第一話 嵐の後
昭和二十年三月十日。
湊高等女学校のコンクリート造りの校舎は、山手線の浜松町駅からほど近い場所にあった。お昼休みのその屋上で、門倉紀依と宮井桃子は北東の方角を眺めていた。その空には空襲の痕跡と思われる煙が、今も空一面に立ち昇っていた。昨夜、日付が変わってから始まったその空襲は、のちに東京大空襲として知られることになる。
「月島あたりから先がかなり燃えてたっていうけど……」
すらっとした長身に白いセーラー服ともんぺ姿の桃子は、腰の高さにある屋上の壁に近づき手をついた。そして切れ長の目を北の空に凝らしながら紀依に言った。
「桜、やっぱり来ないね」
紀依は耳の下で二つ結びにした髪を揺らし、眠そうな目をこすりながら答えた。紀依と桃子がいつも一緒にいる親友、上條桜は登校してきていなかった。彼女の家は激しい空襲の直下、浅草にあった。
「昨日は東の方の空が真っ赤だった。浅草のあたりはやっぱりダメかも」
桃子は東京都の中央西側、淀橋区(のちの新宿区の一部)に住んでいた。彼女の家の周辺には全く爆弾は落ちていなかった。
「うちの辺は何ともなかったけど、北の方に赤い煙が空一面に広がってて、怖くて眠れなかったよ」
紀依の家は東京都の南端である蒲田区(後の大田区の一部)にあり、やはり昨夜の空襲の被害はほとんどなかった。
桃子は胸に手を当てると、意を決したように紀依に言った。
「やっぱり見に行く!」
「わたしも一緒に行く!」
二人は昼休み中の職員医室に向かい、担任の女性教師に早退して桜の安否を確認したいと訴えた。彼女は少しだけ迷ったが、教頭と相談して許可を出してくれた。
学校帰りに桜の家に行くとき使っていた地下鉄は、空襲のせいで全く動いていなかった。そうなると省線(今のJR)で上野か鶯谷まで行き、そこから都電(路面電車)を使うしかない。残っていれば、の話だが……。
二人は浜松町の駅まで行き、山手線に乗った。電車が神田駅を通り過ぎる頃、東の方角に広大な焼け野原になっているのを目の当たりにして、二人は息を呑んだ。街並みはすっかり消え失せ、灰色の世界になっていた。廃墟からはまだ炎が上がっていた。途中、黒焦げの衣服に火傷を負った異様な姿の老若男女が電車に乗り込んできて、乗客の視線を釘付けにしていた。
内回りの山手線は上野で折り返しになっていた。ただ、乗車できるのは御徒町までだったから、二人はそこで降りて歩くことにした。線路沿いに上野に向かい、しばらく行った後に隅田川の方に歩くと、すぐに広大な空間が広がっていた。焼け出されたと思われる、煤まみれになった沢山の罹災者や、知人や親類の安否を求める人々が街をさまよい歩いていた。
二人は瓦礫と灰になった街に入って行った。焼け跡を進むにつれ、あちこちで燻っている火や煙が上がっているのが見える。敗れた水道管からは水が漏れ続けていた。行き交う人は、皆一様に煤けた服で目を細めて歩いている。紀依はひたすら桃子の背中の三つ編みを凝視しながら歩いていたが、ついに耐えられずに声をかけた。
「モモ、さっきから道に黒いものがいっぱい転がってるんだけど……」
桃子は前を向いたまま答えた。
「うん」
「マネキン人形じゃないよね……」
「うん」
紀依は桃子のセーラー服の裾を掴んで止めた。そして消え入りそうな声で訴えた。
「モモ、帰ろうよ、私……もう無理だよ……」
桃子は振り返って紀依に言った。
「だめ。桜の家までは行く」
紀依は裾の代わりに桃子のカバンを掴んだ。小柄な紀依は長身の桃子の後ろを下を向いてついて行くことしかできなかった。紀依の少し幼く見える顔は蒼白になったまま、ひたすらに通り過ぎる地面を向いていた。
一面の焼け野原に、道案内となるような建物は全てなくなっていた。仕方なく記憶を辿って都電の線路跡を辿い二人は歩いた。途中で大通りをそれ、見覚えのある国民学校(小学校)の横を通り過ぎた。そのとき、人だかりにふと視線を送った紀依は凄惨な光景を見てしまい、叫んだ。
「やだー!もうやだー!!」
桃子は道にへたり込んだ紀依の手を握ると、そっと引っ張り、立ち上がらせた。
「もう少しだから」
そこから十分ほど歩き、桜の家のあたりと思われる場所についたとき桃子はつぶやいた。
「このあたりのはずだけど」
すると、瓦礫の山の影からスーツ姿の中年の男性が現れた。
「お、おじさん!!」
桃子が叫んだ。男性は上條誠一郎、桜の父親だった。二人は誠一郎には何度も会っていたから、すぐにわかった。瓦礫の破片を手にした誠一郎は、二人に声をかけた。
「君たちか、そちらの家は大丈夫だったかい?」
「はい、紀依も私もなんともなくって……」
桃子は答えた。紀依もようやく落ち着きを取り戻し、周囲を見渡すと、ぺこりと誠一郎に頭を下げた。
「それは何よりだ。ここは見ての通り丸焼けだ。私は昨夜は千葉にいてね——」
誠一郎は周囲を見渡して苦笑すると、肩をすくめた。
「桜は?」
紀依が、恐る恐る誠一郎に尋ねた。
「ああ。桜は助かった。少しやけどをしてはいるが、命に別状はなさそうだ。いま田端の病院に入院している。ただ桜を助けてくれた光君が行方不明で……私はこれからもう一度探しに行くところだ」
紀依と桃子は顔を見合わせた。安心し、力が抜けた。同時に、桜と仲の良かった上條家の書生、彼女たちと同じ歳の光の顔が脳裏をよぎっていた。
そのとき、遠くで微かに空襲警報のサイレンが鳴り始めた。空を見渡すと、西の空はるか上空を1機のB29が近づいてきているのが見えた。三人は逃げることもせず、B29を眺めた。
紀依と桃子は教えてもらった田端の病院まで一時間ほど歩いた。到着した病院は空襲で怪我をした人たちで溢れかえっていた。受付で病室を確認すると二人は急いで階段を登り、開けっぱなしになっていた病室に入った。小さな個室のベッドに、上條桜は寝かされていた。
「さくら!」
紀依はベッドに駆け寄った。ベッドの脇のスツールに座っていた、上條家の女中の川島美沙子は驚いた様子で立ち上がった。
「あら!あなたたち良くここがわかったわね」
「美沙子さん!」
続けて入ってきた桃子が、美沙子に声をかけた。桜の家に入り浸っていた桃子と紀依は、美沙子とは知り合いだった。
「桜ちゃん、桃ちゃんと紀依ちゃん来てくれたよ」
「さくら、大丈夫?」
紀依は少し涙目になって、桜の頬に手を当てた。
桜の顔は、目を覆うように包帯が巻かれ、同じように手首から先も包帯で覆われていた。元々短かった髪はあちこちが焦げ、さらに短くなっていた。
「うん……」
桜はかすれた声で、つぶやいた。
「桜……」
桃子もベッドの脇に行き、包帯に包まれた手にそっと自分の手を重ね、安堵のため息をついた。
「あの火事でちょっと火傷しちゃって、目も煙でやられてるけど、全部綺麗に治るって先生も言ってたし。大丈夫だから……」
美沙子は三人に言い聞かせるように言った。
「よかった、よかったよー!」
紀依は桜に抱きついて泣き始めた。
「神田から浅草の方を見た時は絶対死んだと思った。本当に良かった」
桃子も、涙ぐんだ目を拭った。
「光が、光が居ないの……」
桜が紀依に抱きつかれたまま涙声でつぶやくと、美沙子は沈んだ目で桜を見つめた。
「光君と二人で隅田川に落ちて、光君が桜ちゃんを船に押し上げてくれたみたいなんだけど、それから行方がわからなくなっちゃって……」
小さな病室はしんみりとした空気に包まれた。
そこへ、ドタドタと重いブーツの足音と共に、一人の若者が病室に飛び込んできた。病院の消毒液と薬の匂いに、ガソリンと排気ガスと、そして硝煙の匂いが混ざり合った。
「えっ!?」
紀依と桃子は唖然とした目で青年を見た。茶色の飛行服に、落下傘用の緑色のハーネスをつけたままのその姿は、まるで病院に飛行機で乗りつけたかのようで、あまりにも場違いだった。しかも彼の頭には血の滲んだ包帯が巻かれ、左目は何かで強打したような青あざで腫れ上がっていた。
「桜……桜なのか?」
病室の入り口で立ち尽くした青年は、一歩、二歩とベッドの桜に近づいて行った。
自分が青年の視界に全く入っていないことに気がついた紀依は、抱きついていた桜をパッと離して飛び退いた。
「芳彦君?」
美沙子が怪訝そうな顔で青年に声をかけ、それを聞いた桜も震える声でささやいた。
「芳兄、芳兄なの?」
「桜!すまなかった!俺が・・・俺がいながら!!うぉおおお!!」
その青年、伊吹芳彦は、ベッドに駆け寄ると、桜の手を取り、子供のように泣き始めた。
「えぇー!!??」
肩を震わせて泣く若い軍人の異様な姿に驚愕し、紀依は桃子に慌てて駆け寄った。二人はあまりの展開に目を点にして伊吹と桜を見つめるしかなかった。
美沙子がベッドの脇で跪いて泣く伊吹の肩に手を当て、大丈夫だから、大丈夫だから、と繰り返し声をかけていた。
そしてそこに、もう一人、大きな足音と共に飛行服姿の青年が走り込んできた。狭い病室はもう四人でいっぱいだったから、彼は入り口で慌てて立ち止まった。ベッドの脇で号泣する伊吹を驚きの目で見る青年を、紀依と桃子は同じように目を丸くして見つめた。
二人の視線を感じたその青年、本田史郎は紀依と桃子に顔を向け、会釈しようとして……硬直した。
……そして、それは紀依も同じだった。
「あ……」
「あ!」
「あ、あの、もしかして!!あの時の!?」
紀依が声を上げると、本田もそれに答えた。
「多摩川でグラマンに追われてた!?」
「あの日本の戦闘機の!!!!」
取り残された桃子だけが、要領を得ない顔で二人の顔を交互に見ていた。




