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満月が皓々と砂漠を照らしていた。乾いてひび割れた平坦な大地が見渡す限り広がっていて、ぽつぽつと生えた木立や草むらが、白々と光っていた。
生き物の気配は影も形もなく、息を切らして駆ける少年の背だけが、夜風にもまれて流星のように地平を過ぎていった。
村はもう遥か背後だ。人が追ってくることを恐れて、全力でここまで逃れてきた。足の速さだけは大人にも負けない自信があった。
二度と帰らぬ覚悟だった。この砂漠のどこかにはイルハムの求める自由が存在し、村を捨てた今、かれにはそれを手にする資格があるはずだった。
勇ましい旅路はしかし、夜も明けぬうちにくじけかけていた。砂漠の昼夜の温度差はすさまじい。
もともと、幼馴染を送り届けて、すぐ帰るだけのはずだったのだ。イルハムは、冷えきった夜風から身を守る術を何一つ持っていなかった。
手足が寒い。頬と耳が凍てつく。己を両腕で抱きながら、合わぬ歯の根をガチガチと鳴らして、かれは大地をふらついた。
意識がもうろうとして倒れかけたイルハムは、目の前に橙色の灯りを見つけた。小さな天幕があり、その内側から炎の色が暖かく漏れ出していたのだ。
意を決して、イルハムは天幕を訪ねた。入り口に吊ってある扉代わりの布越しに、おそるおそる声をかける。冷気に顔がこわばり、言葉はどもった。
「すみません、あ、た、旅のものですが、中に入れていただけませんか。助けてください」
しばしの沈黙があった。深夜の来客、警戒して当然だ。ややあって、初老の男が布をめくり、半身で応じた。
「どうなさいました」
「た、助けてください。寒いんです。逃げてきて、あの、服がこれだけで」
男性は、イルハムの装いを見、また周囲に他に誰もおらず賊の差し金ではないことに納得すると、すぐに少年を手招いた。
「お入り、早く。凍えてしまうよ」
天幕に入ると、男性は事情も聞かずに、イルハムに毛布をかけてくれた。中には他にも二名の男たちがいたが、かれらもまた、自分たちの上衣を脱いでかぶせてくれた。「飲みさしで悪いが」と差し出されたコップには、温かい薬草茶が入っていた。
「あの、俺」
「話は落ち着いてからでよい。まずは体を暖めなさい。つらかっただろう」
優しく背中を撫でられて、イルハムは小さく頷いた。
助かったのだ。その実感はゆっくりと胸に広がり、少年の視界を滲ませた。かれは、父が亡くなってから初めて、大人の前で泣いた。
かれらは巡礼者だと名乗った。神官たちに教えを与えたという偉大な預言者の足跡を辿り、その教えを身を以て知るために、旅を続けているのだそうだ。
「神官たちは各地でよくやってくれているが」と巡礼者は言った。
「かれらもまた、日々の暮らしの中で、預言者が伝えた最も大切なことを徐々に忘れていってしまう。伝えるのが言葉だけでは駄目なのだ。自分に都合よく思い込むために、教えがねじ曲げられてしまうからね……。だから、預言者の来し方を反芻し、初心に立ち返る。私たちはそのために旅をしているのだよ」
「そうなんだ。でも、怒られないの? 働けって……」
「怒られないよ。いや、怒られたとて構わないのだ。私たちはそういった、労働や日常の繰り返しの中で失ってしまう大切なものを取り戻すために、それらを一度置き去りにする必要があるのだ。巡礼には、働くことよりも重い価値があるのだよ」
イルハムは説諭を聴き、これだ、と思った。村の人々が自分たちの日常を守るために、イルハムに押し付けてきたものを、捨てるのだ。本当に大切なものは、やはり、あの村には無かった。かれは巡礼者たちに頭を下げた。
「俺も一緒に連れていってください。俺、逃げてきたんです。村が苦しくて、みんなが正しいとは思えなくて……。俺も巡礼者にしてください」
慈悲深いこの人々が、訴えを退けるはずなどなかった。イルハムはかれらに受け入れられた。
翌朝、旅立った一行はさっそく困難にぶつかった。険しい峡谷の橋が落ちており、底のほうには獅子の群れがうごめいているのだ。
回り道をするには、三日ばかり迂回しなければならない。しかし、峡谷越えは預言者の旅路において非常に重要な意味を持つらしく、巡礼者たちは道を変えようとはしなかった。
相談の結果、谷の岸壁沿いの急峻な足場を下り、獅子が寄ってくる前に素早く谷底を通りすぎて、向かいの崖を登ってしまおうということになった。無茶な計画だった。念のため、全員が松明を一本ずつ持って、獅子が来たら火をむけて遠ざけることになった。
ちょうどいい枝を探して崖の上を歩き回っていると、イルハムは、黒い泥がブクブクと湧き出ている場所を見つけた。かれは大人を呼んだ。
「これ、何でしょう。見たことない」
「ややっ、これは……! おうい、みんな来てくれ!」
かれらの検分の結果、これは危険な呪いの水だということだった。
「これの正体は、大地の底に封じられた邪悪な魔物の血液なのだ。人間の営みを憎んでいる。周りで火を見つけると、巨大な火焔となって辺り一面焼きつくし、しかも消えにくい。こんな場所から湧いているとはな」
「火を大きくして、消えなくする?」
「そうだ。火は管理されている間のみ、人の財産だ。それを乱して暴れさせ、人を焼き尽くそうとするのが、この黒い水だ」
「……これ、獅子に使えばいいんじゃないですか」
イルハムは、これを崖から獅子の谷に浴びせかけ、そのあと松明を放り込めば、獅子を焼き殺してから安全に先に進めるのではないかと発案した。
巡礼者たちは、それこそ火のように怒り狂った。
「悪魔の血を使うなど! 愚かなことを言うな、イルハム! そなた、巡礼の意味を本当に分かっているのか? 預言者の教えを辿る道すがら禁忌を冒すなど、あってはならぬ!」
「だって、そのほうが絶対安全に……」
「大罪に手を染めるぐらいならば、命を危険にさらした方がましだ!」
血走った目で口々に怒鳴る巡礼者たちが恐ろしく、イルハムは小さな声で謝った。
結局、一行は松明を持って谷を降りた。獅子たちは獲物の接近をすばやく察知し、かれらが転げ落ちてくるのを眈々と狙っていた。
頼りない足場を並んで降りていく。途中で一人が足を滑らせた。聞いていられない哀れな悲鳴をあげて、腹を擦りむきながら滑落していった。獅子はいっせいに群がり、獲物を生きたままむさぼり始めた。
甲高い叫びが谷底から響いた。
「あああ! やめ、やめ、殺さないで殺さないで、あああ、腹っ食べないで食べないで、せめて殺して殺して殺して」
「……主のまなざし、つねに天より地にそそぎ、主のあわれみ、たえず命を悼み、あやまちの青き火落ちし夜より、われら……」
他の巡礼者たちは、何やら預言の一節を唱えて、そちらを見ずに歩みを進めた。イルハムも後を追ったが、恐ろしさに体は震え、松明を握る手にはぬるついた汗がまとわりついた。
一行は、それ以上の犠牲を出さずに、なんとか峡谷を抜けた。獅子たちは最初の獲物で腹を満たしたのか、あれ以降こちらに目をくれることはなかった。
巡礼者たちは、谷へ祈りのしぐさを向けたのち、気を取り直して再び進もうとした。
(大昔に死んだ人間の言葉が、仲間の命より重いのか)
イルハムは即座に離別を切り出した。