第七章(全十二章)
痛みも苦しみをも 静かに忍び耐えよ
:讃美歌21『安かれ 我が心よ』(フィンランディア)日本基督教団
《二〇一七年 東京》
オレンジのガーベラを見ると、彼女を思い出す。会ったことも、声さえ聞いたこともなく、どんな姿形をした人なのかも知らないのに不思議だ。また、彼女は特にその花が好きだとも、オレンジ色が好きだとも書いてきたことはなかったと思う。
その頃わたしは個人加入型労働組合で事務兼相談員の仕事をしながら、刑法改正を目指す市民運動キャンペーン「Believe」に参加していた。ある時、オレンジと白のガーベラで集会の会場を飾りつける取り組みをした。
べつに男性差別をするわけではないが、やはり女性中心の活動ならではのアイデアだと思う。鹿爪らしい顔をしたおじさんたちは、格式張った法改正の集会で、こんなリラックスして気の利いたことをするなんて思いもつかないだろう。
だいたい、戦争するのだって男なんだから。
その花を選んだ理由は花言葉にあると企画担当のPERLAが言っていた。オレンジが「忍耐」、白が「希望」だそうだ。
わたしは京都で田淵医師の許に通っていた時、ジャーナリングを勧められ、数年間実践していた。ジャーナリングとは、頭に浮かんだ言葉をそのまま書き出すことで、自己理解やストレス耐性などを高める手法のことだ。
大学のこと、文芸サークルのこと、溝黒のこと、過去の怒りが込み上げた時、ワードを開いて心に思いつくままを書き殴っていた。
上京した時に、何年もかけて書き溜めたそのテキストをどうしようか迷ったが、思い切って新たに作ったブログの匿名アカウントにupすることにした。溝黒や他の人名はイニシャルに差し替えた。
これも迷ったが、「崙山大学」と「京都大学」の大学名はそのままにし、崙山大学の方にはタグも付けた。
アクセス数は毎日ゼロか一桁台だったが、べつに沢山の人に見せようと思ってupしたわけでもない。BUMP OF CHICKENの「ハンマーソングと痛みの塔」に「べつに今更辛くもないけど 誰かが見てくれたらな これだけあれば許されないかな 少しやさしくされるくらい」という歌詞があるけど、ちょうどそんな気持ちだった。
そのまま何ヶ月も過ぎたある晩、ある女性からダイレクトメッセージが来た。件名は「わかってるよ。」
「こんばんは。突然のお便り失礼します。崙山大学の後輩で藤枝彩といいます。一九九九年入学ですので、あなたの一級下になると思います。
あなたのことは存じ上げませんが、文芸サークルであなたを追いつめて中退に追いこみ、その後、崙山大学の教員になったM.M.さんという方は、誰なのかわかります。わたしはその方と京大大学院のドイツ文学・哲学研究科で、同じ柴崎先生という先生の門下で学んでいました。
ふと、昔のことを思い出し、『崙山大学』で検索してブログを見つけました。なぜか、知らない人のような気がせず、どうしてもあなたのことが気になったので、メッセージしました。ご迷惑ならご放念下さい」
「藤枝彩」で検索すると、確かに京都大学大学院時代に書いた論文のタイトルがいくつか出てくるので、わたしは信じた。元々農学校だった崙山大学は農学部中心の大学で、文系分野は比較的充実せず、文学部には院が存在しなかった。院への進学を希望する文学部生は自動的に京大に統合されるような形になっており、教員も兼任だったと聞いている。
すぐに返信し、自分の本名は十朱ミクだと名乗った。
それからしばらく、彩との間に文通が続いた。彩は学部時代、文芸サークルの隣の隣にBOXがあったピアノ同好会に属していたということで、それならその辺りで会っているかもね、と言いあった。文芸サークルの隣の隣がピアノ同好会のBOXだったことをその時初めて思い出し、二十年という歳月の長さを思った。
彩は母を亡くし、兄は独立、父と二人暮らしで、自分の家族のことや自然のこと、細々とした日常のことなども、実に美しい、丁寧な文章で度々書き送ってくれた。
でも、わたしが一番気になったのはやはり溝黒のその後だった。
「わたしは、ミクさんがあのブログに書いていることは全部本当だと思います。読んでいて、とても溝黒さんらしいと思いました。自分の排除したい人間に関してデマを流し、みんながその人の敵に回るように仕向ける溝黒さんの行動パターンは大学院時代も直っていませんでした。
洞察力のある人からは溝黒さんはまともに相手にされていませんでしたが、研究者として優秀であり、柴崎先生はじめ、その才に惚れこむ先生も続出したので、学者としての成功は早く、確実だったようです。
溝黒さんはわたしに気を許していたらしく、色々と自分の幼い頃のことを話してくれたことがあります。お父さんが他所に女性を作って家に寄りつかず、お母さんが何かの新興カルト宗教にのめりこんで、度々折檻を受けたとか」
父の不倫の話はわたしも聞いたことがあったが、カルト宗教と虐待の話は聞いたことがなかった。わたしが溝黒から聞いていたのは、「でも、いざとなったらぼくは父に付く」「奄美大島の出身で無学、無教養、依存的な母は好きではない」ということだけだった。
「でも、わたしは溝黒さんのことは尊敬できなかったので、心で距離を取るようにしていました。きっと、ミクさんはまだ若く、それが巧くできなかったのだと思います。同時に、溝黒さんもまだ若く、内心の不安や苛立ちを直球でミクさんにぶつけてしまったんじゃないでしょうか。
わたしは、溝黒さんからの直接の被害と同じくらいか、或いはそれ以上にミクさんを苦しめたものは、『溝黒さんからどういう被害を受けたのか、他の人に信じてもらえない』『わかってもらえない』ことだったのではないかと思います。被害・加害について、社会が正当に取り扱わないことが寧ろ、直接的な加害より被害者を苦しめるということ、わたしは本当によくわかります。
加害者がその行いを清算しないまま、或いは、加害を垂れ流したままのうのうと生きる、まして社会的な地位まで得たりするのを指を咥えてただ見ていないといけないなんて、本当にただひたすら理不尽で苦しい、意味のないことだと思います。わたしは『その経験にも何か意味がある』とか、『もう昔のことだ』『忘れてしまえ』なんて惨いことは言えません。二十年経っても忘れることができないのは当たり前だと思います」
彩自身、大学院の研究科で同窓だった恋人から性的なものを含むDVを受け、精神を病み、研究を諦めたと語っていた。柴崎や溝黒ら研究室の男たちは薄々何があったか知りながら、皆その男の肩を持った。その男も溝黒と同じように優秀で、今は関西のある有名大学で若くして准教授になっているという。母が急死したのもそれらのことによる心痛が原因だと思われると。
わたしは、二〇一二年、東日本大震災の翌年に亡くなった祖母ユキヱのことを思い出す。わたしが大学を卒業し、叔母・千歳のように良い仕事を得ることを何よりも望んでいた祖母。合格した時には誰よりも喜んでくれた祖母。溝黒の成功を知り、深く嘆き、憤っていた祖母。
彩から聞いたその男の名前を、わたしはしっかりと心に留めた。
「溝黒さんは学部時代から同棲していた恋人がいましたが、その方も精神を病み、結局は別れたようです。証拠があるわけではありませんが、わたしは溝黒さんの精神的DVのようなものがあったのではないかと疑っています」
「今田亜紀子さんですか?」
とわたしは返信した。
藤枝「名前まではわかりませんが、農学部の方でした」
十朱「そうだと思います。サークルのみんなが二人の仲のよさをからかって、『脳ミソ共有してる』と言ってましたから。『脳ミソを共有する』なんて気持ち悪い表現だと思います」
藤枝「『脳みそを共有』・・・・本当に気持ち悪いですね。ナチスやオウムのような洗脳を思わせます。違和を感じることのできる感性が大切だと思います。溝黒さんはそうやって、立場の上下を問わず、人の心を取りこみ、コントロールしてしまうような所がありました。柴崎先生をはじめとした多くの先生方もそうでした」
竜平も篠山も、今田亜紀子を含めた新入生たちもそうだった、とわたしは文芸サークルの同窓生たちの顔を思い出す。外ならぬわたし自身が、溝黒は自分で言う通り頭がいいから、誰よりも本を沢山読んでいるから、溝黒の言うことは何でも正しい、と思ってしまうような所があった。排除されるわたしの方が悪いのだ、溝黒の言うように「生きるのに向いていない」のだと、田淵医師に出会うまでは、心のどこかで思っていた。
ある時、彩の便りに引用が添えられていた。
「シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(一九四七年)苦しむ者は聞かれない。聞くのは、同じ苦しみを経験した者だけだ」
また、「溝黒さんはいつも自分のことを天才だと言っていたけど、何か才能を持って生まれることができてその才能を選べるのなら、天才に生まれることができるなら、わたしは音楽の才能が欲しかった」と書いてきたこともあった。
わたしのユニオンの仕事が忙しくなり、やり取りは途切れた。
しかし、藤枝彩のことはその後長く心に残った。溝黒を介して繋がるというのも不思議な縁だと思った。
《一九三六年 ベルリン》
「親愛なる友 レーテ・ダーレンドルフへ
先日は野菜を沢山送ってくれてありがとう。妻とメイドが腕によりをかけてシチューを作ってくれて、家族で美味しくいただきました。
この度、長らく勤めたライヒスヴェア(どうしてもヴェルマハトとは言いたくない)から、アブヴェーアへの異動が決まりました。一応、大尉にも昇進しました。表向きは栄転ですが、実態は左遷みたいなものであることは、妻をはじめ誰でもわかっていると思います。
君は世事に疎い所があるので少し説明すると、アブヴェーアとはヴィルヘルム・カナリス提督が率いる軍の情報部で、国防軍の傘下にはありますが、比較的独立した運営が認められている組織です。逆に言えば、国防軍上層部(特にナチと仲のいい方々)にとって面倒くさい奴を押しこめる所でもあり得ます。
この間、上官に呼び出され、『君の能力は情報部で活きる』と告げられました。カナリス提督も同席していて、『我々に必要なのは正義感だ』とえらく私を買って下さっているようでした。それはいいんですが、上官の目の冷ややかなこと!
『自由そうでいいじゃないか』と思うかもしれませんが、寧ろ逆で、こちらの方が監視しやすいんでしょう。大袈裟に言えば、籠の鳥みたいなものです。あべこべにこっちが監視してやろうくらいのことは思っていますが。
こう言うと亡き父はがっかりするでしょうが、私は戦場での功績や目立つ役職への昇進なんて最初から望んでいませんし、地味な書類仕事も苦にならない、寧ろそちらの方が好きで何時間でもやっていられますから、ちょうどいいと言えばいいのです。
何より有難いのは、妻が理解して支えてくれることです。私には出来すぎた伴侶だと思います。
一度お会いしたいと思いながら、日々にかまけて、文のやり取りだけで年月が経ってしまいました。最後に顔を見てから、早いものでもう二十年です。
君も教会員の皆さんも、体に気を付けて、お元気にお過ごし下さい。
友情を込めて
オスカー・M・フォン・ローゼンシュテルン」
《二〇一八年 東京》
初台にあるオレンジユニオンの事務所で、わたしは資料を読み耽っている。指先でスマホの画面をスクロールさせる。
【軍情報部は一九二〇年、ヴェルサイユ条約で禁止されていた諜報活動を回避し、ドイツ国防省内に設立された。初期の目的は対外スパイ防止であった。
一九三二年、海軍出身のコンラート・パツィヒがアブヴェーア長官に任命された。ポーランドとの国境での偵察活動を巡り、ヒムラー率いるSSとの対立は早い段階で生じた。
一九三四年、ヒトラーのポーランドとの不可侵条約により偵察活動が問題視され、パツィヒが解任された。ヴィルヘルム・カナリスが一九三五年一月一日に長官に就任した。カナリスは反ナチス志向を持ち、抵抗運動の基盤を築き始める。
一九三七年、カナリスはハンス・オスター(副長官)やエルヴィン・フォン・ラホウゼンら反ナチス派を主要ポストに配置した。ルドルフ・バムラーを例外として、ナチス党員を制限し、表向きはヒトラー政権に忠実なふりをしながら、反体制派のネットワークを構築しつつあった。】
二〇一三年、わたしは田淵医師の許に通い、レジの仕事を続けながら福祉系通信制大学の二年次に編入学し、二〇一六年に卒業して精神保健福祉士(PSW,現在はMHSW)という相談援助職の資格を取った。
同じ年に、十代の頃の密かな憧れだったが、崙山大学を中退して以来、諦めていた上京を果たし、この組合事務所で書記兼メンタルケアサポーターとして働くようになった。前者に関しては、労働組合などでは事務のことを書記という。後者に関しては、パワハラや不当解雇、不当配置転換などでユニオンに相談に来る労働者は性別や年齢を問わず、心がひどく傷ついているからだ。
派遣や契約、アルバイトなどの非正規雇用者、また正規でも介護やドライバーなどの現業職を中心に組織するオレンジユニオンは、「連合」傘下にあるが反「連合」という、はみ出し者の集まりみたいな変な組合である。でもわたしには合っている気がする。
元々ユニオン(個人加入型労働組合)に集ってくる人というのは一人残らず、会社に楯突いた者、企業内労組がある会社の場合は、そことさえ合わなかった者だ。そういう意味でオレンジユニオンは「札付き」だと言われ、使用者たちに恐れられている。
【アブヴェーアは「オペレーション7」などの活動を通じて、ユダヤ人を国外(特にスイスやスカンジナビア)に脱出させる支援を行った。偽装書類や資金提供を通じて、数百人規模のユダヤ人を救出したとされる。ボンヘッファーやドホナーニがこの活動の中心だった。
アブヴェーアは公式にはナチスの情報活動を担ったが、カナリスらはその権限を逆手に取り、反体制活動の隠れ蓑にした。例えば、ボンヘッファーは「情報収集」の名目で海外渡航を行い、連合国にナチスの情報を提供。ユダヤ人救出も「海外エージェント」としての任務に偽装された。
アブヴェーア内の反ナチス派は、ゲシュタポによって「黒いオーケストラ」と呼ばれた。このネットワークは、カナリス、オスター、ドホナーニ、ボンヘッファーらを中心に、シュタウフェンベルクら軍部、文民、教会関係者を結びつけ、やがてはヒトラー暗殺やクーデターの計画へと繋がっていく。ユダヤ人救出や情報漏洩もこの一環だった。】
「またサボってますね」
街宣から帰ったトラックドライバーの井内が声をかけてきた。丸顔の三十代で四人の子供の父親である。
「サボってへんよ。書類仕事が終わったから電話番しつつ休憩してるだけ」
わたしは井内にほうじ茶を淹れてやりながら答える。
「それ、何見てるんです?」
井内はお茶を啜りながらわたしの手許を覗きこむ。
「ナチスドイツの軍情報部の反体制活動について」
「へえ!十朱さんはいろんなことに関心持ってますね」
「うん、中学高校の時、なんか気になって調べたことあるんやけど、二十年ぐらい離れててん。でも、去年の九月にちょっとしたきっかけがあって、再燃してるん」
わたしはスマホを持ったままの左手の甲で鼻を擦って答えた。
井内はその話にはあまり興味ないようで、顎を撫でながら、
「ナチスドイツの軍隊の中の反体制活動ってことは、戦争中のドイツにもちょび髭に刃向かった軍人さんがいた、ってことか。そういえばそんな映画観た気するな。トム・クルーズが出てた」
「ワルキューレ」ね。ハリウッド映画の話となると井内が興奮して喋り続けると面倒くさいので、心の中で返した。
「権力と闘う、テメェのボスに喧嘩売るなんて、自分たちみたいでカッコいいじゃないですか」
未払い残業代を求めて勤務先の運送会社と係争中の労働組合員は胸を張る。リベラルな感覚の持ち主だが、彼の一人称が「自分」な所は何となく体育会系な気がする。
「それを言うなら、『わたしらが』『彼らみたい』やろ」
「まあ、時系列で言えばそうなりますね」
「時系列・・・・」
わたしはちょっと笑った。
「あれ?なんでツッコまれたんだろ」
「関西人はボケを見逃さへんにゃって」
「時系列っておかしいかなあ。あ~でも自分、生まれ変わったらもうこんなしんどいことやりたかねえかな」
井内は事務所に貼ってある沢山のデモやストライキの写真を見やってぼやく。中には裁判所前や東京都労働委員会のある都庁前で撮った写真もある。わたしも井内も写っている。今も事務所に顔を出しているお馴染みの顔も、もう見なくなった懐かしい顔も。
わたしは思わず、声に出して笑った。
「そんなにおもしろいですか。十朱さん、自分が何か言うと笑いますよね」
「生まれる前からやってたりしてな」
「うわっ、それはちょっと、勘弁してほしいな」
井内は片手で頭を抱える。
「わたしはやってたよ」
わたしは冗談めかして言った。
《一九三六年 ベルリン》
薄暗い部屋で、ラビ・イサクはヘブライ語の「シェマ・イスラエル」(聞け、イスラエルよ)を唱える。
妻アンナがハッラー(パン)を分け、まだ幼い息子ウジエルと娘インゲがキャンドルを見つめる。
イサクの低い声が、「聞け、イスラエルよ、主は私たちの神、主はただ一人」と厳かに囁く。
通りからは彼らの同胞を嘲る大勢の歌声が響く。いつものことだ。
しかし、現世の如何なる暴力も、政治的権力も、彼らのこの静かな祈りと黙想のひと時を裂くことはできない。
《一九三六年 ベルリン》
「何言ってるのよ、あなた」
エルスベットが頓狂な声を出す。
「うん、やっぱりだめだよね」
とオスカー。
女性というものはリアリストである。とオスカーは思う。男の方がロマンティストだ。
「いくら昇進したっていっても、餌代だけであなたの一ヶ月のお給料が飛んでっちゃうわよ。厩舎だってあの物置になってる大昔のやつを改装しないといけないし、馬丁だって雇わないといけないでしょ。飼うなら犬くらいにして」
腹立たしげに言いながら、パウラの衣服にひまわりのアップリケを縫い付ける作業に余念がない。ちなみにクリスティアンにはクローバーが用意されている。
そんなわけで休日の今日、オスカーは一人で郊外の森の中に来ている。木洩れ日が作る彼の乗馬姿の影が森の小道に黒い綾を成す。
「おまえは飼われてるとはいえ、自由だな」
下馬し、首筋を撫でながら呟く。褐色の温かい大きな生きものは、澄んだつぶらな瞳で利口そうにオスカーを見つめている。
上級貴族の友人から借りた馬を繋ぎ、鞍に括りつけていた何冊かの書物を降ろした。今日は日が暮れるまで、木陰で詩集や小説を読んで過ごそうと思う。子供の頃、よく兄とそうしたように。