新しい出会い
颯也と入れ替わるように、プロモーション企画部に新しい顔ぶれが異動してきた。
「本日付でマーケティング推進課の課長補佐として着任しました、佐々木圭吾です。」
朝礼の場でそう名乗った男性は、スーツの着こなしも端正で、落ち着いた雰囲気をまとっていた。
三十歳とはいえ、すでに管理職の立場にあるせいか、堂々としている。
「名古屋支店から異動してきました。まだ勝手がわからないところもありますが、早く慣れて、皆さんと一緒に仕事を進めていきたいと思います。よろしくお願いします。」
堂々とした口調でそう言い、軽く会釈をする。端正な顔立ちに鋭い目つき、長身でスーツの着こなしもきっちりしていて、一見、少し近寄りがたい雰囲気だが、表情はどこか柔らかさも感じさせた。
「若いのに、課長補佐とは……。」
「しかも、イケメンじゃない?」
朝礼が終わると、あちこちからそんなひそひそ声が聞こえてくる。
「新しい人、来ましたね」
昼休み、食堂で朱音が未紗季に話しかけた。
「うーん、ちょっとお堅そうな感じ、しなかったですか?」
「そうかな?私は特には感じなかったけど。仕事できそうな感じ?くらいの。」
「なんか、私ちょっと苦手なタイプかも。」
朱音が難しそうな顔をする。
「イケメン、エリート大好きなくせに?」
「そうなんですけどね……。」
同じプロモーション企画部ではがあるが、課が違うこともあり、未紗季自身、佐々木とはまだほとんど話していない。どんな人なのか、実際に接してみないと分からない。
日向が去り、新入社員の研修も終え、会社にまた新しい風が吹いている。
未紗季も、研修担当を務めたことで少しずつ自信を持ち始めていた。
(私は私で、一歩前に進まなきゃ。)
そんな思いを胸に抱きながら、未紗季は午後の業務へと戻った。
ある日の夕方、定時を過ぎ、フロアの人が少なくなった頃。
未紗季はコピーを取るためにコピー室へ向かうと、中から微かにため息が聞こえてきた。
「……?」
中に入ると、コピー機の前に立つ佐々木圭吾の姿があった。彼は腕を組みながら、液晶画面をじっと睨んでいる。
(あぁ……)
一瞬で状況を理解した未紗季は、思わずくすっと笑いそうになる。
「あの、大丈夫ですか?」
圭吾が顔を上げた。
「いや、ちょっとコピー機に洗礼を受けているところだ。」
「あ、この子、新しい人にそういうところあるかも知れません。」
お互い少し笑みがこぼれる。
「そうか……悪いが助けてくれるかな?」
素直に助けを求めてくるあたり、プライドの高いタイプではなさそうだ。未紗季は軽く頷き、コピー機のトレイを開けて、詰まった用紙を取り出した。
「はい、これで大丈夫です。たぶん、次からはスムーズに使えると思いますよ。」
「助かったよ。ありがとう。」
圭吾は礼を言うと、さっそくコピー機を操作し始めた。
「課長補佐さんは、こういうの苦手なんですね」
未紗季が軽く冗談めかして言うと、圭吾は手を止め、ふっと短く笑った。
「名古屋のとは仕様が違うから……な。」
「名古屋のコピー機、そんなに違いました?」
「いや、まあ、名古屋より、ここのほうが新顔をちょっとおちょくってやろう、って笑いのエッセンスがが効いているのかもな。」
「大阪のノリって苦手ですか?」
「いや、名古屋の大学から、うちの名古屋支店に入ったんだが、もとはこっちの出身だから……早くコピー機にも認めてもらわないとな。」
圭吾はいたって真面目な顔で、話していたが、
(意外とノリのいい人なのかも……)
これが未紗季と圭吾との、初めての会話だった。
それから数日後。
「よし、今日はこのへんで。」
未紗季は軽く伸びをしながら、自分のデスクを片付けた。時刻はもう午後八時を過ぎている。プロモーション企画部のフロアには、まだ何人か残っているものの、大半の社員はすでに退社していた。
帰り支度を整えてエレベーターホールへ向かおうとしたとき、不意に耳に入ってきた。
「くそっ、なんで……。」
小さな呟きが聞こえてくる。その声の主に心当たりがあった未紗季は、足を止めてコピー室のほうへ目を向けた。
——やっぱり。
隙間から見えたのは、困り果てた表情でコピー機の前に立つ圭吾の姿だった。
「また詰まっちゃいました?」
思わず声をかけると、圭吾はバツが悪そうにこちらを振り返った。
「見られたか。」
「ええ、ばっちり。」
未紗季はクスッと笑いながらコピー室へ足を踏み入れた。
「紙詰まりですか?」
「ああ、まだこいつに俺は歓迎されていないようだな。」
「佐々木さん、本当にこの子と相性が悪いみたいですね。」
未紗季はそう言いながら、慣れた手つきでコピー機のパネルを操作し、詰まっていた紙をスムーズに取り出した。
「助かったよ、こういうのほんと苦手で……いやいや、ただ、こいつにまだ認められてないだけで。」
「にしても、課長補佐自ら、こんな時間までコピー機と格闘なんて……。」
未紗季が冗談めかして言うと、圭吾は肩をすくめた。
「まだ着任したてだから、早く慣れたくてね。引き継ぎとか資料整理とか、色々やることも多くて。」
「大変ですね。」
ようやく紙詰まりが解消され、未紗季は軽く手を払った。
「はい、もう大丈夫ですよ。あとはこの資料、分類ごとに分ければおしまいですか?」
「ああ、そうだな、あとはやっとくよ。」
圭吾はため息をつきながら資料をまとめながら言った。
「ここまで付き合ったんで、それもお手伝いしますよ。」
「申し訳ない! 助かるよ。」
資料をまとめるのに、そんなに時間はかからなかった。
「遅くまで手伝ってくれたお礼に、飯でもごちそうさせてくれるかな。」
「そんな、大したことしてませんよ。お気遣いなく。」
「まあまあ、そういわずに、ちょっと付き合って。この辺の店にはまだ詳しくないから、よかったら教えてくれないかな。」
「そうですか、それじゃあ……せっかくですし。」
「決まり! じゃあ行こう。」
ブランド戦略課、マーケティング推進課、同じプロモーション企画部でも違う課の未紗季と圭吾。二人の距離は、こうして少し縮まった。
駅の近くのカジュアルなイタリアンレストラン。食事をしながら、未紗季と圭吾は仕事の話や、名古屋支店のことなど、他愛もない会話をしていた。
「それで、どうですか? 大阪に来てみて。」
「生まれ育った町に戻って来れたのはうれしいけど、仕事となると、やっぱり名古屋とは勝手が違うかな。」
「やっぱり課長補佐ともなると大変ですよね。」
未紗季が感心したように言うと、圭吾は少し考えたあと姿勢を正し、未紗季をまっすぐに見た。
「高宮君。」
突然名前を呼ばれ、未紗季は驚いて佐々木を見る。
「……はい?」
「俺と……付き合わないか?」
あまりにもストレートな申し出に、未紗季は一瞬固まる。
「え、えっと……?」
「最初にコピー室で会ったときは、ただ面倒見のいい子だなと思ってた。でも、日々の仕事で見えてきた君は、仕事熱心で、周りをよく見て気配りのできる人なんだってわかった。」
未紗季は戸惑いながらも、圭吾の言葉を聞いていた。
「俺は無駄な駆け引きとかは好きじゃない。気になったら、ちゃんと伝えたい。」
圭吾の視線は真剣だった。その真っ直ぐな言葉に、未紗季の心が大きく揺れた。
少しの沈黙の後、
「俺と付き合わないか?」
再び投げかけられた言葉に、未紗季は息をのむ。
(こんなに直球で言われたこと、今までなかったかも……)
今、こうしてまっすぐに「好きだ」と伝えられ、胸にまっすぐボールが飛び込んでくるような感覚を覚えた。
「……。」
断る理由はない。圭吾のことを嫌いなわけじゃないし、むしろ尊敬できる部分も多い。
(でも、本当にいいの? 慎二のことは……?)
考えがまとまらないまま、未紗季の口から出た言葉は……。
「はい。よろしくお願いします。」
自分でも驚くほど、自然に出た返事だった。
未紗季は、駅から家までの道をゆっくりと歩きながら、自分の言葉を思い返していた。
(私、佐々木さんと付き合うって言ったんだよね……)
勢いに押されてしまった感は否めない。でも、嫌だったわけじゃない。
ただ、ふとスマホを見つめたとき、慎二の最後のメッセージが頭に浮かんだ。
——ごめん、帰ったらゆっくり話そう
結局、慎二とはまだ何も話せていない。今、慎二はどこにいるんだろう。何度考えても、答えは出ない。
家に着き、ふと視線が机の上の写真立てに向かった。新人研修最終日に撮った、未紗季と日向、そして慎二の三人が写った写真。
(私、本当にこのまま前に進んでいいのかな。)
心の中にわずかに残る迷い。……でも、もう答えは決めている。
(ううん、いいんだ。私は前に進むって決めたんだから。)
小さく息を吐き、スマホを手に取る。
圭吾からの『今日はありがとう』というメッセージが届いていた。未紗季は、ゆっくりと返信を打つ。
『こちらこそ、ありがとうございました』
指を止め、もう一度息を整えてから、送信ボタンを押した。
(私は、前に進む。)
そう、心の中で静かに言い聞かせ、写真立てをそっと伏せた。
未紗季が、圭吾と付き合い始めて一ヶ月が経った。
二人とも、付き合っているということをあからさまに表に出すことはしないが、特に隠すことなくもせず、自然体でふるまっていたため、社内でも二人の関係が認識されるのに時間はかからなかった。
未紗季は明るく前向きな性格ではあったが、圭吾との付き合い方は、どこかドライにも見えた。それが彼の落ち着いたクールな雰囲気とも相まって、周囲には「クールな大人な関係」と映っていた。でも実際は、未紗季が圭吾に合わせてクールに振舞っているわけではなかった。
未紗季の心の中には、時折ふとした瞬間に、消えない影がよぎることがあった。
——慎二。
圭吾と一緒にいても、どこかで思い出してしまう。付き合うと決めたはずなのに、圭吾に向き合っているはずなのに、心の奥にある感情が完全に消えることはなかった。