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第十三話 友達

 お昼もだいぶ過ぎ、ようやく到着した岡山駅で立ち売りされている鉄道パンを買うことができた。野菜入りで代用食らしい。でも食べられれば何でもいいと紀依は思った。

 そこに、松葉杖をついた若い軍人が紀依の座っている対面席に入ってきた。

 彼は座席に一度下ろした背嚢を網棚に載せようとしたが、不自由な足のせいで不便そうだ。紀依はさっと立ち上がって荷物に手を添え、網棚に持ち上げた。

「すまない」

 背の高い、陸軍軍曹の階級章を付けた本田と同年代の若者は顔を歪めた。右胸の下側にはパイロットの証である、下士官用操縦者徽章をつけていた。青年は紀依の向かいの窓際に座った。

「操縦者なんですね」

 若者は紀依の言葉に驚いた様子だったが、すぐにまた厳しい表情に戻った。

「ああ、そうだ」

 そのまま、若者は黙り込んだ。

 紀依は袋からパンを一つ取り出し、差し出した。

「ひとつどうですか?」

「いや、いい」

 ぶっきらぼうにそういうと青年は黙って腕を組み、目を瞑った。

 紀依はちょっと居心地の悪さを感じて、パンを袋に戻して窓の外に視線を移した。列車はゆっくりと岡山駅を走り出した。


 しばらくして、紀依はまた袋からパンを取り出し、食べ始めた。さすがに、お腹が空いていた。青年は瞑った目を開くと、窓の外に流れる景色を眺めていた。

「怪我、早く治るといいですね」

 何となく、紀依が話しかけると、若者は薄笑いになり、思ってもいなかった答えが返ってきた。

「もう治らないんだよ」

「え?」

 紀依は目を細めて首を傾げた。

「この右足はもう治らないんだ、みてみろ」

 青年がブーツを脱いだ足の先端は、足首から先がなかった。

「あ……」

 青年は頭を振った。

「B-29の機銃にもぎ取られたのさ。もう俺は飛べない」

「ごめんなさい……」

 紀依は下を向いた。青年はそのまま続けた。

「俺はあの時死ぬべきだった。そのまま体当たりすればよかったんだ」

「——そんなことないです。きっとまた——」

 紀依は必死に声を絞り出した。しかし、その言葉は逆効果のようだった。青年の顔が一層厳しくなった。

「飛べない飛行兵など、ただの穀潰しさ。こんな足で生きてなんになる——飛行兵どころか人間としての価値も何もないんだ!気休めを言うな!」

 青年の言葉は最後には叫び声になっていた。

 気まずい沈黙が二人の間に流れていた。

 紀依はうつむいたまま、何も考えられなくなっていた。

 本田の顔が目に浮かんだ。

 でも、でも——

「そんなことない!私の——私の好きな人だって戦闘機乗りだけど——足がなくなったって、生きて帰ってくれれば嬉しい!きっとあなたの家族だってそうだよ!」

 真っ白な頭のまま、言葉が口をついて出た。

 青年はまた驚いたような表情を見せた。そして大きなため息をつき、座席に座り直して肩を落とした。

 紀依は目にたまった涙を拭い、パンをもう一つ頬張った。もともと味気なかったパンは、全く味がしなかった。


 次の停車駅の倉敷で、身なりの整った老女と孫らしい女の子が乗ってきて、クロスシートの通路側に向かい合わせで座った。紀依は二人のおしゃべりを聞くとはなしに聞いていた。呉の海軍工廠に勤める女の子の父親に会いにいくらしい。声をかけたかったが、正面の若者を見て、やめた。彼はずっと目を瞑って下を向いていた。

 紀依も膝に手を乗せて目を伏せていたが、気がつくと眠りに落ちていた。夢は、見なかった。

 一時間ほど寝ていただろうか、目が覚めると目の前の青年はいなくなっていた。途中の駅で降りたのだろう。

 隣の老女と女の子も列車を降りる準備をしている。しばらくして呉の駅に到着し、二人が降りていくと紀依はまたクロスシートに一人になった。日がだいぶ傾きかけてきていた。


 広島の駅で予定になかった一時間ほどの停車があったせいで、予定より遅れて二十二時に下関に到着した。下関では、機関車の接続にトラブルがあったらしく、さらに一時間半の遅れで出発になった。結局、関門トンネルを潜って門司駅に着いた時には日付が変わる手前になっていた。

 紀依が荷物を持って門司駅のホームに降りると、そこには陸軍の兵士たちが大勢おり、前の列車に続々と乗り込んでいった。当たり前だが、乗ろうと思っていた鹿児島本線の夜行列車はすでに出発していた。それどころか、もう他の列車すらなかった。

 ホームにいた駅員に相談すると、鹿児島行きは翌朝の始発になるらしい。今から旅館を探すのも難しいと思い、紀依は駅の待合室で夜を明かすことにした。暗幕の貼られた薄暗い広い待合室に入ると、同じように始発を待つ人たちが木のベンチに座っていた。


◆◆


 朝の六時に、一時間近く遅れて到着した鹿児島行きの列車に紀依は乗り込んだ。目的の鹿児島西駅には夜の七時頃に到着するはずだった。これ以上遅れなければ、だが。

 各駅停車でひたすら時間がかかるが、駅員に聞くとこの後の急行に乗るよりも早く着くらしい。二晩も硬い椅子に座り通しだったから、お尻も背中も限界だった。でも、ここは我慢するしかないと紀依は覚悟を決めた。

 紀依は列車に乗り込むと、網棚の上に荷物を置き、クロスシートの窓側に座った。すぐに、ショートヘアの少女がやってきて同じようにボストンバッグを網棚に置くと紀依の目の前に座った。

「待合室にいたよね?」

 話しかけてきた彼女は塩野友子しおのともこ、と名乗った。紀依と同い年の十七歳だった。昨夜の臨時急行に横浜から乗ってきたらしい。紀依は見た覚えがなかったから、別の列車に乗っていたのだろう。

「どこまで行くの?」

 友子は聞いてきた。

「ええと、指宿まで」

「私は知覧まで」

「知覧って、どこ?」

 紀依はそもそも九州の地理には疎かった。指宿という地名だって今回の件がなければ全く知らなかったのだ。友子は持っていた小さなカバンから地図を取り出し、場所を指差した。紀依も、指宿はどこかと聞かれて場所を教える。どちらも九州の南端、薩摩半島にあった。知覧と指宿は意外と近くだった。

「私はね、陸軍の操縦士をやってる幼馴染に会いに行くの」

 友子はため息混じりに言った。

「えっ、私も同じ!陸軍の戦闘機に乗ってる……人に会いに」

「もしかして、彼氏?」

 紀依は躊躇いがちに答えた。

「……そうなの」

「いいなぁ」

 友子はもう一度、ため息をついた。彼女が会いに行く同い年の操縦士は、小学校まで友子と一緒だったが、高等小学校卒業と同時に少年飛行兵になった。何度も手紙のやり取りはしているが、近況を知らせる当たり障りのない内容だけだった。

 彼女はずっと片思いをしていた。


 二人がお互いに自分のことを話し合ううち、やがて列車は折尾駅に到着した。朝のホームは人が多く停車時間は短かったが、長距離の乗車券を見せると駅売の名物かしわめし弁当を買うことができた。ただし、掛け紙には本日肉無し、のスタンプが押してあった。

「肉なしって!どういうこと!?」

「かしわめし弁当じゃないよね」

 二人は苦笑いしながら憤慨した。とはいえ”肉なし”かしわめし弁当は、空腹の身にはとてつもなく美味しく感じられたのも確かだった。食べ終わると、一緒に買った茶色の土瓶のコップにお茶を入れ、一息ついた。しみじみと友子がつぶやいた。

「昨日は家からお昼のお弁当までは持ってきたんだけど、そのあと夜は食べられなかったのよね」

「私も!朝はお弁当をもらって、お昼はパンも買えたんだけど。でも昨日の夜は……でもあんまり食欲もなかったから、もしお弁当買えても食べられなかったかも」

 紀依も身を乗り出して答えたが、最後はガックリと肩を落とす。

「どういうこと?」

 友子が怪訝そうな顔で聞くと、紀依は夕方にあった傷痍軍人との一件を話した。

「それはひどい!」

「なんであんなに怒ったんだろう……何か悪いこと言っちゃったのかな」

「紀依ちゃんは悪くないよ、絶対。だって早く治るといいねって言っただけでしょ!」

「そう思うんだけど。それに私はしろさんが怪我していても、戻ってきてくれたら……嬉しいと思う」

「そうだよね!絶対そうだよ!その人おかしいよ!」

 二人は思い出し怒りをしながら、南へ向かって走り続ける列車に揺られ続けた。


 お昼過ぎ、列車は山の裾野にある小さな駅舎に到着した。のどかな田園風景が広がる駅から警戒警報のサイレンが鳴り響いていた。乗客たちは駅員の案内で近くの簡易な防空壕に入った。ラジオから聞こえた西部軍管区情報によると、小型機多数による空襲らしい。しかし停車した駅の周辺には何事もなく、一時間ほどで警報は解除になり列車は出発した。


 熊本駅でも食事は何も買えなかった。

 紀依は手元のバッグから網袋に入った乾パンを取り出した。岐阜で整備兵たち三人にもらったものだ。なんかあったら食べな、と言った気のいい三人の顔が目に浮かんだ。

「一緒に食べよ」

 友子は目を見張った。

「え、いいの!?」

「もちろん」

「用意いいんだね!」

「ちがうの、これ貰い物」

 乾パンを齧りながら、紀依は友子に岐阜で降りて行った整備兵たちのことを話した。

「いいなぁ。私も面会に行けばよかったな。でも彼がどこにいるのかわからなかったし……」

「それはしょうがないよ。私の場合、どこにいるかは最初に教えてくれたしね。家が近かったから」

 紀依は苦笑いで答えた。

「それでもさ、紀依ちゃん、すごい。そんなに仲良くなれて、羨ましい」

 友子は笑った。


 紀依と友子の乗った列車は二時間遅れで鹿児島に向かって走り続けた。そして日が傾きかかった頃、再び警戒警報で停車することになった。海を抜けてまた山間に入ったところにある小さな駅だった。サイレンの鳴動する中、やはり駅員が出てきて駅のそばの防空壕に案内された。車内の顔ぶれは、いつの間にかだいぶ入れ替わっていた。

 防空壕といっても屋根はなく地面を掘っただけの簡素なものだったから、立ち上がれば空はよく見える。しばらくして、遠く空にすっかりお馴染みとなったB-29の大編隊が見え、爆音が遠くから響いてきた。

「出水の海軍航空隊の基地が空襲を受けています」

 程なくして駅員がそう告げた。

 すっかり日の暮れた二時間後、空襲警報が解除された。しかし駅員から告げられたのは予想外の知らせだった。

「線路や架線にも被害が出ました。それと、線路上に時限爆弾混入の可能性があります。安全確認のため、ここ袋駅でしばらく停車します」

 防空壕を出て客車に戻った乗客からため息が漏れた。

 外は真っ暗で、乗客はほとんど動けなかった。車内の電灯も最小限に落とされ、暗幕の引かれた薄暗い車内に人々のささやきだけが聞こえていた。

「どのくらいかかるのかな」

 友子が不安そうに呟いた。

「わからないけど……朝まで覚悟かも……」

 紀依は最後の乾パンを友子と分け合って食べた。固くて味気ない乾パンだったが、今は何よりも貴重だった。

「こんどその三人に会ったらぜひお礼言っておいてね」

「もちろん!きっとすぐに会えると思うから」

「それと、紀依ちゃんも。本当にありがとう」

 

 乗客たちは硬い客車の椅子に座ったまま、夜が更けていった。車内では毛布を被って眠る人、じっと座ったまま目を閉じている人、小声で話す人々。紀依と友子も座席に身を寄せ合うようにして、浅い眠りについた。

 紀依は何度も目が覚めた。身体中が痛かった。外はまだ暗い。三度目に起きた時に時計を見ると、まだ夜中の二時だった。

 また目を閉じた。本田の顔が脳裏に浮かんだ。もうすぐ会える。その思いだけが、紀依を支えていた。


 夜が明けた。

 朝日が車窓の暗幕の隙間から差し込んでくる。乗客たちが三々五々動き始めた。もちろん紀依と友子も外に出て、体を伸ばし、冷たい朝の空気を吸った。

「もう体限界だよ……」

 駅のホームに立った友子はうんざりした顔で体を動かした。

「うん……でも、もう少しじゃないかな」

「だといいな」

 二人は顔を見合わせて、疲れた笑顔を浮かべた。


 そして、まだ早朝といっても時間にようやく動きがあった。

 陸軍の工兵隊による時限爆弾の処理が終わり、鉄道作業員の線路被害の処置も完了したとの連絡があったのだ。その後すぐに後方から救援の機関車がやってきて、ようやく運行が再開された。

 二人ともひどい空腹だった。友子はカバンの底からドロップスの缶を取り出した。缶を振るとカラカラと音がした。

「お母さんが持たせてくれたんだけど、大事にしすぎちゃって。半分こしよ!」

「いいの?」

「うん。昨日もらった乾パンと違って、お腹は膨れそうもないけどさ」

 友子は笑った。紀依は懐紙を取り出して分けてもらうと、一つを口に入れた。ここ何年ぶりかに口の中に広がるドロップスは甘く、空腹にしみるようだった。


 列車は再び走り出した。

 三時間ほど、十数駅を通過して伊集院駅に到着する。友子が立ち上がった。

「ここで乗り換え、知覧行はもう一回乗り換えだけど」

「そっか……」

 友子は荷物を持って、ホームに降りた。

 窓際に戻ってきた友子に、紀依は何を言えばいいのかわからなかった。

「友ちゃん」

「うん」

「頑張ってね、余計なお世話かもだけど、気持ちは伝えたほうがいいと思う……」

「うん……ありがとう、そうするよ。紀依ちゃんも」

 友子の目は涙が滲んでいるように見えたが、それは紀依も一緒だった。

「また会えるかな」

「会えるよ。絶対に」

 二人は手を握り合った。

 列車の出発を告げる汽笛が鳴った。紀依はゆっくりと動き出した列車の窓から身を乗り出して、手を振った。友子も懸命に手を振っていた。

 列車がホームを離れる。友子の姿が小さくなっていく。紀依はずっと手を振り続けた。見えなくなるまで。

 座席に座り直すと寂しさが込み上げてきた。たった一日半の付き合いだったのに、まるで長年の友人と別れたような気持ちだった。

 紀依は窓の外を見つめた。

 列車は南へ、南へと走り続けた。


 西鹿児島駅に到着したのは、それから三十分後だった。

 紀依は荷物を抱えて、指宿枕崎線の乗り場へ向かった。体中が痛くて、足を引きずるようにして歩いた。でも、もうすぐだ。

 ホームに立ち、次の列車を待った。

 最後の乗り換えだ。

 あと少し。あと少しで、しろさんに会える。

 紀依は目を瞑り、大きく深呼吸をした。

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