第34話 彼氏の嘘、ナイトの本気
# 第34話 彼氏の嘘、ナイトの本気
夕方に差しかかる前の街は、まだ明るい。
けれど、光が変わりはじめていた。剣術大会の熱を抱えたままの路地に、少し長い影が伸び、屋台の煙が風にほどけていく。人の笑い声は多い。太鼓もまだ鳴っている。
その音の輪郭が、だんだん粗くなる。
同じ笑いでも、午後の最初のそれは「楽しい」だった。
今のそれは「強い者の側にいる」だった。
勝者を讃える歓声と、勝者に乗っかって自分まで強くなった気がする笑いは、似ていて違う。
祭りの熱は、人を善くも悪くもさせる。
蒼真は隣を歩くセレナの横顔を見た。
さっきまで、彼女は興奮していた。
レイピアの女性剣士が優勝した瞬間、セレナは素直に手を叩いていた。あの時の目の輝きは、学園で見る「秩序の番人」の顔ではなく、ただ一人の剣士の顔だった。
――だからこそ。
今、この街の熱が別の形に変わり始めているのが、少しだけ惜しかった。
「蒼真」
セレナが名を呼ぶ。
「はい」
「……さっきの剣、覚えておきなさい。あなたが剣を続けるなら、必ず参考になる」
命令口調に聞こえないのは、声が柔らかいからだ。勝手に距離を詰めてくる甘さではなく、きちんとした線を保ったままの柔らかさ。
「はい。間合いの取り方が……綺麗でした」
「でしょう? 強さは力ではなく、余計なものを削った先にあるのですわ」
セレナは自分の言葉に納得している。
蒼真は、その“削る”という言葉が、なぜか怖いとも思った。
削るべきものは、いつも明確ではない。
剣なら、無駄な動き。
判断なら、迷い。
――人間なら?
その問いが胸の中で小さく鳴る。
この世界では、誰かが「余計」と判断したものが、簡単に切り落とされる。魔法で、規則で、そして正しさで。
蒼真は視線を前に戻す。
街の通りは、コロシアムから流れ出た人々で混み合っていた。
荷車が鳴る。
瓶がぶつかる。
誰かが笑って、誰かが怒鳴る。
屋台の客引きが大声を張り上げ、肩をぶつけた男が舌打ちし、子どもが走って転び、母親が抱き上げて泣き止ませる。
ひとつひとつは日常の光景だ。
しかし、それらが密度を上げると――空気は簡単に歪む。
蒼真は無意識に出口と逃げ道を目で追っていた。
事件の中心にいる時と同じ癖。
ただ、今回は事件ではない。
――まだ。
セレナは、蒼真の視線の動きを見て、わずかに眉を上げた。
「なにを見ているの」
「人の流れです。……混むと、色々起きやすいので」
「用心深いのね」
セレナは、軽く言った。
蒼真は肯定も否定もしない。
用心深いというより、確率を見る。
人が増えれば、摩擦が増える。
摩擦が増えれば、火が起きる。
そして火は、正しさの顔を借りて燃える。
◇
その時だった。
横から、軽薄だが聞き覚えのある調子の声が飛んできた。
「お、セレナじゃないか」
セレナの足が、ぴたりと止まった。
背筋がすっと伸びる。
さっきまでの柔らかい空気が、一瞬で切り替わる。
蒼真は、その変化を見逃さない。
振り向いた先にいたのは、剣術学園の制服を着崩した男子学生たちだった。
肩口の留め具は外され、襟は少し開いている。腕や肩に、稽古でついた浅い傷が残っている。酒の匂いはあるが、完全に酔いつぶれているわけではない。
だから厄介だ。
自分の言動を「覚えている」程度には正気。
けれど抑制は外れている。
先頭の男は、学園の実技教室で見るどの生徒よりも、剣で鍛えられた体をしていた。筋肉の盛り上がりは誇示ではなく、日々の反復の結果だと分かる。
――強い。
強いからこそ、厄介だ。
取り巻きは二人。ひとりは口の端を歪め、もうひとりは肩で笑う。二人とも、先頭の男の空気に合わせて立っている。
「観に来てたのか?」
先頭の男が、親しげに――いや、馴れ馴れしく声をかける。
髪は短く刈り上げ気味。体つきは鍛えられていて、喉元の笑いが自信に満ちている。
蒼真は、彼の目を見て判断した。
この男は、セレナを「友人」としてではなく、「昔から知っている自分の延長」として扱っている。
名前を付けるなら。
――所有。
「どうだった? 剣術大会。……で」
男はセレナの肩から足先までを、値踏みするように眺めた。
あからさまな視線。
セレナの眉が、ほんのわずかに動く。
彼女は黙ったまま、相手の視線を受け流す。
その態度は、剣を突きつけるよりも冷たい。
「剣術学園に入る気になったか?」
男が言った。
取り巻きが、笑う。
「おいおい、いきなりだな」
「でも主席様なら、こっち来た方が絶対いいって」
蒼真は、言葉に引っかかった。
主席様。
敬意の形を取っているが、実際は違う。
“お前は俺たちの世界の方が似合うだろ”という支配の言い換えだ。
セレナは口を開く前に、一度だけ深く息を吸った。
呼吸。
剣のためだけの呼吸ではない。
感情を整えるための呼吸。
そして――自分を「秩序」に戻すための呼吸。
「……あなたは」
セレナは冷たく言った。
「グレン・ハルディアス」
名を呼ばれた男――グレンは、誇らしげに口角を上げた。
「覚えてたか。さすがだな」
蒼真は、セレナが彼を覚えていることに違和感を覚えた。
覚えているということは、過去に何かがあった。
それが良い記憶か悪い記憶かは、セレナの目の温度が教えてくれる。
――冷たい。
それは怒りではない。
怒りは熱い。
冷たいのは、諦めだ。
蒼真は、セレナの斜め前に立つ。
自然に。
盾になる位置。
ただし、相手を挑発しない角度。
視線を遮り、距離を少しだけずらす。
それだけで、空気の流れが変わることがある。
「セレナさん、この方々は?」
蒼真が尋ねると、セレナは一瞬だけ視線を横に寄せた。
“なぜ今それを聞くのか”という疑問。
蒼真は答えない。
答えなくても、セレナは理解できる。
状況を言語化することで、秩序を戻す。
それが彼女の得意分野だから。
「剣術学園の学生ですわ」
セレナは短く言い、続ける。
「昔、少し剣を習ったことがありますの」
“少し”。
その一言に、距離が含まれている。
過去はあった。
でも今は違う。
セレナはそう宣言している。
グレンは、そんなセレナの距離を面白がるように笑った。
「ほらな。やっぱりお前は剣だ。魔法学園なんてやめろよ」
言い方が、雑だ。
“お前の意思”を確認していない。
ただ、決めつけている。
「お前は剣の才がある。もっと俺が鍛えてやるよ」
グレンの視線が、セレナの胸元に落ちた。
剣士の姿勢で歩いているのに。
彼はそこしか見ていない。
「……いい女になったな」
取り巻きが笑い、肘でつつき合う。
蒼真は、心の中でため息をついた。
このタイプは、言葉で止まらない。
むしろ、正論で止めようとすると反発する。
彼らの中では、世界が“自分中心”で回っているからだ。
セレナは表情を崩さない。
視線をまっすぐ前に向け、淡々と言った。
「いえ。わたくしは剣術学園には行きませんわ」
言葉は静か。
しかし、そこに迷いはない。
「今の魔法学園で十分ですもの」
セレナはそれだけ言って踵を返す。
「では」
そして、蒼真に向けて。
「蒼真、行きますわ」
「あ、はい」
蒼真は頷き、同じ方向へ歩き出した。
その瞬間だった。
背後から、空気が裂けるような気配。
腕を掴まれた。
セレナの腕。
強い力で。
指が食い込み、骨の位置がずれるほどの力。
蒼真は、まずそこを見た。
掴んでいる“力”の事実。
暴力は、言葉より先にある。
「待てよ」
グレンの声が低くなる。
「まだ話は終わってない」
セレナの肩が、ほんの少し跳ねた。
「……痛い」
初めて感情が漏れた。
「放しなさい」
その命令は、正しい。
正しいが――
相手が“正しさ”を理解する種類ではない。
蒼真は即座に、二人の間に入った。
割って入る角度を選ぶ。
ぶつかるように入れば挑発になる。
盾になるように入れば、相手は自分の行為の見苦しさに気づく――ことがある。
蒼真は、ちょうどその線に立った。
「セレナさんを放してくれませんか」
声は落ち着いている。
怒鳴らない。
煽らない。
ただ事実だけを言う。
「痛がってますよ」
グレンは蒼真を見て、鼻で笑った。
「お前誰だ?」
視線が上から下へ。
「ちいさくて、細っちくて気づかなかったぜ」
取り巻きがまた笑う。
笑いの質が、さっきより荒い。
蒼真は、呼吸を一度整えた。
ここで怒れば、相手は喜ぶ。
“煽りに乗った”と。
だから。
蒼真は、最短の肩書きを置く。
「セレナさんの彼氏だ」
セレナが、わずかに目を見開く。
蒼真は続ける。
「清く正しい、お付き合いをさせていただいている蒼井蒼真です」
自分でも、少しだけ可笑しかった。
清く正しい。
こんな場面で言う言葉ではない。
でも、だからこそ効く。
彼らの頭の中にある“男と女の関係”の型に、強引に当てはめる。
そうすれば、相手は理解できる。
取り巻きが、声を上げた。
「うわ、出た、彼氏宣言」
「主席様、まじかよ」
笑いは嘲りだが、同時に“型”に収まる。
型に収まれば、ルールが生まれる。
ルールが生まれれば、止められる可能性が上がる。
セレナが小さく息を吐いた。
「……蒼真……」
驚き。
そして。
なぜか、安心。
蒼真はそれを感じ取って、胸の奥が少しだけ痛んだ。
彼女は、こういう場面で守られた経験が少ない。
だから“嘘”でも、肩書きでも、守りになる。
グレンは一瞬だけ固まった。
だがすぐに、笑いを作る。
「彼氏だと?」
取り巻きが、面白がる。
「主席様、彼氏いたのかよ」
「相手、魔法学園のやつじゃん」
グレンの視線が、蒼真からセレナへ、そしてまた蒼真へ。
そして吐き捨てる。
「お前もどうせ体目当てなんだろう」
蒼真は、眉一つ動かさない。
動かさないようにした。
感情が喉まで上がってくるのを、押し込める。
セレナの腕に残る赤い指の跡が、視界の端に入る。
それだけで、言葉が雑になりそうになる。
だから、同じ言葉を繰り返す。
「いいから、セレナさんを放してください」
蒼真は同じ言葉を繰り返す。
繰り返すのは、相手に“逃げ道”を残すためだ。
怒鳴らない。
感情をぶつけない。
ただ、選択肢を狭める。
放すか、放さないか。
それだけ。
グレンは舌打ちし、渋々、セレナの腕を放した。
セレナは腕を引き寄せ、痛みを確かめるように指先で触れる。
その仕草だけで、蒼真の中の何かが固くなる。
グレンは肩をすくめ、わざとらしく笑った。
「わかったよ。……じゃあ決闘だ」
蒼真は目を細める。
決闘。
この世界では、言葉が通じない相手が最後に持ち出す“秩序”の顔をした暴力だ。
そして厄介なのは、決闘が「公平」に見えることだ。
公平に見えれば、周囲は面白がる。
面白がれば、止める者が減る。
「セレナをかけて」
言葉の最後で、グレンはセレナを見た。
戦利品を見る目。
蒼真の中で、何かが音を立てて切れそうになる。
セレナは表情を変えない。
だが、その目の奥に――怒りがある。
怒りは正しい。
ただ、怒りは剣に直結する。
このままセレナが動けば、相手はそれを待っていたと言うだろう。
――だから。
蒼真は、先に口を開いた。
「いいでしょう」
自分の声が、思ったより低かった。
周囲のざわめきが、一瞬だけ薄くなる。
グレンが口角を上げる。
「お、言うじゃねえか」
取り巻きが囃し立てる。
「やれやれ!」
「魔法学園のやつ、剣振れるのか?」
セレナが蒼真の袖を掴んだ。
掴む力は強くない。
でも、必死だ。
さっき掴まれた腕とは違う。
これは、助けを求める掴み方だ。
「蒼真、やめて」
声が、少し揺れていた。
「勝ち目ないわよ。彼は剣術学園でも強豪よ」
蒼真は、セレナの指先を見た。
震えてはいない。
彼女は冷静だ。
冷静に、蒼真を止めている。
蒼真は、少しだけ笑った。
「セレナさん、大丈夫ですよ」
自分でも不思議だった。
怖い。
勝ち目がないのは分かる。
でも。
ここで引けば、セレナの腕を掴んだ事実が、なかったことになる。
なかったことにしてはいけない。
蒼真は、言葉を選ぶ。
正論ではない。
秩序でもない。
もっと単純なもの。
「尊敬する人を侮辱されて、黙っていられません」
セレナの目が、揺れた。
蒼真のその言葉は、剣より重い。
グレンが笑う。
「いいねえ。じゃあ決まりだ」
取り巻きが囃し立てる。
街の熱が、二人の周囲に集まってくる。
蒼真は、息を吸った。
セレナは、まだ蒼真の袖を掴んでいる。
その指先が、今度はわずかに力を増した。
蒼真は、その温度を確かめるように、視線を落とす。
夕方の光が、二人の影を長く伸ばしていた。
長く伸びた影が、重なりそうで、重ならない距離にある。
蒼真は顔を上げ、グレンの目を見た。
周囲の囃し立てが、波のように押し寄せる。
セレナの指先が、袖を離さない。
蒼真は、もう一度だけ息を整えた。
決めるべきは、勝ち方ではない。
まず――守ることだ。




