第1話 悲鳴の教室
# 第1話 悲鳴の教室
いてててて……。
こめかみの奥がじくじく疼いて、蒼井蒼真は思わず額を押さえた。
「……ここは?」
目を開けると、そこは教室だった。
――ただし、見慣れた教室じゃない。
窓枠は古い木で、ガラスはところどころ薄く曇っている。床板は歩けばきしみそうなほど年季が入っていて、机と椅子は揃っているのに、誰も座った気配がない。黒板の端には消し跡が残り、チョークの粉がうっすら白い。
空気は冷たく、埃っぽい。喉の奥が少しだけ乾く。
「教室……? 校舎……みたいだな」
蒼真は自分の胸元を見下ろした。
紺のブレザー、白いワイシャツ、細いネクタイ、グレーのスラックス。見慣れた高校の制服。胸ポケットの校章まで――見慣れたまま。
「俺は……」
口に出した瞬間、記憶の糸を引こうとして、また頭痛が走った。
「……犯人を追っていたような……」
何か、焦っていた。走っていた。目の前の背中を見失うまいとして――。
「……っ」
思い出そうとすると、脳の奥がぎゅっと締め付けられるように痛い。
「無理か。今は」
蒼真はゆっくり息を吐いて、立ち上がった。足元の床板が、きし、と小さく鳴る。
教室の扉に手をかけて、少しだけ開けた。
廊下は暗い。窓から差し込む光が細い筋になって、舞う埃を照らしている。遠くからは人の気配がほとんどしない。
「……とりあえず、廊下に出てみる」
蒼真は廊下に出た。
その瞬間――。
「きゃあああっ!」
甲高い悲鳴が、校舎のどこかで響いた。
蒼真の背筋が反射的に伸びる。
「今のは……!」
考えるより先に足が動いた。
廊下を走る。靴音が古い床に反響して、余計に自分の位置が分からなくなる。曲がり角を一つ、二つ。どこも似たような扉が並ぶ。
しかし、蒼真の目は落ち着いていた。
悲鳴が聞こえた方向。反響した時間。窓の位置。音の跳ね返り。
「……右じゃない」
足を止めずに呟く。
「壁に当たって……戻ってきた。つまり……二階の突き当たり、奥」
蒼真は階段を駆け上がった。息が切れる。肺が焼けるように痛い。
それでも走る。
突き当たりの手前、少しだけ広い踊り場。そこに近い扉の前で、蒼真はやっと立ち止まった。
胸が上下する。
「……はぁ……はぁ……」
扉の向こうからは、慌てた気配。
「大丈夫か……?」
蒼真は反射的に、扉を開けた。
「だ、大丈夫ですか――」
視界に飛び込んできたのは、金色だった。
夕方の光を受けて、淡く輝く長い髪。白い肌。驚いたように大きく見開かれた瞳。
そして――着替え途中の少女。
上着を脱いだところらしく、ローブも制服も椅子にかかっている。身体に残るのは、淡い黄色の下着だけ。
蒼真は一瞬、言葉を失った。
「……っ」
少女も、同じように固まっていた。
次の瞬間。
「きゃあああっ!?」
悲鳴は、さっきよりも高く、鋭かった。
「へ、へんたいですわーーっ!!」
蒼真は目を逸らし、慌てて扉を閉めた。
「ち、違っ……! 悲鳴が聞こえて――!」
閉じた扉の向こうから、布が擦れる音と、焦った足音。
廊下に立ち尽くした蒼真は、頭を抱えた。
「……最悪だ」
――そういうときに限って、周囲は静かじゃない。
隣の教室の扉が勢いよく開き、男子生徒が飛び出してきた。
「うわっ!」
蒼真と正面衝突。
「痛っ……! だ、大丈夫か!?」
男子生徒は蒼真を押しのけるようにして、先ほどの教室の扉を見た。
「ルミエールさん!? 大丈夫ですか!」
――ルミエール。
蒼真は初めて、その少女の名前を知った。
「おい、おまえ……!」
男子生徒が蒼真の胸ぐらを掴んだ。
「おまえだな!? 覗き魔は!」
勢いが強い。拳を構えている。
蒼真は抵抗せずに、相手の顔を見た。
短い茶髪。目が鋭い。制服は、自分のとは違う。胸元に刺繍された紋章のような意匠――。
「待て。落ち着いてくれ。俺は――」
「言い訳はいい!」
男子生徒は声を荒げた。
「最近、連続で起きてるんだ! 旧校舎の更衣室で! おまえ、覗いてたんだろ!」
「連続?」
蒼真は眉をひそめた。
「……俺は、悲鳴が聞こえたから走ってきただけだ」
「じゃあなんで、扉を開けた!」
「開けるだろ。悲鳴だ」
淡々と返すと、男子生徒は一瞬言葉に詰まった。
そのやりとりに引き寄せられるように、廊下の奥から人が集まり始める。
「何があったの?」
「また覗き魔?」
「旧校舎って、ほんと不気味……」
女子生徒の声。
「隠蔽魔法じゃない?」
「魔法でこっそり侵入とか……最悪」
――魔法?
蒼真の頭の中で、その単語が引っかかった。
男子生徒が名乗る。
「俺はジョージ・クラウスだ! ……ちょっと、隣の教室で写真部の写真を整理しててさ。物音がして、飛び出してきたんだ!」
「写真部?」
「そうだ。……って、そんなことより!」
ジョージは蒼真を突き飛ばすように離し、教室の扉に向かって呼びかけた。
「ルミエールさん! 開けてください! 俺がいます!」
扉の向こうで、戸惑う気配。
「……ジョージ……?」
可愛らしい、けれど震えた声。
「ええ! 大丈夫です! ……その、今……!」
「……俺は蒼井蒼真だ」
蒼真は自分から一歩前に出て、扉に向かって言った。
「覗き目的じゃない。謝る。だが、何があったかは聞かせてほしい」
「……」
一拍。
扉が少しだけ開き、そこから金髪の少女が顔を出した。
涙がうっすら滲んでいる。
そして、今度はきちんと着替え終えていた。
ミニスカートの制服に、上から羽織ったローブ。身体の線が自然と際立ち、豊かな胸元や引き締まった腰のラインが、否応なく目に入る。先ほど見た着替え途中の姿とは違うのに、かえって整ったスタイルの良さがはっきりしていた。
蒼真は一瞬だけ視線を逸らし、そこでようやく確信に近い違和感を覚えた。
――俺の学校の制服じゃない。
「あなた……」
少女は蒼真をまっすぐ見た。
「あなた、連続覗き魔なの?」
その問いが、廊下の空気を一段冷たくした。
「ちょ、ルミエールさん……!」
ジョージが焦ったように言う。
「こいつ、絶対そうです! さっきだって――」
「待て」
蒼真はジョージの言葉を遮らず、しかし声の温度を変えずに言った。
「見たのは事実だ。そこは否定しない。謝る」
廊下がざわめく。
「はぁ!?」
「認めた!」
「最低!」
そのとき、人だかりの向こうから、必死に人混みをかき分けるようにして、もう一人の女子生徒が近づいてきた。
赤みがかった金髪を揺らし、青ざめた表情で、今にも泣きそうな少女だった。
「ル、ルミエール……だ、大丈夫……?」
彼女は人混みを抜けてきたせいか、少し息を乱しながら、そっとルミエールの腕に触れる。
「……こ、こんな……ひどいこと……」
「アリシア、落ち着いて……」
ルミエールが小さく言う。
「わたし、大丈夫ですわ……でも……」
ルミエールはもう一度蒼真を見た。
涙が頬に残っている。
「……本当に、あなたじゃないの?」
蒼真は頷いた。
「連続覗き魔じゃない。俺は今日、ここに来たばかりだ」
アリシアはびくりと肩を震わせ、思わず一歩前に出かけて、すぐに踏みとどまった。
「……そ、そんな……」
震える声でそう漏らし、ルミエールの袖をきゅっと掴む。
「……でも……だって……」
「なら、確認しよう」
蒼真はアリシアを見返し、言葉を選んだ。
「ルミエールさんは、どうして悲鳴を上げた? 何を見て、何が起きた?」
「え……」
ルミエールの唇が震える。
「……壁が、動いたんですの」
「壁?」
蒼真は扉の隙間から、教室の中をちらりと見た。
机と椅子が片付けられ、簡易的な更衣スペースになっている。端にはパーテーション。古い部室を無理やり区切ったような配置。
そして、教室の奥――壁に、楕円形の鏡が埋め込まれていた。
古い教室には不釣り合いな、新しい鏡。
「……」
蒼真の喉が乾く。
「その壁が、どう動いた?」
ルミエールは小さく息を吸って、震える声で続けた。
「着替えていたら……背中側で、きい……って……」
「きい?」
「古い木の音みたいな……。それで……壁が、すこし……ずれたように見えて……」
ルミエールは視線を落とした。
「……怖くて……つい……」
「だからって、扉を開けたこいつが犯人だ!」
ジョージが声を荒げる。
「旧校舎の更衣室で、連続で起きてるんだ! 怪しいに決まってるだろ!」
「制服?」
蒼真は自分の胸元を見下ろした。
確かに、周囲の生徒たちが着ているものとは違う。
「……俺の学校の制服だ。帝都学園」
「帝都……?」
アリシアは不安そうに首をかしげ、困ったように呟いた。
「……そんな学校……聞いたこと、ありません……」
周囲の生徒も口々に言い始める。
「帝都? どこの国?」
「編入生?」
「魔法学園にそんな制服ないよ」
――魔法学園。
蒼真の頭の中で、その言葉が鈍く響いた。
「……魔法学園?」
思い出そうとした瞬間、再び頭痛。
「……っ」
蒼真は一瞬、視界が揺れた。
ジョージがそれを見て、さらに声を荒げる。
「ほら見ろ! 怪しいだろ!」
「ジョージ!」
ルミエールが慌てて言う。
「……やめて。わたし、まだ……この人が犯人だって決めたわけじゃ……」
「ルミエールさんは優しすぎるんです!」
「……わたし、怖かったんですの」
ルミエールの声が小さくなる。
「でも……誰かを決めつけるのも、もっと怖い……」
その言葉に、一瞬だけ廊下の空気が緩んだ。
だが、すぐに別の声が混ざる。
「もうこの更衣室、使うのやめようよ」
「旧校舎だし……」
「魔法で覗くなんて、ほんと許せない」
「捕まえて校則に――」
声は増え、熱を持ち、まとまっていく。
蒼真はその流れを見ていた。
人は、分からないものが怖い。
怖いものは、誰かのせいにしたくなる。
――悲鳴のあと、集団ができる速さ。
蒼真は息を整えた。
「……俺は蒼井蒼真だ」
自分の名を、もう一度、はっきり言う。
「見たのは事実だ。謝る。だが、原因を解明してみせる」
「解明……?」
アリシアは蒼真を見るが、視線はすぐに泳ぎ、助けを求めるようにルミエールの方へ向く。
「……で、でも……本当に……大丈夫なんでしょうか……」
蒼真は、その問いを受け止める。
何者か分からない相手を前にした、当然の警戒だ。
――それでも、どこか引っかかる。
蒼真が口を開こうとした、そのとき。
廊下の奥から、落ち着いた足音が近づいてきた。
人波が割れる。
「はい、みなさん、落ち着いてください」
低く、通る声。
現れたのは、教師だった。
年齢は三十代くらい。整った眼鏡。ローブの裾が静かに揺れる。表情は厳しいが、怒鳴る気配はない。
「何があったのですか」
教師はまず、全体を見渡した。
「順番に話してください。誰かを決めつけるのは、今はやめましょう」
ジョージが前に出る。
「先生! ルミエールさんが! 覗き魔に――!」
「ジョージ・クラウス。声を落としなさい」
教師は名前を呼んで、静かに制した。
「ルミエールさん。あなたが最初に見たこと、感じたことを教えてください」
ルミエールは小さく頷き、口を開いた。
「……放課後、部活のあとで……ここで着替えていましたの。ひとりで……」
周囲の女子がざわつく。
「ひとりだったの?」
「危ないよ……」
「だから言ったのに……」
教師は手を上げて沈める。
「続けて」
「……背中のほうで、壁が……すこし、動いた気がして……。それで、怖くて……」
ルミエールは視線を落とし、声を絞り出した。
「……叫んでしまいましたの」
教師は頷き、次に蒼真を見た。
「あなたは?」
「蒼井蒼真です。悲鳴が聞こえて、走ってきました。扉を開けたのは……俺の落ち度です」
教師は蒼真の制服に目を止めた。
じっと見る。
蒼真は目を逸らさない。
「……その制服は、どこのものですか」
「帝都学園」
「……帝都」
教師の眉がわずかに動いた。
――知っているのか、知らないのか。
判断できない。
廊下の女子生徒がまた囁く。
「もうこの更衣室使うのやめようよ」
「魔法をこんな風につかうなんて、許せない」
「絶対、隠蔽魔法だよね」
「処罰してもらおう」
教師は深く息を吸い、言った。
「はい。落ち着いて。
今は推測で話を進めません。
まず現場を確認し、状況を整理します」
その声には、不思議な重みがあった。
人波が少しだけ静まる。
蒼真は、その隙に壁際へ視線を滑らせた。
旧校舎。
無理やり更衣室にした教室。
仮設のような壁。
そして――楕円形の鏡。
古い場所に、新しいもの。
誰かが意図して置いたみたいに。
蒼真は小さく息を吐き、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……魔法?」
鏡は、ただ静かに光を返していた。
まるで、何も知らないふりをして。




