新しい仲間
四月。街を歩けば、新しいスーツに身を包んだ若者たちが、少し緊張した面持ちで会社へ向かっていくのが目に入る。電車の中も、オフィスの空気も、どこか浮き足立っていて、入社当時の自分を思い出さずにはいられない。
入社三年目、あの春の緊張感は、まだ未紗季の記憶の奥に残っていた。
オフィスの扉を開けいつものように自席に向かい、パソコンを立ち上げる。目の前の仕事をこなし、何もなかったように振る舞う……そう努めていた。
ただ……。
ついこのあいだまで、慎二はここにいた。そして、今はいない。でも、新年度の空気は、いつもと変わらず流れていく。
昼休み、食堂から一足早くデスクに戻り、パソコンを開いた日向。社員用ページに掲載された「四月一日付 人事異動一覧」を見て、日向の目が、ある名前で止まった。
——野口慎二 グローバル戦略推進部へ異動
「あいつ、本社のグローバル戦略推進部かよ。」
東京本社に異動になったときは、ただ、「本社勤務になった」というだけで、どこの部署かまでは知らされていなかった。
「未紗季にも、伝えとくか。」
午後の業務開始とともに、未紗季もデスクに戻ってきた。
「未紗季。」
日向が、デスクでパソコンの画面を見つめながら声をかけてきた。
「ん?」
「慎二、本社のグローバル戦略推進部に配属されたみたいだな。」
一瞬、息が止まるような感覚があった。
未紗季は日向のディスプレイをのぞき込む。そこに、確かに慎二の名前があった。
「ふーん、そうなんだ。」
未紗季はできる限り平静を装い答えた。
日向が横目で未紗季の様子をうかがう。
「あれから連絡は?」
「何もないよ。」
「そっか。」
日向は少し間を置いてから言った。
「綾那も心配してるから、また三人で飯でも食おうぜ。」
「二人の邪魔しちゃ悪いじゃない。」
「そんな気ぃ使うなよ。」
未紗季のぎこちない微笑みに、日向はそれ以上、何も言わなかった。
本社の部署が分かったのなら、社内メールを送ることも、会社に電話することもできる。でも、そんなの絶対に無理だ。「グローバル戦略推進部」なんて、いかにも偉い人たちがいる部署みたいだし、そもそも何を書けばいい?『元気?』なんて軽く聞けるわけがない。むしろ、慎二のほうから何もないのに、自分から連絡するなんて、余計に惨めになるだけだ。
ものすごく手の届かないところに行ってしまったように感じた。
(私のことなんて、もうなんとも思ってないのかも。)
それでも……。
『ごめん、帰ったらゆっくり話そう』
最後に届いたあのメッセージだけが、未紗季の心の中に残り続けていた。あきらめたいような、でも、あきらめきれないような……。
新年度は始まっている。でも、自分の中の時間だけが、置き去りになってしまったような気がしていた。
六月。研修を終えた新人が、今年もプロモーション企画部に配属されてくる。
「瀬戸朱音です!よろしくお願いします!」
明るく元気な声が、少し静かになっていたオフィスの空気を一気に変える。無邪気な笑顔を見て、未紗季は二年前の自分を思い出した。あのとき隣にいたのは、慎二だった。でも、今はもういない。
未紗季は軽く息を吐き、気持ちを切り替えるように自分の仕事を進めた。
ある日の昼休み、社員食堂で朱音が尋ねてきた。
「高宮先輩って、何年目なんですか?」
「私は専門学校卒の、三年目。」
「ということは……え?ひょっとして、私と同い年ですか?」
朱音が目を輝かせる。
「うん、そうなるね。」
「なんかうれしいです。仕事のこと、いろいろ教えてくださいね。」
朱音は明るくて、素直で、ちょっと抜けているところもあるけど、根は真面目だ。初めはそのテンションについていけるか不安だったが、仕事に対しては意外と努力家な一面もある。
「でも、ちょっと安心しました。先輩、最初ちょっと怖い感じの人かと思ってたんで。」
「怖かった?」
朱音は慌てたように手を振る。
「いやいや、怖いっていうか、なんていうか、真面目そうっていうか、話しかけづらいかなって思っただけで……。」
「それ、フォローになってないんだけど。」
「すみません!でも、話してみたら全然そんなことなかったです!」
朱音はおどけたように言いながら、立ち上がった。
「先輩、コーヒー飲みます?」
「うん、ありがとう。」
そう言って朱音の背中を見送りながら、未紗季は小さく息をつく。
(怖く見えた、か。)
無意識に寂しさや虚しさが、表情に出てしまってたのかもしれない。
最初はどうなるかと思ったけど……。この後輩が配属されてから、オフィスの空気が少し変わったのは気のせいではない。ほんのわずかだけど、以前よりも会話が増えて、朱音自身もなじんできているようだ。
そして、未紗季自身も少しだけ、気持ちが楽になった気がしていた。
「そうそう、これコーヒーに合うと思うんですけど、食べます?」
朱音が小さなお菓子の袋を差し出してきた。
未紗季はひとつ摘まんで口に入れる。
「うん、おいしいね。」
「新作、出るとついつい買っちゃうんです。甘いものの誘惑には、やっぱり勝てないですよねー。」
こんな他愛のないやり取りで、笑みがこぼれるなんてどのくらいぶりだろうか……。
「未紗季!」
会社を出ようとしたタイミングで、日向の声が聞こえた。
「綾那がさ、また三人で飯行きたいって言ってた。」
「三人で?」
「お前も最近ちょっと元気になったっぽいし、そろそろどうかなって」
「……。」
少しの沈黙。元気になったかどうか、自分ではよく分からないけど……たしかに前よりは、落ち込んでいる時間が減った気がする。
「綾那さんも、心配してくれてたんだね。」
「当たり前だろ。ってか、俺もだよ。」
日向は軽く肩をすくめる。
「今日、綾那と飯行く約束してんだ。で、もし未紗季を誘えそうなら誘えってさ。」
「え? いいのかな?」
「じゃあ、決まりな!よし、行くぞ。」
未紗季と日向、並んで歩きながら、会社を出る。
「綾那、もう店ついてるってさ。」
何気ない会話を交わしながら、二人は駅へと向かった。その姿を、少し遅れてエレベーターを降りてきた朱音が見ていた。
「……ん?」
(先輩と藤原さんって、もしかして、そういう関係?)
「ひょっとして、これはスクープかも?」
未紗季と日向が店内に入ると、玲奈がすでに到着していた。
「今日は誘っていただいて、ありがとう。心配してくれてた、って。」
「え? 日向がずっと心配してうるさかったのよ。もちろん私も気になってたけど。ね?」
玲奈が日向に視線を向けると、日向はちょっとバツが悪そうに視線をそらした。
「まあ、な。」
「うわ、素直じゃない。」
「うるせぇ。」
「でも、本当にありがとう。気にかけてくれて。」
未紗季がそう言うと、玲奈はやわらかく微笑んだ。
「当然でしょ。未紗季ちゃん、私たちにとっても大切な友達なんだから。」
「うん。」
じんわりと胸があたたかくなる。慎二がいなくなって、ずっとぽっかり穴が開いたみたいだったけど、少しずつ、こうやって前を向ける時間が増えていく。
「さ、せっかくの飯なんだから、楽しく食おうぜ。」
また、こんなに笑いながら食事ができる日常が戻ってきた。あの日止まった時間が、ほんの少しずつ動き出すような気がした。
ただ、大切なもう一人がここにいないことに、気づいていないわけではないのだけど……。