5
イルハムは走った。
城に戻って、魔道具を奪い返すのだ。腰抜けの盗賊たちなど、もうどうでもいい。魔道具さえあれば、イルハムだけでも夜を越せる。火を焚いて、明かりを灯して、誰にも従わず生きていける。そのためならば、あの門番たちを残らずこの手で殺してもいいとさえ思った。
しかし、どこまで行っても、あの城は影も形も見当たらなかった。渦巻くような強風は足跡を残らず吹き馴らし、来た道さえ分からなくした。
そうして夜が訪れた。
荒野はあまりにも寒く、吹き付ける風は砂を含んで厳しい。魔道具もない。食料も毛布も、荷物は盗賊がすべて運んでいたため、何もない。
歩けど変わらぬ荒涼の景色。イルハムは、身が千切れるほどの孤独に苛まれ、赤子のように泣き叫んだ。その涙すら、乾いた風が散らして奪い去った。
「どこへ行けばいいんだよ!」
喉を砂が叩いた。一人ぼっちの子供は、自分の頭をかきむしって、立ったまま悲鳴をあげていた。
「なんで耐えなきゃいけないんだ! こんなことばかり! どいつもこいつも、平気な顔で生きてるくせに、どうして、俺の居場所は無いんだよ! どうすりゃいいんだよ!」
かれを助けに訪れる影は、今夜こそ、どこからも現れなかった。かぼそい星々の光のもと、強烈な横殴りの風に煽られて、ついにイルハムは意識を失った。
次に目覚めたとき、イルハムは見慣れた寝具にくるまって寝かされていた。
窓の簾の隙間からは、ほの青い夜明けの光が射し込んでいる。起きようと思ったが、全身が鉛のように重くて動かない。少しでも力を入れると、あらゆる関節に痛みが生じるのだ。かれは諦めて、おとなしく横になった。
枕元には、よく見知った少女がいた。
タラーイェ。
おそらくは夜通し看病していてくれたのだろう。彼女は床に座ったまま、うとうとと船をこいでいた。しかし、イルハムがもぞもぞと身じろぎするのを感じたのか、うっすらと目を開けた。
タラーイェは、眠たげな眼差しのまま微笑んだ。寂しげでもあった。
「おはよう、イルハム。お帰りなさい」
「……ただいま」
自分の幼馴染は、こんなに優しい声で話すことがあるのだと、イルハムはこの時初めて知った。
話を聞いたところ、イルハムは村から少し離れた場所で倒れていたのを、ここ数日探し続けていた母によって発見され、こうして家まで運び込まれてきたのだという。
すっかり冷えていたイルハムがまだ生きていると信じ、タラーイェは自ら看病を買って出て、付きっきりで見ていてくれたようだ。
心配してたのよ、とタラーイェは静かに呟いた。「うん」とイルハムはうなずいた。
「……俺さ」
「うん」
「自由になりたかったんだ。息苦しくて、全部が嫌で」
「うん。分かってた」
「あと少しだったんだ。本当に俺一人で生きていけるはずだった。でも……」
「うん」
「……聞いて、タラーイェ」
かれは、すべてを話した。巡礼者のこと、遊牧民のこと、盗賊のこと。手に入れかけた自由を掠め取ってかき消えた巨大な城のこと。
どんなに野蛮なことでも、どんなに現実離れしたことでも、タラーイェは笑ったりせず、最後まで聴いてくれた。
イルハムは、ぐずっと洟をすすって、あえいだ。
「……だから、あの城にさえもう一度行けたら……、魔道具を、取り戻せたら、俺、はそれでよかっ、た、のに」
「ねえ、イルハム。きっとそれは蜃気楼だったのよ。だからね、届かなくても、泣かなくていいのよ。大丈夫、みんな幻だったんだわ。そう、イルハム、長い夢を見てたのよ」
彼女の言葉は、ひとつもイルハムに響かなかった。しかし、その声音の優しさは乾ききった胸に水のように沁み、その手のひらの温かさはあまりにも恋しかった。
かれは歯を食い縛って泣いた。
(最初から無理だったんだ。俺の体は、どこまで行っても自由になれないように出来てるんだ。生まれたときから、一人で夜を越せないように作られてたんだ。どんな仕打ちを受けても、どんな適当なことを言われても、この、誰かの温かさに、俺は負けるんだ)
明日は成人の儀だ。日が昇れば、二人は夫婦になる。きっとイルハムはタラーイェの望むとおりの大人になり、村のために人生を捧げることになるだろう。
しかし他に生きていく道はなかった。
タラーイェの指が静かに涙をぬぐい、イルハムの頬を撫でた。妻となるひとの長い髪がゆっくりと降りかかり、互いの額が、鼻が、触れていく。温かく優しい口づけを受け入れ、息が止まるほどの涙の塊を呑み下しながら、イルハムは、彼女の背中にそっと腕を回した。