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 目指す場所があるわけではなかったが、巡礼者たちとは違う方へ向かって歩いた。しばらく行くと、丈の短い草が生い茂る草原地帯があらわれた。今夜はここで休むことにした。


 巡礼者が分けてくれた干肉を噛み、上着にくるまって、地面の上に丸くなって寝転んだ。峡谷越えで身も心も疲れきっている。じっとしていれば、すぐに眠気が訪れるはずだった。


 しかし、寒さは容赦なく訪れた。風が髪を吹き荒らしては鼻や耳を凍えさせ、堅い大地は全身から熱を静かに奪い取っていった。


 イルハムは泣きたくなって、自分の家の寝床に思いを馳せた。

 父が遺した魔熊の毛皮と、陽の光を浴びた柔らかな寝藁があった。

 恐ろしい夢を見た夜は、母が抱きしめて一緒に寝てくれた。皺の寄った細腕の温もりがなにより頼もしかった。


 誰もいない夜の草原で、自分は今夜、たった一人で死ぬのかもしれない。屍は獣に喰われて腐るだろう。昼には獅子から逃れるためにあんなに必死になったというのに、それから一日もしないうちに、いまは自らの命を寒空に投げ出している。人生とはなんという徒労だろう。


 顔の感覚はほとんど失せた。このまま凍って大地とひとつになるのだと、イルハムは半ば諦めた。


 地平線の辺りに靄が見え、だんだんそれが大きくなるのが分かった。死後の世界の門だろうか。イルハムはそれをぼんやりと眺めた。靄は、ぐんぐん勢いを増して近づいてきて、それが夢でも幻でもない騎馬だと気がついたときには、もう目と鼻の先まで接近していた。


「おうい! お前、生きてるか!」


 馬上の人物は、とどろくほどの胴間声でがなってきた。かれは返事も待たずに馬を飛び降り、イルハムを助け起こして、分厚い手のひらで背中を強く擦ってきた。

 冷えきった体に熱が戻る。

 「大丈夫か」と問われて、答えようとしたが顎が動かない。凍てついた瞳が安堵に融けて、熱い涙がこぼれた。


 イルハムは命を救われた。




 「俺たちは百角族さ」と青年は名乗った。


「遊牧って知ってるか? 羊を育てるんだ。一箇所で暮らしてると、草なんか全部食われてあっという間に無くなっちまう。だから羊を歩かせながら、あちこちの草原を順繰りに旅して暮らすのさ」


「獣を飼ってるのか」


 イルハムは毛布にくるまれたまま目を丸くした。後ろに乗っている青年が吹き出した。


「今更だなあ。お前が今乗ってる馬だって、獣だぞ」


「そうだけど……神官は、獣を人間の思うように使ったら駄目だって言うから」


「あんな奴ら、うちにはいねえよ。なんなら、神官を住まわせてる村の連中だって、こっそり俺らから羊肉やら羊毛やら買ってるぜ。知らなかったのかよ?」


 百角族のかれは、本当に神官を恐れていないように見えた。イルハムは遠慮がちに尋ねた。


「あのさ。あの……俺をあんた達のところに連れてってくれないかな」


「あん? もともとそうだって言ってるだろ。天幕に入れてやるし、毛布も五枚はくれてやる。羊の乳をあっためたやつをいくらでも飲ませてやるよ」


「ありがとう。でも、そうじゃなくて、その後も……。明日からも、一緒に連れてってくれないか」


 イルハムは乾いた唇を懸命に舐め、思いきって頼んだ。


「仲間にしてくれないか、俺のこと。百角族に入れてくれ」




 快諾とまではいかなかったが、族長は、イルハムがしばらく同行することを許してくれた。


「ただし、勘違いはよくねえぞ。まだお前さんを仲間と認めたわけじゃねえ。信頼できん男を迎え入れるなんてのは、一族の名折れだかんな。連れてってやるから、お前さんがうちに相応しい奴だってこと、態度で示してみろや」


 羊の乳煮を啜るイルハムの前にどっかり座り込んで、族長はそう語った。顔にも腕にも傷のある、筋骨隆々の老人だ。絶対にこの人物に認めさせてみせる、イルハムはそう誓った。


 翌朝、イルハムは日の出より早く目覚め、野営地の撤収を自ら手伝った。

 かれらの天幕は、巡礼者たちの使っていた小型のものとはまったく異なり、イルハムの村の家と遜色ない大きさをしていた。それの外壁の布を剥がし、骨組みを折り畳んで片付ける。なんと身軽で機能的なことだろう。少年は感嘆した。


 百角族は総勢五十人余りの大集団で、大人は全員自分の馬を持ち、羊はその三倍もいた。

 イルハムは、こんなに多くの獣たちが人間に従っているところなど、一度も見たことがなかった。不思議に思い、昨日助けてくれた青年にこっそり尋ねた。


「獣たちは、人に逆らわないのか」


「逆らわねえよ。たまに言うことを聞かないやつもいるが、そういうのはちゃんと躾る。逃げたら捕まえる。どうしても駄目なら、もったいねえが潰す」


「つぶ……」


「しょうがねえよ。こんな大所帯だ、一頭の我が儘に付き合って群れ全体が危なくなったら、洒落になんねえだろ」


 何でもないことのように言われて、イルハムはぞくりと震えた。あんなに暖かで優しいと思った青年の手が、冷たい血にまみれて見えた。


 その後、荷物をまとめて一行は出発した。イルハムは馬を持っていないため、妊婦や赤子、老人と共に、馬車に乗せてもらった。馬車の内部は八人乗ってもまだ余裕があるほど広く、獣がこんな重い車を牽いて歩くことにイルハムは驚いた。


 移動は、大変な強行軍だった。休憩はほとんど無い。食事は各自が馬上で摂り、排泄すらその場で行った。

 少年は、生まれたばかりの赤子を抱いた若い母親が、下履きをおろして瓶に放尿し、その中身を馬車の外に捨てるのを、なるべく見ないようにうつむいた。また、自分の尿意は奥歯を噛んで押し殺した。


 しかし、夕方になってついに耐えきれず、ほとんど涙目で、同乗していた老婆に尋ねた。


「なんでこんなに急いでるんだ? もう夜になる、寝る場所の用意とか、とにかく、まだ停まらないなんて、絶対おかしいよ、どうかしてる。なんでだよ」


 「ここらの草はうちのじゃないのさ」老婆はにべもなく言った。


「獣を飼って暮らしてるのは、あたしたち百角族だけじゃない。他にもいろんな部族がいて、それぞれ縄張りが決まってるんだよ。あたしたちは、どの草地をいつ使うのか、厳密に予定を立てて動いてる。ところが、このところ旅程に遅れが出ていてね。無理にでも進まないといけないんだよ。羊も馬も、『ここでは草を食うなよ』なんて言ったって聞きやしないんだから、ちょっとの滞在が他の部族への侵略になっちまう」


「そ、そんなの、ちょっと相手に断って、少しだけ貸してもらえばいいじゃないか。こんな……っ、こんなっ」


「尿瓶を使いな。それから、うちのやり方にケチつけるんじゃないよ。草地の利用の取り決めは、何年もかけて、血を流して決めたことだ。家畜の餌がなくなれば羊も馬も死ぬ、売るものと食うものがなくなれば人間も死ぬ。よその部族や商売相手からの信用がなくなれば、家を持たないあたしたちは全滅さ。知ったような口利くんじゃないよ。嫌なら馬車から出ていきな」


 イルハムは顔を赤くしたり青くしたりしながら、膝の上で拳を握って我慢した。しかし、ついに涙がこぼれ、それが呼び水となって内腿が痙攣した。

 途端に、まわりの老婆や若い母親たちがイルハムを押さえつけてひっくり返し、尿瓶を股にあてがった。自分の尿が瓶の中に流れる音を、かれは泣きながら聞いていた。

 ことが終わり、老婆が瓶の中身を馬車の外に棄てたあと、イルハムは蚊の鳴くような声で申し出た。


「ここから出ていく。俺は百角族になれない」

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