第十六話 理由
すっかり遅くなった日没の後、指宿の旅館、梅野屋は夜の帳に包まれていた。周囲にはカエルの鳴き声が響き渡っている。基地での一日の勤務を終えて戻り、夕食を済ませ、本田は自室で紀依の膝を枕に寝転がっていた。軍服の上着は長押に掛けられ、襦袢(シャツ)一枚のくつろいだ姿である。紀依は浴衣姿で、右手に耳かき、左手に塵紙を持ち、本田の耳元を覗き込んでいた。
「あーやっぱりけっこう汚れてる!ちゃんと掃除しないとダメだよ、しろさん」
「すみません、あんまり気にしてなくて……」
「やりがいあるからいいけどね」
紀依はニコニコしながら本田の頭を優しく押さえ、耳かきを差し入れた。
紀依は無言で右手を動かしていた。
本田は目を瞑ったまま、つぶやいた。
「紀依さん」
「なに?」
ほんの少しの間をおいて、本田は続けた。
「——なんで、そんなにしてくれるんですか。あの、耳掃除って意味ではなくって……」
「わかってるよ」
紀依は笑った。
そして、ちょっとだけためらった後、微笑みながら答えた。
「それは……しろさんのことが好きだから」
本田は目を瞑ったまま、黙っていた。
「なんで好きでいてくれるんですか?あの時、助けたから?」
紀依もまた、しばらくの間、黙って耳かきを持った指を動かしていた。
「なんでかな。でも、あの時は伊吹さんと一緒に助けてくれたでしょう?」
「そうです。伊吹さん、モテるからなぁ……本人その気がないけど」
「私はしろさんも十分かっこいいと思うよ。それにほら、伊吹さんは桜が好きでしょ」
本田は吹き出した。
「やっぱり、わかりますか?」
「あたりまえだよ!」
紀依も笑った。
「そうなんですよね。伊吹さん、南方でも桜さんの写真をずっと肌身離さず持っていて、オーストラリアで不時着した時も——」
「え、なにそれ?」
「これ話すと長くなるので、また今度お話しします。で、伊吹さん、自分の隼の胴体に乗って帰る間、泣きながらずっと写真を見つめていたらしくて……」
本田は笑いを堪えていた。
「後で絶対聞かせて!こっちはこれくらいかな。じゃ次、反対側ね、こっち向いて」
本田は体を動かし、紀依の体の方に向きを変えた。一瞬だけ、合った視線の先の紀依の顔は、穏やかだった。本田は安堵のため息をついた。
紀依は本田の頭を押さえて、耳の中を部屋の電球でちょうど良く照らせるように動かした。
「やっぱりわからない、かな」
紀依は耳かきを動かしながら、ぽつりとつぶやいた。
「え?」
「なんでここにいるのか。なんでしろさんの耳掻きしてるのか」
紀依は笑いながら続けた。
「理由は、やっぱりわかんない」
本田は紀依の銘仙のもんぺの結び目を、じっと見つめた。
「——ありがとう、紀依さん」
紀依は目を瞑り、両手をそっと本田の頭に置いた。
その時、スッと入り口の障子が空くと、伊吹が軍刀を片手に立っていた。
「本田、軍刀届いたぞ、代わりに持って帰って……」
パッと目を開けた紀依と、伊吹の視線が合うと、本田は紀依の膝枕のまま硬直した。
一瞬の沈黙がその場を支配した。
「——すまん」
伊吹はサッと障子を閉じた。
本田は跳ね起きて紀依の隣に正座で並んだ。
「ち、違うんです!耳掃除してただけなんです!!」
紀依は顔を真っ赤にして叫んだ。
「そうです!勘違いです!」
そっと障子が開いた。下を向いて同じように頬を赤く染め、気まずそうな表情の伊吹が口を開いた。
「そ、そうか……でも、軍刀なんて今はどうでもよかったな。邪魔してすまなかった……」




