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昔書いた作品です。なろうにも載せちゃう。
砂漠の片隅にひとつの開拓村があった。
活気はあるが小さく、過酷な環境のなかで、ほんの七十人ほどの村人たちが助け合いながら、畑を作り、家を建てて暮らしていた。
村は、ジャッカルの侵入を防ぐ簡素な低い木柵でぐるりと囲まれていて、粗末な蔵や櫓の向こうに人の住まいが立ち並び、さらに行けば麦畑とささやかな果樹園があった。
その先に、手入れされていない自然の木立が繁り、木漏れ日の中に隠れるようにして、一軒の小屋があった。
小屋の中からは、昼過ぎから今まで途絶えることなく、木を削るかすかな音が規則正しく響いていた。
老人が声をかけて、初めてその音は中断した。
「今日はそろそろ終いにしたらどうだね」
少年ははっとしてノミを置いた。窓から射し込む光は、とうに赤らんでいた。帰らなければ。
木屑をふっと吹き飛ばせば、繊細な蔓草模様の彫刻があらわになる。老人はそれを覗き込み、目を細めて微笑んだ。
「相変わらず上手いもんだ。イルハム、お前の刃物の扱いは、親父さん譲りだね」
「そこまで言うほどじゃないよ」
少年は汗を拭ってはにかんだ。木に模様を彫り込む作業は、イルハムの一番好きな仕事だった。
他にも、木と紐を組み合わせて小さなからくり細工を作ったり、草木の汁で布を美しく染色したりするのが、かれは大の得意だった。こまやかさと根気がいる作業はどれもお手のもので、時間を忘れるほど熱中できた。
ただし、それが称賛を受けるのは、この村はずれの寂れた小屋の中だけだった。
木屑を捨て、帰り支度を進めていると、急に戸口が騒がしくなった。イルハムが何事かと振り返ると、間をおかず、一人の少女が飛び込んできた。
「お邪魔します! イルハムいますか? あっ、いたいた。迎えに来たよ!」
幼馴染のタラーイェだった。少年は不機嫌に応じた。
「別に迎えなんか頼んでないだろ。人んちで騒ぐなよ」
「あ、ひどい。ここ別にあんたの家ってわけでもないじゃん。そっちこそ、おじいさんに迷惑かけてんじゃないの? ねっ、おじいさん、こいつ我が儘言ったりしませんでしたか?」
「やめろよ! 親かよ!」
老人は苦笑いでイルハムを庇ってくれた。タラーイェは図々しくも小屋に上がりこみ、落ち着きなくうろついた挙げ句、吊棚の側板にほどこされた彫刻を見つけて、大声をあげた。
「あっ、これイルハムがやったんでしょ。あんた、井戸掘りも手伝わないで何やってんだろって思えば、こんなことしてたの? こーんな、おじいさんの善意に甘えてさ、わざわざ匿ってもらって、役に立たない絵とか描いちゃって。なんで皆のこと手伝わないのさ。お兄ちゃん、怒ってたよ」
「……お前の兄貴のことなんか知るもんか。ほんっと、いちいちうるさい奴」
「そう思うなら、あたしに小言なんか言わせないでよね」
老人の家を出てからも、タラーイェはあれこれ煩わしかった。林を抜けると、彼女はひそひそ声でささやいた。
「ね、イルハム、そこの小川で体洗ってこ。や、別におじいさんは悪い人じゃないけどさ、革とか油のにおいってきついし、このまま帰ったらくさいって言われるじゃん」
イルハムは無言で歩みを早め、彼女を置き去りにした。老人は革職人だ。その生業のために悪臭は避けられず、わざわざ他の村人の住まいとは距離をおいて暮らしている。
だが、そうだとしても少年にとっては一番親しい大人だったし、それが悪し様に言われるのは我慢ならなかった。
タラーイェの相手をすることは、イルハムの一番嫌いな仕事だった。
役に立てと言われ続けてきた。
この小さな開拓村で求められる「役に立つこと」といえば、一日中腰を屈めて畑の世話をしたり、空いている土地の岩を掘り起こして遠くに棄てたり、建材を運んだり、狩りに出て獲物を持ち帰ることだった。イルハムはそのどれもが苦手だった。
父は優れた狩人で、また人付き合いが良く、これらをなんでもこなした。
しかし六年前、風に乗ってきた熱病に命をとられ、その際、父が貢献してきたはずの村の人間たちは、病に対してまったくの無力であった。
家族の食卓に肉が載ることはまれになった。やせっぽちの子供の体で、イルハムは母と祖母と自分とを養っていかなければならなくなった。
村で共有している畑の作物は均等に分配されたし、近所の人々もなにかと手を貸してくれたが、狩りでしか手に入らない肉ばかりは、どの家も惜しみ、くれなかった。
父と懇意にしていた革職人の老人だけが、魔獣の原皮から削り落とした屑肉を集めて頻繁に差し入れてくれた。
やがて、神官の指示により、イルハムと隣家の娘が婚約をすることになった。
将来家族となる以上、苦境の時に見て見ぬふりをして確執を育てておくことはできない。
熱烈でしらじらしい支援が始まった。暮らしぶりも少しは楽になった。その婚約者がタラーイェだった。だが、イルハムの心はすっかり冷えていた。
さんざん役に立てと言っておきながら、誰よりもみんなの役に立っていた父を助けられなかった村の大人たちの言い分など、かれにはすべて馬鹿げて聞こえた。どれも、人々を飼い慣らして村に縛り付けるための方便にしか思えなくなった。
イルハムは心に決めていた。
村の役になど立つものか。
翌日は、タラーイェの兄にいやほどしごかれた。イルハムより五つ年上のこの男は、村中の若者を取りまとめて、新しい井戸を掘っているのだ。
土を掘るのも、石を運ぶのも、イルハムには過酷な重労働だ。
そのうえ、わずかな休憩時間には、周りの若い衆がやいのやいのと言い合う下世話な無駄口を聞き続けなければならず、ちっとも休まらなかった。
それが嫌で、イルハムは休憩用に建てられた急造の四阿を使わず、少し離れた大木の陰で、一人で休むことにしていた。
通りかかった村の神官が、ぐったりと木の幹にもたれるイルハムを見かねて、声をかけてきた。
「これ、イルハム。どうして四阿で休まないのだ。日に当たりすぎると倒れてしまうぞ。水を飲んで、日陰で休みなさい」
イルハムは返事をしなかった。
かれは神官を尊敬してはいなかった。ひもじい子供時代、つがいのウサギを捕まえた隣人を見て、それを育てて子供を産ませれば食べ物に困らなくなるのではと言ったイルハムを、神官は激しく叱りつけたのだ。
『獣を支配してはならぬ! 考えてみなさい、もしも、お前が誰かに飼われていて、子供が産まれるたびにそれを取って喰われたら、お前はどう思うかを。お前は自分が楽をしたいがために、その苦痛をこのウサギに味わわせようと言うのか! ……よいかイルハム、獣を飼ってはならぬ。どうしても食べたければ、楽をせず、自分達が食べるぶんだけに限り、狩りをしなさい』
イルハムは、当時から神官の教えにまったく同意できなかった。
父を失い、こんなに暮らしが辛いのに、ウサギの気持ちの方が大事なのか。
助けてくれもしない村の言うことを、どうしておとなしく聞かなくてはならないのか。
ウサギを檻に閉じ込めて仔を産ませるのは駄目なのに、人を村に閉じ込めて働かせるのは駄目じゃないのか。
かれは神官に従ったが、それは説教の内容に納得したからではなく、大人の男の剣幕と、相手が携えた杖の威力を恐れたからだった。
少年のそういった姿勢は今でも変わらない。じっとりと神官を睨んだあと、イルハムは遅々とした足取りで、四阿へ向かった。下品な話題で賑わう、汗くさい屋根の下へ。背中に刺さる神官の視線がうっとうしかった。
夜になり、泥まみれで疲れ果てて帰ると、祖母が迎えてくれた。
「お帰り、イルハム。疲れたろ」
「うん、ばあちゃん」
「悪いんだけどね、お願いがあるんだよ。お夕飯の後でいいんだけど、ちょっと急ぎで薪割りをしてくれないかね。お隣の奥さんが、薪に水桶をひっくり返して、駄目になっちゃったんだよ。タラーイェのおうちだし、助けてあげてくれないかい」
「……うん、分かった」
「ごめんねえ。ご飯はもうできてるからね」
炊事と薪割りの分担が逆だったら良かったのに、と思いながら、イルハムは頷いた。かれがいくら貧弱とはいえ、病がちな母や老いた祖母に力仕事を押し付けるわけにはいかないのだ。家に男はイルハムしかいない。
無発酵パンを薄い野菜汁で流し込み、のろのろと外に出て斧を持つ。腕も足も痛くて、やっていられなかった。ほとんど真っ暗になってしまった空のもと、家から漏れる灯りを頼りに、なんとか薪割りを済ませた。
祖母の言葉に従って隣の家に差し入れたところ、タラーイェの母が出迎え、娘とよく似た歓声をあげて、早口でいろいろ捲し立てた。
「あらぁイルハム、わざわざ持ってきてくれたの! 嬉しいわあ! もうほんとにね、あんたのお祖母ちゃんから聞いたでしょ、あたしったらほんっとうっかりしててね、そろそろ夕方って時に水甕が空っぽになってたもんだから、もう、わあっと走って井戸まで行ってね、汲んできたのは良いんだけど、丁度、玄関の横のそこんところで、何にも無いのに突っかかって転んじゃったのよお! そしたら桶がひっくり返って、水がだばっとこぼれた先がね、ああもう、本当になんでそんな所にって……」
両腕をばたばた動かしながら大袈裟に話すのも、とっくに知っている経緯について一から十まで話さないと気が済まないのも、タラーイェそっくりだとイルハムは思った。
うんざりしながら聞き流していると、そのうち話の内容が「こんな気の利く男がうちの娘と結婚するなんてねえ!」という方向にずれていき、肩をばしばしと叩かれたり、「タラーイェのどんなところが好き?」などくだらない質問をされたりした。曖昧に頷いて話を遮り、イルハムは背を向けて大股で立ち去った。
これがこの村の日常なのだ。どうして、皆こんなものに耐えられるのだろう?
昼は倦み疲れ、夜は泥のように眠るだけの日々を繰り返すうちに、夏至祭りが近づいてきた。
この祝祭は、十五歳を迎える子供たちのための成人の儀礼でもあった。イルハムやタラーイェは今年がそうであった。
タラーイェは夏至を楽しみにしていた。いくつもの花輪と特別の衣装で着飾って、村のみんなで踊るのだ。また、成人の日は、二人がついに結婚する日でもあった。
彼女は夜毎イルハムの家を訪れては、母や祖母とあれこれ喋りながら、婚礼衣装の縫いとりをした。深夜に彼女を家まで送っていくのは、当然のようにイルハムの義務であった。
その夜も、二人は肩を並べて歩いていた。タラーイェがまっすぐ帰宅することなどまれで、決まって遠回りをして、住宅地の外れのほうまでぶらぶらと歩きたがった。
彼女は興奮して喋っていた。
「ね、もう五日後だよ。そしたらもう、あたしたち大人で、夫婦だよ。早いよね」
「そうだな」
「なんかねぇ、最近すごく緊張するんだよね。あたしさ、なんだかイルハムとは、ずっと今みたいな、ちょっと特別な友達みたいな感じで続いていくと思ってたみたい。ずっと一緒にいたから、いざ結婚したって別にそんなに変わんないでしょって思ってた、んだけど……。えへへ。ね、イルハムどう? 結婚だよぉ、緊張する?」
「別に。どうでもいい」
「何それ。あ、そうだ、イルハムさあ。大人になるんだから、村のみんなへの態度とか、もうちょっとちゃんとしなよ。愛想悪すぎだし」
「は?」
少年は初めて少女の目を見た。聞き捨てならなかった。
「何だよそれ。関係ないだろ」
「関係あるよ。いっつもムスッとしてさ、勝手にイライラしてそれを皆に分かってもらおうみたいなの、いい機会だからそろそろやめなって。子供だから許されてただけだよ」
「怒るのも笑うのも俺が決めることだろ。なんだよ、みんなって」
「だから、それが甘えなんじゃん。あんたが一人怒ってるだけで空気悪くなるし、ものも頼みづらいし、気にしてあげなきゃいけなくなるじゃん。でも大人なら、周りに面倒見させるんじゃなくて見る側に回んなきゃって思ってさ……」
「うるさいな。面倒見てくれなんて俺は一回も頼んでないし。知るわけないだろ、くだらない」
「イルハム! いい加減にしてよ。ちゃんと大人になって!」
「うるさいって!」
腕を掴まれたので、イルハムは怒りに任せて思いきり振り払った。
手の甲にガツンと硬いものがぶつかった。
はっとして手を引く。タラーイェの左頬から血が出ていた。彼女がすぐに顔を手で覆ったため、どれほどひどい怪我か分からなかった。イルハムはひるみ、息が止まるような後悔に襲われたが、タラーイェの鋭い眼光を受けて、歯軋りした。
「あ、だっ、タ……、お、お前の言いなりになんかならないからな! 俺は奴隷じゃない! お前らなんかのご機嫌を伺いながら一生働くなんて、まっぴらだ!」
イルハムはそのまま身を翻して駆け出した。家々を越えて、畑を越えて、木々の間をすり抜けて、一度も振り返らずに。背中には、婚約者の少女の声が幾たびも追いすがってきた。
「待ちなさい! 待ってよイルハム、どこいくつもり! 待って……行かないでよ!」
イルハムは逃げた。村を飛び出してどこまでも、宛もなく、ただタラーイェがいない方向へ。
自由へ。