ごめん、帰ったらゆっくり話そう
転勤が発表されてからというもの、慎二は食堂に姿を見せていない。
慎二は未紗季を避けるように、話しかけようとはしなかった。
(どうして言ってくれなかったの?)
(どうして向き合おうとしてくれないの?)
頭の中で何度も問いかける。だけど、慎二が何も言わないのなら、と未紗季もついつい意地になる。
どうせもう、決まってしまったことなのだから……。
慎二と向き合えない状態がしばらく続いたある金曜の昼休み、日向が久しぶりに食堂に現れた。慎二の抱えていた案件を引き継ぐことになっていて、慎二に同行し、外回りが多くなっていた。
「はあ、やっと今日はゆっくり飯が食えるか。」
向かいの席にどっかりと腰を下ろした日向に、未紗季が尋ねる。
「慎二、どんな感じ?」
日向はため息をつきながら答える。
「俺もずっと『ちゃんと話せ』って言ってたんだけどな」
転勤のことを話すタイミングを逃し話せなかったこと、この一週間、忙しさを理由にまともに向き合えなかったこと、慎二も本当は、きちんと謝りたいと思っていた。
「あいつ、時間ができたらちゃんと話そうとしてたんだよ。でも、タイミング逃して、どう切り出せばいいか分からなくなってたんじゃないかな。」
「……。」
慎二も、未紗季と同じように話したいと思っていた。でも、お互い意地を張って、すれ違っていただけだった。
(……私、何やってるんだろう。)
「……ちゃんと話さなきゃね。」
「おう、そうしろ。」
日向が軽く笑った。
土曜・日曜と、慎二は引っ越しに向けて荷造りに精を出していた。金曜の夜も、明日からの荷造りに向け、早々に退社し、未紗季とは話せずにいた。
「本社から、できるだけ早く来てほしいと言われている。向こうでの住まいは用意できているそうだから、いつでも動けるように、この週末にでも、できるだけ荷物を送っておくほうがいいかもしれないな。」
部長からそういわれていた慎二は、金曜の夜からこの土日でほぼ荷造りを終え、いくつかの荷物を東京へと送っていた。
月曜、未紗季は朝からクライアント先へ打ち合わせに出かけていた。戻ったら、今日こそ意地を張らずにちゃんと話そう……そう心に決めて。
未紗季と入れ違いで出社した慎二は、デスクに荷物を置いたところで、部長に呼ばれた。
部長は一度視線を落とし、それから少し言いにくそうに口を開いた。
「東京本社から連絡があってな、正式な転勤は予定通り来月頭からなんだが、取り急ぎ今日か明日にでも一度東京へ来てほしい、とのことだ。」
「え?」
「急な話ですまん。本当なら、あと数日はこっちでの業務を整理してから、と思っていたんだが、向こうの都合もあるらしくてな。」
「そうですか。」
「一応、来週には、一度また戻れるとは思うが、どうする? すぐに動けそうか?」
慎二は一瞬考えた。ある程度の荷物は向こうに既に送っている。身ひとつなら、すぐに行ける。
「大丈夫です。すぐに向かいます。」
「そうか、すまんな。じゃあ、今日のうちに東京へ移動するように手配する。新幹線のチケットは会社で取っておくから、準備ができたら言ってくれ。」
「ありがとうございます。」
今日行っても、また帰ってくる予定なのだから、そこまで深刻に考える必要はない。もちろんすぐに未紗季のことは頭に浮かんだ。いつからまともに話せていないんだろう。そこへまた急な予定変更だ。
未紗季のデスクを見る。
(午前中は戻らないか。……まぁ、どうせまた戻ってくるんだしな。)
少しだけ胸の奥に引っかかるものを感じながら、慎二は荷物をまとめるために席を立った。
昼過ぎ、クライアントとの打ち合わせを終え、社に戻った未紗季が日向を見つけ声をかけた。
「慎二は?」
「もう行った。」
「え?言ったってどこに?」
「東京だよ。」
「東京?」
未紗季は一瞬、頭がついていかなかった。
「俺もその場にはいなかったんだが、正式な転勤は予定通り来月頭らしい。でも今日か明日中に一度東京に来てほしいって話になったみたいで、慎二は『どうせ身ひとつだからすぐに行く』って言って、そのまま行ったらしい。来週には一度戻ってこれるらしいけど。」
「そんな……。」
未紗季の胸がざわめく。
(今日、話そうって決めてたのに……。会えないまま、行っちゃったの。)
ようやく、意地を張らずに自分から向き合おうと思えたのに。会えないまま、慎二は行ってしまった。
ぼんやりとデスクに座り、呆然とスマホを見つめる。
ちょうどその時、画面が光り、慎二からのメッセージが届く。
『ごめん、帰ったらゆっくり話そう』
それを見た未紗季は、すぐに返信を打った。
『うん、待ってるから』
送信ボタンを押したが、そのメッセージが既読になることはなかった。
当然慎二からの返事はこない。何度電話をかけてもつながらない。
「移動中で電源切ってるのかもしれないな。」
日向に言われて、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「そうか……そうだよね。」
「どうせいったん戻ってくるんだから、その時話せばいいんじゃね。」
「うん、そうだね……。」
でも……。
(なんだろう、この胸騒ぎ。嫌な予感がする。)
もう、慎二とまともに話すことができないんじゃないか、そんな気がしてならなかった。
それでも、未紗季は自分に言い聞かせる。
(大丈夫、来週には戻ってくるって言ってたんだから。)
そう信じる以外、今はどうすることもできなかった。
「今週中に一度、こちらへ戻れる予定だった野口だが、戻れなくなった、とのことだ。」
慎二が急遽東京に経ってから一週間ほどたったある日、打ち合わせの場で、それは突然告げられた。
「え、どういうことですか?」
会議室に集まっていた、プロモーション企画部のメンバーたちがざわめく。
部長は、言葉を選ぶように口を閉ざし、一度深く息を吐いた。
「私も詳しくは聞けていない。向こうでの業務の関係で、予定通りには戻れなくなった、と。」
「でも、野口は一旦戻れる予定だったんですよね?」
「本当に戻れないんですか?」
次々に飛び交う質問に、部長は苦々しげに首を振った。
「本人から直接、そういう連絡が入ったんだ。東京本社に連絡したが、どうにも要領を得ない。最初からそのまま転勤、ということになっていた……と。」
部長のその言葉に、会議室が一層静まり返る。
「そんな……。」
未紗季の声にならない声が漏れる。
打ち合わせを終え、会議室を出た未紗季の手の中で、スマホが冷たく沈黙していた。
最後に慎二から届いた、たった一言だけのメッセージ。
『ごめん、帰ったらゆっくり話そう』
それっきり、何度メッセージを送っても既読はつかないままだった。未紗季だけじゃない。日向も、慎二とは連絡が取れないままだという。
もしかしたら、仕事が落ち着いたら、ふと何事もなかったように連絡がくるかもしれない。それともこのまま、何も聞けないままなのかもしれない。
確かなのは、慎二が今、もうここにはいないということだけ——。