ヴィンセント・”スパーク”・ケリー中尉はタバコを吹かしていた。そこに情報士官のジャクソン中尉が、オレンジ色の封筒を手にやってきて、話しかけた。
「スパーク、指宿を攻撃した陸軍航空軍のサンダーボルトが散々にやられた件は聞いたか?」
「聞いた。フランク(疾風)の二個中隊にやられたそうだな」
ケリーは灰皿にタバコを押し付け火を消した。
「どこにそんな大部隊が残ってたんだか」
「二個中隊じゃなくて二機だ」
ジャクソンは指をVの字にして笑った。
「まさか」
「そのまさか、だ。鹿屋を攻撃していた58.2任務部隊のヘルダイバーが見ていた。高位から連続攻撃をかけられて翻弄されたらしい。で、その件を問い合わせたら、出てきたのがこれだ」
ジャクソンはテーブルの上に放った封筒から写真を取り出した。ケリーは写真を受け取ると、パラパラとめくって行く。P-47サンダーボルトが翼の機銃を射撃する際に、同時に撮影していたガンカメラの写真だ。
「これはフランク(疾風)……じゃないな。ゼロ(零戦)やオスカー(隼)でもない」
ジャクソンは封筒から更に一枚の識別用写真を取り出した。キ−100、五式戦闘機の写真だった。
「そうだ。トニー(飛燕)の水冷エンジンを空冷星型エンジンに換装した新型らしい。名前はまだない。情報部ではいったんそのままトニーで通すことにしたそうだ」
「ふむ。しかし全然命中してない。そもそも後ろにつけてないじゃないか」
ジャクソンはガンカメラの写真を壁のボードに貼り付け始めた。
「そうだ。まぁその中でも……これくらいだな、いい線行ってるのは」
ジャクソンは一枚の写真を指差した。写真の真ん中よりやや上側に、側面から銃撃される五式戦闘機の姿が写されていた。
「しかし、これだって射線に捉えてはいない」
目を皿のようにして写真をつぶさに見ていたケリーは口笛を吹いた。
「撃たれる瞬間にロールして——横滑りで回避してるな。こいつ何者だ?」
「それな。情報部では”赤鼻のトニー”って呼んでる。プロペラスピナーがこいつだけ赤い。ちょっと前から報告は上がっていた。奄美大島近辺でも、海兵隊のF4Uがこいつに何機かやられているらしい」
「なるほど。そうすると次の出撃でお相手する可能性もあるわけだな」
ケリーたちの所属する58.5任務部隊は明日の攻撃で九州南部を目標としていた。
「そうだな。可能性はある」
「こいつは……」
飛び出しナイフを懐から取り出し、”赤鼻のトニー”の写真に投げつけた。
「……俺が倒す」
トンッと軽い音を立てて、写真の上の本田の五式戦闘機にナイフが突き刺さった。
◆◆
四月一日の米軍上陸から始まった沖縄戦は最終局面を迎えていた。四月末の総反撃に失敗して以来、持ち堪えていた日本軍の首里防衛線は、シュガーローフの戦いを経て事実上崩壊していた。特攻を主体とした航空作戦も海軍は菊水六号作戦で実戦機を使い果たし、ついには機上練習機や水上機まで投入する事態となっていた。陸軍は元々持続的な戦いを重視する姿勢からある程度の戦力は残していたとはいえ、消耗度合いでいえば海軍とそれほど状況は変わらないと言ってよかった。
しかし、戦いは終わっていなかった。
「——知覧から六十五戦隊の隼が爆装で出撃するが、特攻ではない。帰還する機体に注意しろ、沖縄から来るのは敵だけじゃないことを肝に銘じておけ。我々の任務は万世からは出撃する特攻隊の徳之島までの直掩だ。事前の連絡では——」
指宿北飛行場の戦闘指揮所正面に並んだ飛行第百九十一戦隊の操縦者五名を前に、伊吹は最後の作戦確認をしていた。少し離れた待機線の後ろでは六機の五式戦闘機がエンジンの音を轟々と響かせている。わずか二ヶ月前に受領した新鋭機の面影はすでになく、どの機体も茶色の塗装は剥がれ、胴体は排気煙で真っ黒になり、補修のパッチがあちこちに目立つようになっていた。伊吹の前の完全装備の操縦者たちも、連日の出撃で疲労の色を隠せなかった。それでも、伊吹を見つめる眼差しは真剣そのものだった。
夜明け前の指宿の空は数日前から降り続いた雨も上がり晴れ渡っていた。うっすらと空は明るくなってきてはいるが、しかし周囲はまだ薄暗い。
「——では行くぞ」
事実上の指揮官である小林少佐は所用で福岡の第六航空軍本部に一時戻っていたから、いつもの締めは伊吹が行った。
操縦者たちはそれぞれの乗機に向かって走り出した。
本田もいつものように自分の五式戦闘機に駆け寄った。車輪止めのかけられた機体の操縦席には、いつものように小さな庇のついた整備兵用の帽子を被った紀依が座っていた。駆け寄る本田を目で追っていた紀依は、本田が翼の上に飛び乗ると操縦席から出て本田と交代した。腰の安全ベルト、落下傘と縛帯の固定を確認し、いつものように本田の頬にそっと手を当てた。
「いってらっしゃい」
エンジンとプロペラの音が至近距離で鳴り響く操縦席の脇で声は聞こえない。
薄暗かった東の空が赤く染まり始めた飛行場では、口の動きがうっすらと見えるだけだった。
本田は黙り込んで紀依の目を見つめていた。
「なに?」
紀依は首を傾げて微笑んだ。
本田は口を開いた。
しかし声は爆音にかき消され、オレンジ色の空へと溶けていった。
紀依は操縦席の縁を掴んで身を乗り出し、爆音の中で声を張り上げた。
「なに!?」
問い返す紀依の肩を、本田は吸い寄せられるように両手で掴んだ。そして、言葉を飲み込む代わりに、彼女の唇を自分のそれで強く塞いだ。
待機線に並んだ六機の五式戦闘機に朝の太陽の光が差し込み、機体を朱色に染めていった。
早朝の清々しいはずの指宿の空気は、いつものように排気ガスと、オイルの焼ける匂いで満ちていた。
◇◇
指宿北飛行場を離陸した六機の五式戦闘機は進路を北西に取った。最初の目的地である陸軍万世飛行場までは高度を取りながら行っても十分程度だ。途中、知覧上空で警戒する数機の四式戦闘機”疾風”とすれ違った。
万世飛行場に百九十一戦隊機が到着すると、特攻隊離陸のための警戒が最初の任務だった。その後、徳之島まで直掩任務を行うことになる。万世飛行場の滑走路からは爆装した九七式戦闘機八機が次々と離陸する。幸い、アメリカ軍の攻撃はなく、機体の性能からは過分な二百五十キロ爆弾の重さによろめきながらも全機が無事に離陸した。百九十一戦隊機六機が前方を進み、九七式戦闘機八機は後下方を追う形で緩やかな編隊を組む。十四機の攻撃隊は南の空へ機首を向けた。
しかし坊ノ岬上空を過ぎ、東シナ海上空へと出た時、本田は隣を飛ぶ伊吹の機体の異常に気がついた。明らかにフラフラして速度が一定しない。速度は九七式戦闘機に合わせて低速で進んでいたから、遅れるようなことはなかったが、明らかに様子がおかしかった。本田は警戒しながら伊吹のそばに寄って、機体を凝視した。
「伊吹さん、オイルが漏れている」
本田は天蓋を開けると、伊吹の機体のエンジンを指差し、無線で話しかけた。
「大丈夫だ」
伊吹も天蓋を開け、本田に向かって頭を振った。
しかし、エンジンのカウルフラップの間、排気管の背後には排気煙ではありえない、黒いいく筋もの流れが機体の後ろに伸びていた。飛燕と違い実績のある空冷エンジンに換装された五式戦闘機とはいえ、度重なる出撃に不調に陥る機体も珍しくはなくなってきていた。
「戻ってください。あとは自分がやります」
「問題ない、徳之島までなら行ける」
伊吹の声は意地になっているように思えた。
本田は空を向いて警戒を続けた。
「自分でいつも言っているでしょう、俺たちには次があるって。ここで海上に落ちたら次はない」
伊吹は厳しい表情で正面を睨みつけた。
しばらくの間、沈黙が続いた。
「——わかった。引き返す」
「あとは任せてください」
本田は笑顔で敬礼した。伊吹は無線の周波数を切り替えた。
「サクラ01より各機へ、エンジン不調のため引き返す。代わりの指揮はサクラ02が行う、終わり」
「サクラ02、了解」




