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第十五話 見送る空

 翌日から、紀依は伊吹の計らいで指宿北飛行場で軍属として働くことになった。軍属とは、軍に雇われる民間人のことだ。とりあえず、地元の女子青年団が勤労奉仕として行っていた戦隊の空中勤務者の世話、つまり食事の用意や洗濯などを手伝いつつ、徐々に通信隊の補助業務をやってもらう、ということになった。

 軍属は営外居住が基本だったから、宿泊先の問題も戦隊の経理が梅野屋にもう一室を借りることで解決した。

 しかし、紀依が指宿北飛行場に通い始めた、数日後——


 篠山伍長は松林の中の、天蓋付き掩体壕に収められた五式戦闘機の主脚カバーと格闘していた。右手と体を使ってカバーを固定し、左手でネジをカバーにある固定穴にあてがおうとして……落としす。もう一度やろうとすると位置決めは最初からやり直した。二人でやればなんと言うことのない簡単な作業だったが、他の整備兵は別の機体にまわっていた。

 そこに、山盛りの洗濯かごを抱えた紀依が通りがかった。

「あ、きーちゃん、そこに落ちてるネジ取ってくれない?」

 篠山は赤羽から指宿北に来ていたため、他の整備兵同様に紀依とは顔馴染みだ。もちろん!と返事をした紀依は洗濯かごを下ろすと地面を探し、落ちているネジを取り上げた。

「これ?」

「そうそう」

「ここに入れればいい?」

 篠山は意表を突かれ、驚いた表情で答えた。

「え、そうそう!」

 紀依はネジを固定穴に当てがうと、慣れた手つきで頭を回していく。そして地面に置かれたトレーからドライバーを選んで手に取り、締めた。何度かキュッと力を入れ、締め具合を確認する。

「反対側も?」

「え!?そ、そう」

 後ろ側に、篠山が仮付けしたネジの頭を紀依はまた最初は手で回していき、最後にドライバーで締めつけた。

「これでいいかな?あ、これまだ上があるの?」

 紀依はちらっと主脚の付け根を見た。

「一旦止まってるからもう大丈夫……」

 篠山は主脚カバーから手を離し、裏側に回って取り付けネジを確認した。

「——きーちゃんさ、あんた何者?」

 紀依は笑ってドライバーをトレーに戻した。

「何者って、ネジ締めただけだよ」

「いやいや、素人の動きじゃないね。手つきに全く迷いがない」

「うーん……うち実家が町工場だから、お手伝いは子供の頃からやってたからかも」

 そう言って、紀依は地面に置いた洗濯かごを持ち上げた。

「きーちゃん——洗濯はさ、青年団の女の子たちに任せようよ」

 篠山は真顔で五式戦闘機を指差した。

「そのかわり、こっちやらない?」


 前進基地である指宿北飛行場では整備の人手が全く足りていなかった。特に赤羽基地から移動してきた百九十一戦隊付の整備中隊では一人何役もの仕事をこなしていた。 指宿北には独立整備隊が別に配置されていたが、彼らの任務は次々とやってくる特攻隊の機体整備だった。

 結果、紀依は戦闘機の整備の手伝いをやることになった。子供の頃から父の経営する町工場の仕事を手伝わされていて、小学校の六年間は小遣い稼ぎで仕事を手伝っていた、と話すと整備中隊長の中尉の顔色が変わった。ものは試しと途中まで進んでいたハ112−II型のタペット調整作業の続きを見よう見まねでやってのけた後、紀依の陰の渾名は「六年兵殿」になっていた。


◆◆


 早朝の指宿北飛行場。

 青い空の下、七機の五式戦闘機の茶色の機体が松林の中の秘匿掩体から整備兵たちによって引き出され、滑走路脇の準備線上に並べられていた。ピスト前では今日出撃する操縦者達が集まり、小林参謀の訓示を聞いている。その中にはもちろん本田もいた。

 地上の整備兵が慣性始動装置のハンドルを回し始める。お団子にまとめた髪の上に小さな庇のついた整備帽を被り、生成りの作業衣姿の紀依はその五式戦闘機の操縦席に座っていた。計器版に手を置き、耳を澄ませる。整備兵がハンドルを回すにつれてフライホイールの唸る回転音が高まっていく。回転が早くなるにつれ、音はどんどんとサイレンのように甲高くなっていく。そしてバチンという衝撃が走ると同時に、プロペラが回り始めた。

「点火!」

 整備兵の合図が聞こえた。紀依は左手を置いていた点火開閉器を素早くひねり、”止”位置から”右”に切り替えた。バリバリッと言う爆発音と共に、五式戦闘機のエンジンに火が入る。エンジンのすぐ後ろ、機体に沿わせて配置された排気管から白い煙がドッと噴き出す。天蓋を開け放った操縦席の中に甘ったるいシンナーのような刺激臭が立ち込め、すぐにオイルの焼ける匂いがそれに加わった。

 紀依は咳き込みながら、しっかりと足元のブレーキを踏み、そのまま点火スイッチを”左”、”両”位置へと切り替えていく。切り替えるたびに上下するがエンジンの回転自体に異常はない。膝の上に置いたメモを改めて確認し、油圧計を指さす。教えられた位置まで順調に上昇していくのが見える。そして再度メモを見て手順を確認し、プロペラピッチを最低に戻した。あとはオイルの温度が上がるのを待つ間、暖気するだけだ。操縦席に充満していたきつい排気ガスの匂いは、吹き込むプロペラの風でだいぶ薄くなっていた。

 整備兵の一人が翼から上がってきて操縦席の計器を覗き込んだ。いくつかを指差し点検したあと、紀依の被った庇の小さな整備帽をポンポンと叩き、すぐに隣の五式戦闘機に移っていった。紀依がこの戦闘機に乗っていれば、必要な整備兵は一人分浮くのだった。

 

 これに乗って行くんだ——


 そう考えると、紀依は怖さも感じていた。


 ピスト前の操縦者たちを見ると、小林少佐の訓示は終わっていた。その後の伊吹の出撃前の確認も済むと、全員で敬礼、それぞれの機体に駆け出した。本田が紀依の乗っている五式戦闘機の翼の横まで真っ直ぐに走ってくる。紀依は操縦席を出て、翼に登ってきた本田と交代した。そして本田が操縦席に座ると、本田が自分で締めた安全帯と、落下傘の縛帯との接続環を引っ張り、しっかり取り付けられていることを確認した。全ての準備が終わると、ほんの数秒間、二人は見つめあった。

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 目の前のエンジンの爆音に周囲の機体の音も加わり、声はほとんど聞こえない。紀依は本田の頬にそっと手のひらを押し当てた。そして、胴体の手掛けを収納すると主翼から飛び降りた。そのまま滑走路の脇まで駆け足で戻る。

 二人の整備兵が次々と並んだ機体の車輪止めを外していくと、七機の五式戦闘機は出発線をゆっくりと滑り出して行った。そのまま一列になって誘導路から滑走路へと進んでいく。

 見送る地上勤務者が手を振る中、七機は爆音と共に南の空へと飛び立っていった。


 早朝の出撃が終わると、紀依は朝食を整備兵たちと食べることになっていた。旅館の食事は伊吹や本田と同じ空中勤務者用だったからそれなりに豪華だったが、それに比べるとかなり質素だ。ご飯も赤い高粱飯。とはいえ、量はそれなりにあったし、みんなで食べる朝食は嫌いではなかった。

 黙々と食べていると飛行機の爆音が近づいてきた。本田たちの帰還はまだまだ先だった。紀依は一瞬空襲かと身構えたが、壁に掛かったスピーカーから、振武隊が着陸してくることが告げられた。振武隊とは、つまり特攻隊のことだった。全員の食べるスピードが上がり、食べ終わると同時に当番以外の整備兵たちは駆け足で内務班を飛び出していった。紀依も、もちろんそれに続いた。


 すぐに、四式戦闘機、十一機の”疾風”が次々と着陸して来た。整備兵たちがとりつき、松林の中の秘匿掩体に収容していく。実質的に日本が制空権を失っていた九州上空では、作戦機は急いで上空から隠す必要があった。紀依も指示された一機の尾部を数人で持ち上げる係だった。主翼の前縁を押す整備兵たちの先頭になって松林の道を歩いていく。ふと脇を見ると、乗機を降りた特攻隊員たちが緊張した面持ちで小林参謀の出迎えを受けているのが見えた。

 数時間後、百九十一戦隊の七機は全機帰還した。徳之島上空での制空戦闘が任務だったが、会敵しなかったらしい。


 お昼過ぎに、少し手の空いた紀依はピストで操縦者たちから早朝の徳之島上空の話を聞いていた。そこに、小林少佐がやってきた。敬礼!と操縦者の一人が叫ぶと、全員が立ち上がって屋内の礼で出迎える。本田は武器係との打ち合わせで不在にしていた。

 伊吹が小林少佐に近づくが、彼の用事は伊吹ではなく、紀依だった。

 紀依は唖然とした表情で少佐の話を聞いた。

「今夜だが、松乃湯で振武隊の出撃の壮行会をやることになっている。ぜひ門倉君も参加してもらえないか?」

 松乃湯は指宿北飛行場に勤務する主だった将校が下宿に使っている旅館だった。伊吹も元々はそこに居たのだった。

「参謀、彼女は軍属で、今は整備係ですが」

 伊吹が、それとなく釘を刺した。

「軍属は十七時で作業上がりだから問題ないだろう。正直なところ地元の女子青年団の女性や松乃湯の女中方は素朴な人たちが多くてね。今回出撃するのは学徒出身の将校操縦者たちだ。門倉君のような東京出身の女性がいてくれると非常に助かる」

 紀依は、元気よく答えた。

「はい、もちろん行きます」

「ところで、その……服は大丈夫かね?」

 小林少佐は紀依の作業服を見て言った。整備に回った最初こそ機体の清掃や、油脂の補給の手伝いだった。しかし紀依が普通に作業をこなせることがわかると段々と手伝う範囲は広がっていき、先刻の作業でコンプレッサーのオイル交換を手伝い、そして噴出したオイルの直撃を受けて油まみれになっていた。紀依は慌てて袖の匂いを嗅いで答えた。

「だ、大丈夫です!ちょっと綺麗めの服も持ってきてますから。お風呂に入ってから着替えて行くようにします」

「そうか、それはよかった。ではちょっと早めに上がって準備ができるよう、私はこれから整備中隊に掛け合ってこよう」

 そう言って、小林少佐はピストを出て行った。

「門倉さん、何か、申し訳ない……」

「平気です。それに私、小林少佐嫌いじゃないですし」

「あぁ、参謀としてはかなり人当たりの良い方ではあるんだが……」

 伊吹は苦笑いで答えた。


◆◆


 小林少佐の話した通り、紀依は勤務時間の少し前に作業を終わらせ早めに上がることになっていた。最後の夜を宴会で過ごすことになった特攻隊員達の身の上を、整備兵たちは憤慨していた。その声を背に紀依は急いで自分の旅館に戻り、手早く入浴を済ませ身なりを整え、松乃湯に急いだ。

 十五分ほど歩いて松乃湯についたとき、第百十八振武隊の隊員達は三々五々に集まってくるところだった。紀依は頭を下げ、小走りで裏手に周り通用口から入った。

 壮行会は一階の大広間で行われる予定で、松乃湯の女中と地元指宿の女子青年団の女性が準備を始めていた。紀依は挨拶もそこそこに、配膳に加わった。

 先に到着していた振武隊の隊員は用意された宴席に座り、じっと壁を見つめているもの、隣の仲間と談笑しているもの、さっさと飲み始めているもの、さまざまだった。彼らが全員学徒出身の操縦者で構成されていることは小林少佐から聞いていた。ほぼ全員が二十代前半の、特別操縦見習士官(特操)出身の少尉等だった。

 しばらくして、基地司令の大佐の訓示で、壮行会が始まった。小林少佐も参加し、明日の出撃に際しての激励をしていたが、すぐに電話で基地に呼ばれ大佐と一緒に戻って行った。残された隊員達はなんとなく盛り上がらない雰囲気で、静かに杯を傾け、最後の夜を過ごしていた。紀依は青年団の女性等と一緒に彼らにお酌をしながら話を聞いて回った。紀依はなるべく彼らの顔と名前を覚え、自分のことは話さないでいようと思った。


 夕方に始まった壮行会も二十時くらいにはお開きとなった。経理の老大尉が不在となった基地司令や小林参謀の代わりに型通りの締めの挨拶を行った。隊員達は来た時と同じように三々五々に基地に帰っていった。

 静かになった大広間では、数人の隊員がボソボソと喋りながら飲み続けていた。紀依は空いた皿を片付けようと、頃合いを見てテーブルに近づいた。

「あぁ、すまない。遅くなってしまったな。君ももう帰らないと」

 吉村少尉がその場を立とうとした。

「い、いえ。大丈夫です。私、軍属なのでこれも仕事のうちなんです」

「そうなの?」

「そういうことか。門倉さん、東京の人だよね。言葉でわかる」

 と森少尉が横から口を挟んだ。

「はい。生まれも育ちも蒲田です」

「あ、俺も蒲田。雑色駅のそばでね」

 向かいの菊池少尉が楽しそうに杯を煽った。

「え、うち六郷土手です」

「隣の駅じゃないか。寿し政知ってる?」

「もちろん知ってます。うち出前はずっと寿し政でした!」

 菊池少尉は笑った。

「俺の実家だよ。あれ、じゃぁ門倉さんて門倉工業の?あの多摩川のそばにある」

「そうです!」

「俺手伝いで何度か出前に行ってたわ!」

「えぇー!?」

「なになに!?」

「詳しくきかせろよ」

 吉村少尉も森少尉も楽しそうに加わった。


 ◇◇


 それからしばらく、残った酒で紀依を囲んで三人は飲み続けた。女子青年団の女性たちは、最敬礼で帰って行った。

「くー!明日出撃じゃなければなんとしても紀依ちゃんを口説き落とすのに!」

 かなり酔いの回ってきた菊池がクダを巻いた。

「待て待て、先約があるかもしれんぞ。紀依ちゃん彼氏はいるの?」

 紀依は少しためらってから、うなずいた。

「あー!なんてこった!生きる希望を失った俺は!」

 菊池は大袈裟にひっくり返った。

「希望も何もねぇよ!俺たちは今日で終わりだ」

 森が腹を抱えて笑い出した。

「なんだよ、人生充実してたのは吉村だけか!」

 菊池も笑いながら起き上がった。紀依は不思議そうな顔で吉村を見た。

「吉村はさ、恋人を置いてきたんだ」

 ため息をついて、森が続けた。吉村は杯に注いだ酒を一気に煽った。

「最後にもう一度会いたかったが、言い出したらキリがないからな」

 菊池も真顔になってつぶやいた。

「もう覚悟はできているんだが、なんだか不思議な気分だ」

「明日の夜はないんだからなぁ」

「名残惜しいと言えば、名残惜しいな」

 それから三人は口々に語り出した。家族への想い。志半ばで死ぬことへの想い。故郷に残してきた恋人への思い。

 紀依は黙って聞いていることしかできなかった。


 三人はふらつきながら基地に戻って行った。松乃湯の女中達に、あとはやっておくからと促され、紀依は裏口を出た。


「あ……」


 裏口の生垣の陰で、本田が待っていた。

「し、しろさん、明日も出撃なんだから寝てないと!」

 本田は肩をすくめて笑った。

「大丈夫です、どうせ悪い夢見て、そんなに寝られないですから」

「そう……」

 本田は空を見上げて歩き出した。紀依は一歩後からついて行った。

 紀依がポツリとつぶやいた。

「あの人たち、明日はもういないんだね」

 本田は下を向いた。

「そうですね。自分達だって明日はどうなるかわからないけど、振武隊は必ず……」

「吉村少尉、森少尉、菊池少尉。みんな本当は死にたくなんてなかったんだ」

「……そうですか」

 本田は大きく息を吐いて、また空を見上げた。

「紀依さんは人を正直にさせるんですよ。あなたになら話してもいいかな、と思うのは、自分だけじゃないってことですね」

 本田は静かな表情で笑った。

 紀依は困ったような怒ったような顔で続けた。

「人にはみんなそれぞれの想いがあるんだよね。死んだら……誰にも言わずに死んだら、その気持ちもなくなっちゃう。でも、私にはなにもできないんだ」

 本田と紀依は黙って歩き続けた。

 色濃くなり始めた若葉の小道を歩く二人を、満天の星空が静かに照らしていた。


 翌日早朝、進路啓開のため伊吹の率いる第百九十一戦隊が先行して離陸、一時間後に第百十八振武隊が出撃した。紀依は通信室で突入の際の連続長音を聞いた。

 第百十八振武隊は一機も戻らなかった。

 第百九十一戦隊機は永野伍長機が被弾多数で喜界島に大破不時着したが、残りの全機は帰還した。

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