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第十二話 九州へ

 紀依が空襲で家を焼け出され、府中に引っ越してから三週間ほどが経ったお昼過ぎのことだった。女学校の同級生だった上條桜が、家を尋ねてやってきた。

 紀依は、ずっと胸につかえていた飛行場での一件を桜に謝った。三月の下町空襲で負傷し体調がずっと良くなかった桜と、ようやく元気に会えたというのに、本田との別れのせいで落ち着いて話すことができていなかったからだ。

 とはいえ、桃子が約束どおり桜の家に行って事情を説明してくれていたので、桜は少しも気に掛けてはいなかった。

 それよりも紀依も空襲で焼け出されたこと、本田に別れを告げられた紀依の心を、桜は心配していた。しかし紀依は、すぐに話題を変え女学校時代の思い出話に花を咲かせるようにした。

 だから帰り際、桜は少しためらいながら、そっと切り出した。

「芳兄から昨日電話があってね。本田さんのことで、紀依に伝えて欲しいことがあるって」

「しろさん?」

 桜の不思議そうな顔に、紀依は付け加えた。

「本田、史郎さんなの。だから、しろさん」

 桜は微笑んだ。

「そう本田さんね。来月くらいに一回東京に戻すから、そのとき紀依に会って欲しいって」

「もちろん会うよ。でも、どうかしたの?」

 紀依は不安げな表情で桜に聞いた。

「本田さん、ちょっと疲れてるらしくて、でもみんな頼りにしていて、すぐに戻るのは無理そうなんだって。でも戻ったらなんとか紀依が元気付けてあげて欲しいって……」

 紀依は真剣な面持ちで桜を見つめていたが、その目はずっと遠くを見ているようだった。

「桜、もう浦和に戻るよね?」

「そうだけど」

「ちょっと、途中まで一緒に行くから、待ってて」

 紀依は出かける準備を始めた。


 その夜、紀依は自宅に帰って夕食をとった後、おりいって話があると両親に告げ、本田との経緯と、桜から聞いた言伝の件を切り出した。

「……それで、指宿いぶすきまで行きたいと?」

 紀依の父の武雄は、紀依に聞き返した。

「はい。少しの間あちらにいたいと思います。今は大変な時のようです。本田さんのお側にいたいのです」

 紀依の母、静子を見る武雄の目はやや不安げだった。

 静子は目をつぶってしばらく考えているようだった。数分後、おもむろに口を開いて静かに言った。

「いいでしょう。あの方がいなければ勝己もあなたも、あの日死んだ身。それに命をかけてお国のために尽くしている方です、多少のふしだらは許します」

 紀依の顔がパッと明るくなった。ですが、と静子は続けた。

「ですが子供はいけません。あなたが苦労するのは自由ですが、子供に罪はありませんよ」

「はい。もちろんです」

 紀依は目を伏せて唇を噛んだ。

「待っていなさい」

 静子は席を立って部屋を出て行った。

「お父さん、わがまま言ってごめんなさい。間違いはないようにします」

「あまり感心はしないが、母さんがいいと言うならいいだろう、気をつけて行きなさい」

「はい」

 すぐに戻ってきた静子は紀依に紙袋を渡した。

「事に及ぶ時は必ずこれを使いなさい」

 紀依は袋を受け取ると、中身を取り出した。目を点にしながら「衛生サック」と書かれた箱を開け中身を確認した。箱の表示を確認して、静子に言った。

「お母さん、これ使いかけのようです。あらぬ誤解を招かないでしょうか」

 武雄は、うっと下を向いた。

 静子は表情を一切変えずに紀依から包みを受け取ると、また席を立った。

 部屋の中に気まずい沈黙が流れていた。

 静子はすぐに戻ってくると、改めて紙袋を紀依に渡した。

「新しいものです。これでいいでしょう」

 紀依は袋の中を改めると、脇に置いたボストンバッグの中にしまった。

「ありがとうございます。では行って参ります」

 そう言って、紀依は立ち上がった。

 武雄と静子は驚きの表情になった。

「今からですか!?」

「お昼のうちに、鉄道局に就職した先輩に頼んで切符は手配してもらいました。二十三時の臨時の夜行列車で出発します」

 武雄は慌てて遮った。

「少し待ちなさい」

 部屋を出て行った武雄は財布を手にすぐに戻ってきた。そして財布の中の札を全部取り出し、重ねて持っていた外食券を紀依に渡した。

「九州で使えるかはわからないが、とりあえずあるだけ渡すから持って行きなさい。また必要になったら連絡するように」

「ありがとう、お父さん」

 紀依は頭を下げ、ボストンバッグを持ち、玄関に向かった。



 数時間後、府中を出発し東京駅に着いた紀依は東海道線のホームに急いだ。

 ホームにはおそらく本来の目的であろう、完全武装した陸軍の歩兵の一団が集合していた。彼らは発車を待つ門司行き急行列車の客車に乗り込んでいくところだった。紀依は、一番後ろの客車に入ると、車内の中程、四席向かい合わせのクロスシートの窓際の席に座った。軍用列車だが、後ろ二両だけ軍人の他に、関係する民間人も乗車できるとのことだった。関係者とは何かと、紀依は切符を手配してくれた先輩に聞いた。しかし彼女は関係者は関係者だとしか教えてくれなかった。多分自分と同じような人たちなのだろうと紀依は思った。


 列車の窓には暗幕がかかり、車内の照明は小さな電球しかなく薄暗かった。出発時には人影はまばらで空席が目立っていた。

 そこに、軍人らしき数名の若者たちが入ってきた。通路を進む若者の一人が紀依の席を通り過ぎる時、素っ頓狂な声を上げた。

「あれっ?きーちゃん!?」

「えっ!?」

 紀依は驚いて若者たちを見た。赤羽飛行場の飛行百九十一戦隊の、整備兵だった。三人共、桜隊の整備担当で、もちろん顔見知りだった。

「なんで、この汽車乗ってるの?」

 三人の一人、紀依より二つ年上の飯村伍長は目を細めて紀依に言った。

 紀依はちょっと黙っていたが、観念して白状した。

「九州までね、いこうかなって……」

「本田軍曹に会いに!?」

「……そう」

 整備兵たちは顔を見合わせて笑い始めた。

「すげぇ」「さすが!」「ついてゆきゃんせどこまでも〜」

 三人は口々に囃し立てると、紀依のいたクロスシートに座った。

 彼らは岐阜にある飛行機の工場まで研修に行くところだった。彼らの陽気さは今は少しだけ煩わしい気もした。けれど、初めての一人旅で、しかも気持ちが沈みかけていた紀依にはありがたくも感じた。列車が出発し、彼らと近況を交換し合ううちに、紀依はいつの間にか眠りに落ちていた。


 紀依が目覚めた時、夜通し走っていた列車はちょうど名古屋駅に入るところだった。三人はすでに起きていて、小声で今日の予定を小声で話し合っていた。列車は名古屋駅でしばらく停車していた。

 そこに弁当を抱えた兵士数名が列車の前の方から入ってきた。兵士は席にいる軍人の数を確認して弁当——いわゆる軍弁——を渡していく。紀依の座ったシートも一瞥すると、弁当を三つ、通路側に座った水口伍長に手渡した。

「一つ足りないぞ」

 水口が文句を言った。

「いえ、三人であります」

「この子の分。関係者だ」

 兵士は困惑した表情でちらっと紀依を見た。

「疑うんなら赤羽の飛行第百九十一戦隊に電話して聞いてみろ。戦隊長の藤田少佐殿にな」

 兵士は黙ってもう一つ弁当を渡した。その後ろの兵士は土瓶に入った茶の容器を四つ箱から取り出す。兵士たちが通路を進んでいくと、水口は弁当とお茶を全員に渡した。

「あ、ありがとう……」

 紀依ははにかみながら三人に礼を言った。

「いいのいいの。いつも差し入れもらってるし。そのお礼」

「お礼って、お前一銭も出してないだろ」

「なにっ!」

「あいつ本当に電話したりして」

「戦隊長殿なら、きーちゃんは関係者だっていうさ」

 笑いながら、三人は弁当を開けて食べ始めた。紀依も、いただきますと、手を合わせた。麦飯に焼き魚と漬物だけの簡素なものだったが、空腹を満たすには十分以上だった。

 食べ終わってしばらくすると列車は岐阜に到着した。

「じゃ、また!」

「本田軍曹いないけど飛行場またきて!」

「あ、これ非常食。なんかあったら食べな」

 三人は口々に紀依に声をかけ、網袋に入った乾パンを渡すと列車を降りて行った。


 岐阜駅では紀依の座っているクロスシートには誰も乗ってこなかった。紀依一人だけになった。

 車内の人もそれほど多くはなかった。少し離れた席に軍人が数人と、老人と中年の女性の二人だけだ。

 車内には話し声もなく、時折汽笛の音が鳴る以外、列車がレールを走る規則的な音だけが響いていた。車窓にはのどかな田園風景が広がっている。

 紀依は窓に肘をついて風のように流れていく緑色の水田を眺めながらぼうっと考えていた。九州に着いたら——予定通りなら明日の夕方には指宿までいけるはずだった。

(急に現れたら、しろさんは喜んでくれるかな。それとも怒るかな……)

 紀依はうつむいて足元を見た。

(帰れって言われたらどうしよう……)

 本田がそんなことを言うとは思えなかった。でも、もしそうなったら帰ればいい。

 紀依は思い直した。

(あんまり考えても仕方がない。きっと笑って許してくれる)

 そうして京都を過ぎ、大阪に十時半に到着した。大阪駅にゆっくりと汽車が入っていくときに窓から見える大阪の街は……一面の焼け野原だった。

「大阪も……」

 すっかり何もなくなった東京と同じような風景が、そこに広がっていた。あの日の空襲の炎が紀依の脳裏に蘇った。

 次々と投下される焼夷弾。上空を飛び去るB-29——

 汽車が大阪駅で停車すると、駅のホームに号令が響いた。紀依が窓から少し顔を出して見ると、東京駅で乗り込んだ歩兵の一団が駆け足で客車を降り、集合するところだった。おそらく全員が降りたのだろう、ホームは大勢の兵士が整列していた。しばらくして列車はまたゆっくりとホームを離れいていく。

 その後列車は三宮で停車し、やはり一面の焼け野原になっている神戸に止まり、姫路まで来たお昼過ぎになっても、歩兵が大挙して降りたせいなのか、弁当を配る兵士はこなかった。

(今回は貰えないだろうしね)

 紀依は苦笑いで考えた。

 昨日の夜から硬い三等車の木のシートに座りっぱなしだった。お尻や背中も相当に痛くなってきている。紀依は席から立ち上がり、体を伸ばした。周囲を見ると大阪でかなり人が乗ってきたせいか、席はほぼ埋まっていた。京都や大阪や神戸でも弁当は売っていなかったから、かろうじて神戸の駅で買えたお茶で空腹を誤魔化した。もらった乾パンはもう少し取っておくことにした。

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