一ヶ月がたち
気がつけば、あっという間に一ヶ月が過ぎようとしていた。仕事にも少しずつ慣れてきたものの、まだまだ手探り状態は続いている。
クールな印象の奈津美とは、未紗季はまだプライベートな会話をするまでには至らず、仕事上のやり取りが中心だ。健太も慣れてきた様子で、自分の意見も言えるようになってきたようだ。おとなしすぎるかも、という初日の印象があったが、これは意外に化けるかもしれない……未紗季はそう思っていた。
毎日が慌ただしく過ぎ、もう十月も終わろうかというころ、総務の加藤に声をかけられた。
「高宮さん、出向の正式な手続き関係で、明日にでも一度大阪支店へ行ってもらいたいんだけど。」
「支店ですか?」
「そう。他の社員の人たちは終わっているんだけど、高宮さんは少し遅れて入社が決まったから、まだ手続きが終わってなかったのよ。異動の事務手続きね。本人の署名などもあるから、大阪支店の総務課に直接行ってもらえるかしら。」
そう言われ、書類の入った封筒を受け取った。
久しぶりの支店へ
翌日。午後の業務を済ませた後、そのまま直帰していいからと言われ、未紗季は大阪支店へ向かった。
ビーコンマーケティング大阪支店の建物の前に立つ。たった一ヶ月しかたっていないというのに、ずいぶん久しぶりだと感じる。入り口を入り、まずは総務課へ向かう。
「高宮さん、異動に関する最終手続きですね。こちらの書類の確認をお願いします。」
担当者から手渡された書類に目を通しながら、未紗季は少しの間、ペンを持つ手を止めた。これにサインをすれば、正式に自分は「ビーエム・ネスト」の一員となり、「ビーコンマーケティング」の社員ではなくなるのだ。
——私はもっと前へ進みたい。
そう思いながら、深く息を吸い、署名欄に名前を書いた。
「ありがとうございます。手続きが終わるまで少し時間がかかるので、その間に挨拶を済ませていただいても大丈夫ですよ。」
そう言われ、未紗季は総務課を後にし、まずは広報部へ向かった。
「突然の異動でご迷惑をおかけしました。」
未紗季が頭を下げると、かつての同僚たちがと次々に声をかけてくれた。
「いやいや、高宮さんならどこでもやれるよ。」
「新しい職場でも頑張ってくださいね。」
引継ぎもそこそこに、自分の思い付きで急に異動してしまったのに、快く迎えてくれた懐かしい顔ぶれに、未紗季は少しほっとした。
続いて、経営企画部の川上室長のもとへ。
「新しい環境、どう?」
「まだまだ慣れないですが、何とか頑張っています。」
「新しい環境に慣れるまで大変でしょうけど、あなたならきっと乗り越えられるわ。挑戦する気持ちを忘れずに頑張ってね」
「はい、ありがとうございます。あの……佐々木室長にもお礼を伝えておきたいのですが。」
「海外戦略推進室にいらっしゃると思うけど……。」
川上がちらっと視線を向けながら言った。たしかにそこに圭吾がいた。川上に礼を言い、海外戦略推進室へ向かうと、圭吾の声が聞こえてきた。
「野口君の結婚の件だけど、予定通りかな。」
「ええ、来年の春には向こうの会社に正式に入ることになります。」
慎二の声だ。未紗季は思わず足を止めた。
「じゃあ、やはりこちらの退職は三月いっぱい、予定通りということで進めて大丈夫かな?」
(三月いっぱい……? 慎二が、本当に手の届かない人になってしまう。)
胸がぎゅっと締めつけられる。未紗季は一度目を閉じ、小さく息を吐いた。気を取り直し、圭吾に声をかける。
「お忙しいところすみません、少しお時間よろしいですか。」
圭吾が少し驚いた顔で未紗季を見た。先日の面接で顔を見ていたとはいえ、圭吾にとって、久しぶりに“未紗季と向き合う瞬間”だった。
その視線には、一瞬だけ複雑な色がにじんでいたようだが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。
「新会社行きを後押ししていただいた、と川上室長からお聞きしました。その節はありがとうございました。」
「いや、本当のことを言ったまでた。もう出社しているんだな。新しい環境はどうだ?」
「まだまだ慣れないですが、頑張っています。」
「そうか……。まあ、お前……高宮君なら大丈夫だろう。」
淡々とした口調だったが、その言葉の裏にはいくつもの感情が交錯しているようだった。
圭吾にとって、未紗季とのちゃんとした会話は、アメリカ帰国後に結婚を告げた日以来だ。結婚を後悔しているわけではない。ただ、未紗季に対して割り切れない何かを抱えているのも確かだった。面接のとき、彼女のことを後押しする発言をしたのは、仕事の実力を認めていたからだ。しかし、それだけではなかったのかもしれない。
「ありがとうございます。」
未紗季は静かに、その一言だけを返した。その短い言葉に、圭吾は微かに口元を引き締めた。
「それじゃあ、頑張れよ。」
「はい。それでは、失礼します。」
未紗季が圭吾に軽く会釈をして去ろうとしたとき、今まで黙ってこのやり取りを見ていた慎二が、口を開いた。
「新しい場所でも、頑張れよ。」
慎二の中から絞り出した、たったそれだけの言葉。慎二と未紗季は一瞬だけ目が合ったが、すぐに未紗季が目を伏せた。
「ありがとう、野口さんもお幸せに。」
そう静かに返した瞳には、悲しげな色が滲んでいた。慎二は未紗季をじっと見つめていたが、未紗季は慎二と視線を合わせることもなく、そのまま海外戦略推進室をあとにした。
すべての挨拶を終え、再度総務課に寄ろうとしたとき、廊下で朱音とばったり出会った。ビーエム・ネストを出る前に、今から支店に行くからと、日向と朱音にはメッセージを送っていた。すぐに日向から『じゃあ、帰りに一緒に一杯やろうや!』と返信があった。
「ごめんね、未紗季。やっぱり無理だわ、今日は旦那に保育園のお迎えを頼めないみたい。」
「そっか、残念! でも、また改めてね。」
「うん! いっぱい話したいことあるし、今度じっくりね!」
朱音は申し訳なさそうにしながらも、笑顔でそう言い、足早に去っていった。
それから総務課へ行き、手続き完了の書類を受け取った。
「これで手続きはすべて完了しました。お疲れさまでした。」
担当者にそう告げられ、会社を出た。書類を手にし、ビルの前に立ち、見慣れた社名のプレートを見上げる。
「ビーコンマーケティング」——ここで過ごした日々は、もう過去になる。
入社したばかりの頃、緊張しながらこの扉を開けた自分の姿がよみがえった。あの時、未紗季の隣には、慎二と日向がいた。未来がどうなるかなんて、何も分からなかった。そしていくつかの出会いと別れ。がむしゃらに働いて、いくつもの経験を積んで、今ここにいる。
軽く息を吐き、書類をバッグの中にしまう。
「行こう。」
未紗季はゆっくりと踵を返し、新たな道へと歩き出した。




