どこにもいない?
翌日の昼休み、食堂でのこと。
「未紗季先輩って、藤原さんと付き合ってるんですか?」
突然の朱音からの質問に、未紗季の手がピタッと止まる。
「え?」
「だって昨日、一緒に帰ってたし、なんか雰囲気いい感じだったから。」
朱音の問いに、未紗季は全力で首を横に振った。
「ないないない! 絶対ない!」
「おお、全力否定(笑)。」
目を丸くする朱音に、未紗季は強く言い聞かせるように続ける。
「日向は同期だし、大事な仲間だけど、そういうんじゃないから!」
「へぇ~、そうなんですね。でも、いいじゃないですか、お似合いですよ。」
「だから違うってば!」
あまりに必死な未紗季の様子に、朱音は「ふーん?」と面白そうに微笑んだ。
「でも藤原先輩って、カッコいいですよね。付き合ってないなら紹介してくださいよ。」
「え?」
未紗季は思わず朱音を見返した。
「え? だってイケメンだし、頼りになりそうだし、絶対モテるでしょ?」
「日向には、付き合いの長いステキな彼女がいるのよ。」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。学生時代からずっと一緒にいる彼女がね。」
「へぇ~……そうなんですね。知らなかった。」
朱音はちょっと残念そうな顔をしながらも、すぐに「まあ、そりゃそうか」と納得したようにうなずく。
「そっかー、やっぱりいい男にはちゃんと彼女がいるもんですねぇ。」
冗談めかした口調に、未紗季は苦笑する。
「そりゃそうでしょ。」
「ですよね~。あーあ、出会いないかなぁ……。」
「ん? なんの話だー?」
不意に後ろから声がして、振り向くと、トレイを持った日向の姿があった。
「うわっ、びっくりした!」
朱音がオーバーリアクション気味にのけぞる。
「ちょうど今、未紗季先輩と恋バナしてたんですよ~。」
朱音の言葉に、未紗季は「ちょっと!」と小声で制止したが、日向は苦笑いのまま椅子を引いた。
「恋バナ? 未紗季が?」
日向は面白そうだな、という顔をし、未紗季は小さくため息をついた。
「……恋バナっていうか、朱音が藤原先輩を紹介してほしいとか、そういう話。」
「えっ!?」
日向が未紗季と朱音を交互に見た。
「え、いやいや、そんな、藤原先輩かっこいいですよねーって話。」
朱音が慌てて手を振ると、日向は肩をすくめて笑う。
「そりゃそーだろ。」
「日向は彼女もいるし、朱音ちゃんなんて相手にするわけないでしょ、って言ってたのよ。」
「ひどいなぁ!」
朱音が口をとがらせる。
こんなくだらないやり取りを交わしながら、未紗季は気づく。
(こうして、何でもない話をして、ご飯を食べて。こういう時間、しばらくなかったな。)
少しずつ、少しずつ、いつもの日常に戻りつつあるのかもしれない。そう思うと、胸の奥が、かすかに痛んだ。日常が戻るということは、慎二のいない日々が「当たり前」になっていくということだから。いつか、こうして笑っているうちに、慎二のことを考える時間も減っていくんだろうか。
それでいいのかも……とも思うが、やっぱり胸の奥では、寂しさはぬぐい切れなかった。
「未紗季?」
日向が、ふと怪訝そうに顔をのぞき込む。
「ん?」
「急に黙るから。大丈夫か?」
「うん。なんでもない」
少しぎこちなく笑って返した。
「未紗季先輩、食べるの遅いですよー。」
「じゃあ先に行くな。」
いつの間にか、あっという間に食べ終わっていた日向が立ち上がる。
何でもない会話。何でもない時間。それでも、心の中では、まだ慎二のことを忘れられずにいる。未紗季はそんな自分が、ちょっとだけ嫌だと感じていた。
昼休みが終わり、未紗季はデスクへ戻る。
「さあ、午後も頑張りますかねー。」
「未紗季。」
ふいに日向に名前を呼ばれて、振り向いた。
「もういいのか、慎二のこと……。」
日向は、そう言いかけて、そこで止まった。
そんな簡単に、「もういい」なんて思えるわけがない。それを、日向もよく分かっている。
「もういいわけ、ないよな。」
そう小さくつぶやいた日向に、未紗季は目を伏せる。
「そろそろ午後の会議、行くぞ。」
日向は、それ以上何も言わずに、会議室へ向かった。未紗季は、胸の奥に残る痛みを感じながら、そっと息を吐く。
(いつになったら、本当に『もういい』って思えるんだろう。)
未紗季は次の企画書を作るために、以前作ったフォーマットを探していた。探し出して、ファイルを開くと、ふと記憶がよみがえった。
「そういえば、このフォーマット、作るのに苦戦してた時、慎二がアドバイスをくれて完成させたんだった……。」
懐かしさと、ほんの少しの寂しさが押し寄せる。でも、未紗季はすぐに気持ちを切り替えて、目の前の仕事に集中することにした。
(もう、前を向いて歩いていかなくちゃ。)
「あ、それ、未紗季力作のフォーマットじゃん。」
モニターをのぞき込んだ日向が言った。それから少し言葉を選ぶように、ぽつりと口を開いた。
「こないだ、ちょっと思いついてさ、他の検索をするついでに、試しに慎二の名前を社内ネットで検索してみたんだけど……。」
「……?」
「あいつ、東京のグローバル戦略推進部にも、他のどの支店にも名前がなかったんだ。」
「え?」
未紗季はそれ以上の言葉が続かない。慎二がどこにもいない?東京のグローバル戦略推進部にも? 他のどの支店にも?
頭の中が真っ白になり、思考が追いつかない。
今まで「東京にいる」と信じていたものが、急に根底から崩れていった。あの時、何も言わずに行ってしまったけれど、でも確かに東京にいるはずだった。
「異動一覧には、載ってたよね?」
無理やり冷静さを保とうとするように、未紗季は過去の記憶を引っ張り出した。あの時、確かに「東京本社・グローバル戦略推進部 野口慎二」と記された異動リストを見たはずだった。
「載ってた。だから、最初は俺も普通にいるんだと思ってた。でも……。」
日向は再び短く息を吐く。
「今は、どこにもいない。」
その言葉の意味が、じわじわと心の奥に染み込んでくる。
「そんな……」
未紗季は、デスクの上の書類を無意識に握りしめた。少し前までの、何気ない日常。仕事に向き合い、時には朱音とくだらない話をして、少しずつ前を向こうとしていた時間。それが、突然足元から崩れ落ちていくような気がした。
(どこにもいない……?慎二は、どこへ行ったの?)
慎二が東京へ行ってしまった時、それでも未紗季はなんとか前を向こうとしていた。仕事に没頭し、日々の業務をこなすことで、自分を保とうとしていた。
でも、「どこにもいない」 と知った途端、何かが決定的に崩れた。
慎二は、ただ遠くにいるだけだと思っていた。東京にいるのなら、会えなくても、居場所がわかっているのなら、それでいいと思っていた。でもいるはずだと思っていたところにいないなんて……。
その事実は、未紗季から最後の拠り所を奪っていった。
慎二が最後に残した言葉、
『ごめん、帰ったらゆっくり話そう』
それだけを頼りにしていた。
確かにあの時は、ひどい喧嘩をしてしまった。でも、それを取り戻せる日がくるはずだった。少なくとも、未紗季はずっとそう信じていた。
慎二が帰ってくれば、きっと、何もかも話せる。怒ったり、泣いたり、ぶつかったりしてもいい。でも、もう一度ちゃんと向き合えるはず。
——帰ったら
けれど、そもそも「帰る場所」はどこなのか?「帰る」という言葉の意味は、今も生きているのか?慎二は、今どこにいるのかさえ分からない。
この空白の時間の中で、彼はどこか遠い場所へ行ってしまったのかもしれない。そう思うたびに、未紗季の中で「帰ったら」という言葉が少しずつ薄れていった。まるで、掴んでいたものが指の隙間からこぼれ落ちるみたいに。
日向も、未紗季の様子が変わったことにはすぐに気づいた。しかし、あえて何かを言うことはなかった。ときどき、いつも通りの調子で話しかけてくることもあったが、こちらから話しかけた時にぼんやりしてるだけ、ということもあった。
それでも日向は、無理に「元気を出せ」とは言わず、少し離れた場所から、ただ見守るようにしていた。
朱音もまた、未紗季の変化を感じ取っていた。以前のように、明るく話しかけても、未紗季はどこかぼんやりしていることが増えた。元気づけようと軽口を叩いてみても、返ってくるのは「大丈夫だよ」と、どこかぎこちない微笑み。何があったのか朱音には分からなかったが、何かを聞くべきではないということだけは、なんとなく察していた。
そうして、色を失った時間が過ぎていく。
肌を刺すように冷たかった冬の空気は、少しずつ緩み、春の気配が忍び寄る。
——気づけば、また新しい年度がやってくる。未紗季にとって、四回目の春。
そして、今度は日向に辞令が下る。
「広島支店、異動だってさ。」