もうひとりの異動
「広島支店、異動だってさ」
穏やかな日差しが差し込み始めた三月の末、日向の言葉が静かに響いた。まるで穏やかな水面に小石を投げ込んだように……。
「……え?」
日向は苦笑しながら、さらっとした口調で言った。
「来月から。俺も急に言われてさ。まあ、たぶん一年か二年くらいの予定だとは思うけど。」
「そっか……。」
それ以上の言葉が出てこない。
「なんだよ。」
沈黙に耐えきれなくなったのか、日向がぼそっと言った。
「なんだよ、その顔。そんな顔すんなって」
未紗季は、自分がどんな表情をしているのかも分からなかった。でも、日向の言葉で、『ああ、私は今、本当にひどい顔をしてるんだな』と思った。
「……。」
結局、未紗季はかける言葉が見つからなかった。
それから数日後、昼休みの社員食堂。
「明後日、広島行くわ」
日向がさらっと告げる。
——慎二がいなくなり、今度は日向まで。
「そう……なんだ。」
ここで抑えていた気持ちが止められなくなり、涙があふれてくる。何か言わなければと口を開くが、喉が詰まって声にならない。
「そんな顔すんなよ」
日向は少し困ったように笑いながら言った。
でも、未紗季の涙は止まらない。慎二がいなくなり、今度は日向までいなくなる。
それでもなんとか笑顔を振り絞り、未紗季はかすれた声で口を開いた。
「ねえ、日向、綾那さんのこと、大切にしてね。」
「急にどうした?」
「遠く離れても、ちゃんと連絡して、気持ちを伝えてあげて。私みたいな、悲しい思いをさせちゃダメだから。」
必死に微笑もうとするが、涙が頬を伝う。
日向は小さく息をつくと、何も言わずに未紗季の頭をポンと叩いた。
「俺らは大丈夫だよ。」
優しい声だった。いつもと同じ、頼れる日向の声。
いつもなら未紗季の隣で食事をしているはずの朱音は、今日は少し離れた席からふたりのやりとりを見守っていた。
そして、そのさらに向こう。社員食堂の入口から、新たな一団が入ってくる。
今日は四月一日。今日付で入社した新入社員たちが、入社式、午前のオリエンテーションを終えて食堂へやってきた。
その中のひとりの男子新人社員の目に、泣いている未紗季の姿が映る。彼は足を止め、ふと目を留めた。
いよいよ、日向の支店での勤務最終日がきた。
日向が部内の人たちに挨拶をして回る。
「皆さん、お世話になりました!広島行っても、バリバリ頑張りますんで!」
いつも通り明るく笑い、同期や先輩たちと握手を交わしている。
日向は、最後に未紗季の前に立った。
「じゃ、行くわ。」
未紗季はいつもと変わらない表情で、日向を見る。
「うん。頑張ってね。」
未紗季は、今日は笑顔で見送ると決めていた。
「綾那さんのこと、大事にしてね。」
「ああ、分かってる。当然だろ。」
日向は最後に、未紗季の頭をポンと軽く叩き、オフィスを、そして大阪支店をあとにした。
こうして、日向は広島へと旅立っていった。




