第十四話 再会
飛行場の名前は指宿北だったが、最寄りの駅が指宿枕崎線の二月田駅であることは聞いていた。日が傾きかけた頃、紀依はその二月田駅にたどり着いた。木造の小さな駅舎を出ると紀依は思いっきり体を伸ばして空を見上げた。
四日間、客車や待合室の硬い椅子に座り続けた体はガチガチに固まっていた。西鹿児島の乗り換えの時にも何も食べられず、お腹もひどく空いていた。駅前には小さな雑貨屋以外は何もなかった。田んぼを挟んで少し離れたところに国民学校(小学校)の校舎が見えていた。
本田たちが宿泊している”梅野屋”の場所を雑貨屋の店主に尋ね、向かうことにした。横井伍長をなだめすかして聞き出した”梅野屋”は駅を二十分ほど歩いたところにあった。
紀依はこじんまりとした二階建ての旅館を見つめた。
しばらくの間、立ち尽くしていた紀依は意を決して敷地に足を踏み入れた。
「ごめんください」
紀依はおそるおそる玄関の引き戸を開けて入った。
すぐに、仲居らしき中年の女性が出てきた。
「よういっしゃいました。今日はお泊まりですか?」
「あ、あの、こちらに陸軍の本田史郎曹長がお世話になってると聞いて来たのですが」
「はい、本田さんはいらっしゃいますけど、どげなご関係ですかね?」
仲居は別に怪しむような雰囲気ではなかったが、紀依は躊躇した。
「あ、あの……家族のものです」
本当はなんの関係もないのだが、そう言わずにはいられなかった。
「そいですか。本田さんはだいたい六時ごろには戻って来らですよ。お部屋で待たれます?」
「は、はい!」
紀依は靴を脱いで下駄箱に入れ、玄関を上がった。
こちらへ、と仲居が紀依を案内した。階段を上がると、突き当たりの小さな部屋に入った。部屋は畳敷の六畳の部屋で、窓の遠くに丘のような山が見えていた。
「今日は泊まっていかれます?」
「できますか?外食券はあります、東京のですが……」
「本田さんのご関係でしたら、なくても大丈夫ですよ。夕飯も一緒に準備しときますね。それとお風呂はいつでも入れますけん、ご自由にどうぞ」
「お風呂入ります!」
風呂の場所を紀依に教えると、仲居は部屋を出て行った。
紀依は部屋の中に入り、しばらくのあいだ呆然と立ち尽くした。東京を出ること三日、ついにやってきた、と不思議な感動が湧いてきた。
部屋の隅に、洗濯が済んだものらしい、綺麗に畳まれた軍服が置かれていた。紀依は歩み寄ってその前にぺたりと座り込んだ。青地に金色の鷲が刺繍された、操縦士の証である空中勤務者胸章のついた軍服を手に取ると、じっと眺め、そっと顔を埋めた。
「しろさんの匂いだ——」
紀依は軍服を顔につけたまま前に倒れこんで……そのまま落ちた。
◆◆
「……さん、紀依……さん」
紀依は優しくゆすられる感覚で、目を覚ました。
夢うつつの状態で体を起こすと、だらーんと涎が垂れるのを感じて、口を拭った。
「じゅるる……あらら、あー、あぁ!?」
左手に持ったままの軍服に、盛大な涎の跡がついていた。
「あっ!!」
「紀依さん?」
ふと左を向くと、しゃがんで紀依の肩に手を乗せた——本田がいた。
「し、しろさん!」
紀依は、手に持った軍服と本田を交互に見た。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
「い、いや大丈夫です、それよりどうしたんですか、なんでここに」
「わ、私お風呂に入ろうと」
紀依は、はっ!と息を飲んだ。
「だめ!近寄っちゃだめー!!」
紀依は出し抜けに立ち上がると、部屋の隅に飛び退いた。
「えっ!?」
本田は目を丸くして、絶句していた。
「だめ!わたし四日間もお風呂入ってない!」
本田と紀依は一階にある風呂まで旅館の廊下を歩いた。少し前を歩く本田から数歩離れて、紀依は下を向いてついて行く。手には着替えの浴衣と手拭いを持っていた。
「三歩下がって歩くなんて紀依さんらしくないですよ。そもそもぜんぜん臭くなんてないです」
本田は笑いながら振り返り、立ち止まった。
紀依は立ち止まった本田を見て、一歩後ろに下がった。
「臭いよ!自分でわかるもん……」
その時、”ぎゅーっ”と盛大に紀依のお腹が鳴った。
「もうやだ……恥ずかしすぎる……」
紀依はしゃがみ込み、手に持った浴衣で顔を覆った。
必死に笑いを堪えながら、本田が続けた。
「ちょっと食事を早くしてもらうように言ってきます。先に入っててください。女湯は奥の方です」
「しろさん……」
紀依は浴衣で顔を覆ったまま、ポツリと話しかけた。
「なんですか?」
「……いきなり来ちゃって、怒ってない?」
「怒ってないですよ」
紀依には見えなかったが、本田は微笑みながら答えた。
梅野屋の食事は、個室ではなく食堂で取る形式だった。本田は、いつもは伊吹と一緒に食べているとのことだった。が、今日は伊吹が打ち合わせで遅くなり一人で食べる予定だった。
風呂上がりの二人が食堂に着くと、四人がけのテーブルに二人分、食事が用意されていた。紀依はいつものように本田の隣に座ろうとした。今日は正面に座って欲しいと本田が言うと、紀依は改めて向かいの席に座り直した。
ふたりは、いただきます、と両手を合わせてから夕食を食べ始めた。
紀依は食べながら、ひたすら道中の話を本田にした。
「……それでね、やっと買えたかしわめし弁当。今日は肉なしだって、それってもう、かしわめし弁当じゃないよね、たまごのり弁当だよ!でも美味しかったけどね、そのあとはお弁当は買えなかったし他に食事できるところもなかったし……本当に何もなかったのね」
紀依はそういうとまた黙々とご飯を食べ、お櫃の米をさらによそっていく。
「で、もうお腹ぺこぺこだったので、お風呂の前にあんな恥ずかしいことになりました!」
本田は笑いながら牛肉の皿を、紀依の前に置いた。
「そうしたら紀依さん、よかったらこれもどうぞ。少し食べちゃったけど。かしわの代わり」
「え、えぇっ!?だめだよしろさん。任務大変なんだから、しろさん食べないとだめ!」
「いや贅沢な話なんですが、よく出るので少し飽きてしまって」
「そ、そうなの?じゃあ……おいしい!」
紀依は牛肉を頬張ると、本田も嬉しそうにそれを眺めていた。
「自分の話ばっかりしちゃったから、今度はしろさんのお話も聞かせて」
紀依がそう言うと、本田は気が抜けたように座り直した。
「自分の話は、つまらないですから……」
食事の後、二人で並んで歯磨きをしてから部屋に戻ると、紀依は仲居の持ってきたお茶を入れた。
「三日間も汽車に乗りっぱなしじゃ肩も凝ったでしょう」
「そうなの!もう体がカチコチだよ」
「肩揉みましょうか?」
「えっ、いいよ、しろさんにそんな……うーん……でも気持ちいい……」
——数分後。
「ありがと、じゃあ今度は私の番!」
しばらくして、背中や腰もマッサージし終わると、紀依はちゃぶ台の上に置かれた本田の腕時計を見た。
「しろさん明日も早いよね?もうお布団敷いておく?」
「そうですね……あぁすみません」
紀依はちゃぶ台を窓際に移動させると、押し入れから布団を出して並べ始めた。一つ並べおわると、もう一つを横につけて並べ出す。
「え!?紀依さん?」
紀依は黙ったまま布団を二つ並べ、それぞれに枕を置いた。そして本田の前に正座で向かい合った。
「え、ええと部屋は別じゃ……ないんですね」
本田が焦りの混じった口調で言った。
「ふ、ふつつかものですが、よろしくお願いいたします」
紀依は正座のまま両手をついてお辞儀をする。
「い、いや、その……」
「お願いが一つだけあって、しろさんが嫌じゃなければこれを使ってください……それと、わ、私、あ、あの……初めてだから……うまくできないかもしれないけど……ごめんなさい」
紀依は横に置いた木口のバッグから、例のものを取り出した。
「電気、消さないと」
紀依は電球のスイッチの紐を引こうと立ち上がったが、足がもつれた。
「あっ」
本田はさっと立ちあがって支えた。
がっしりとした手で両脇を抱えた本田は、そっと紀依を座らせた。紀依はそのままへたり込んだ。
「駄目、駄目です。紀依さん!」
紀依は黙ってうなだれた。
「さっき話し損なった、つまらない話。ちょっといいですか?」
紀依はうなずいて顔を起こした。本田は、少しだけためらった後、口を開いた。
「先週の出撃で、自分は特攻隊のにわか仕立ての隊長になって、一緒に敵艦に体当たりしそうになりました。でも、敵の空母に飛び込む寸前に、忘れようと思っていた、あなたの声が聞こえた。それで操縦桿を引いてしまった。そのときは、自分だけ帰ってきてしまって、申し訳なくて、どうしようもなく恥ずかしかった」
本田は一度視線を落としてから、もう一度紀依を見つめた。
「だけど、こうしてあなたの顔を見て、声を聞いて、帰ってきて良かったと思った——自分はやっぱり、あなたが……紀依さんが好きです」
本田は紀依の目を見て、続けた。
「でも——いや、だから、自分はいつ死んでもおかしくないから、これ以上はだめなんです」
「だったら、せめて——」
「それに、自分にはやっぱり……。やっぱり今はここまです。すみません」
紀依は、少し肩を落として、うなずいた。
本田は紀依の頭にそっと手を置き、部屋を出ていった。
障子が閉まる音がして、部屋に静寂が戻ると、紀依は並べられた二つの布団の前で、しばらくぼんやりとしていた。
「……好きだって、言ってくれた」
紀依は本田の言葉を思い返した。その後の、紀依のことを心から思ってくれている言葉に、胸の奥がじわりと温かくなった。でも、同時に恥ずかしさも感じていた。
「……しろさん、ちょっと引いてたよね」
紀依は例のものをバッグにしまった。
勢いで来てしまって、あれもこれも勝手に進めて……。本田の優しさに甘えすぎてしまったかもしれない、と紀依は思った。
——それに。
元々ここに来たのは、なんのためだったのか。もちろん紀依は本田に会いたかった。でも、本田は、きっとあの時の心のまま、戦い続けているのだろう。誰にも言えない本当の気持ちを抱えたまま。ずっと戦っているのだろう。
紀依はゆっくりと布団に入り横になると、布団を胸まで引き上げ、目を閉じた。
どうしたらいいんだろう、どうしたらあの人を……。
そして、最初の失態を思い出してしまった。
「あの軍服、どうしよう……」
◆◆
本田が部屋の外から声をかけると、すぐに伊吹は出てきた。片手にはウィスキーの瓶を持っていた。
「ああ、今そっちに行こうと思ってたところだ」
「ちょっと、今日はこの部屋で寝かせてもらっていいですか?」
「なんだって?」
「紀依さんがきてるんですよ。自分の部屋に」
「冗談だろう!?」
「伊吹さんのせいですよ。伊吹さんが桜さん経由で焚き付けたから」
「ああ、俺はただお前を東京にいちど戻すから会ってやって欲しいと……」
伊吹は天井を見て目を瞑った。
「……すまん、俺としたことが、あの子の行動力を忘れていた」
伊吹は上を向いたまま吹き出した。
「しかし、東京からここまで——汽車できたのか」
「三日かかったって言ってました」
そういうと、本田も額に手を当てて笑い出した。
「悪いことをしたな、あの子にも、お前にも。すまなかった。まぁ入れよ」
伊吹は手に持ったウィスキーの瓶を振って見せた。
「お前が笑うのを見たのは久しぶりだな、寿屋の角瓶がある。小林少佐の差し入れだが、飲まないか?」
「いただきましょう。ほどほどで」
伊吹は本田の肩を叩いて笑った。




