表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/44

一ヶ月がたち

 気がつけば、あっという間に一ヶ月が過ぎようとしていた。仕事にも少しずつ慣れてきたものの、まだまだ手探り状態は続いている。

 クールな印象の奈津美とは、未紗季はまだプライベートな会話をするまでには至らず、仕事上のやり取りが中心だ。健太も慣れてきた様子で、自分の意見も言えるようになってきたようだ。おとなしすぎるかも、という初日の印象があったが、これは意外に化けるかもしれない……未紗季はそう思っていた。

 毎日が慌ただしく過ぎ、もう十月も終わろうかというころ、総務の加藤に声をかけられた。

「高宮さん、出向の正式な手続き関係で、明日にでも一度大阪支店へ行ってもらいたいんだけど。」

「支店ですか?」

「そう。他の社員の人たちは終わっているんだけど、高宮さんは少し遅れて入社が決まったから、まだ手続きが終わってなかったのよ。異動の事務手続きね。本人の署名などもあるから、大阪支店の総務課に直接行ってもらえるかしら。」

 そう言われ、書類の入った封筒を受け取った。


久しぶりの支店へ

 翌日。午後の業務を済ませた後、そのまま直帰していいからと言われ、未紗季は大阪支店へ向かった。

 ビーコンマーケティング大阪支店の建物の前に立つ。たった一ヶ月しかたっていないというのに、ずいぶん久しぶりだと感じる。入り口を入り、まずは総務課へ向かう。

「高宮さん、異動に関する最終手続きですね。こちらの書類の確認をお願いします。」

 担当者から手渡された書類に目を通しながら、未紗季は少しの間、ペンを持つ手を止めた。これにサインをすれば、正式に自分は「ビーエム・ネスト」の一員となり、「ビーコンマーケティング」の社員ではなくなるのだ。

 ——私はもっと前へ進みたい。

 そう思いながら、深く息を吸い、署名欄に名前を書いた。

「ありがとうございます。手続きが終わるまで少し時間がかかるので、その間に挨拶を済ませていただいても大丈夫ですよ。」

 そう言われ、未紗季は総務課を後にし、まずは広報部へ向かった。

「突然の異動でご迷惑をおかけしました。」

 未紗季が頭を下げると、かつての同僚たちがと次々に声をかけてくれた。

「いやいや、高宮さんならどこでもやれるよ。」

「新しい職場でも頑張ってくださいね。」

 引継ぎもそこそこに、自分の思い付きで急に異動してしまったのに、快く迎えてくれた懐かしい顔ぶれに、未紗季は少しほっとした。

 続いて、経営企画部の川上室長のもとへ。

「新しい環境、どう?」

「まだまだ慣れないですが、何とか頑張っています。」

「新しい環境に慣れるまで大変でしょうけど、あなたならきっと乗り越えられるわ。挑戦する気持ちを忘れずに頑張ってね」

「はい、ありがとうございます。あの……佐々木室長にもお礼を伝えておきたいのですが。」

「海外戦略推進室にいらっしゃると思うけど……。」

 川上がちらっと視線を向けながら言った。たしかにそこに圭吾がいた。川上に礼を言い、海外戦略推進室へ向かうと、圭吾の声が聞こえてきた。

「野口君の結婚の件だけど、予定通りかな。」

「ええ、来年の春には向こうの会社に正式に入ることになります。」

 慎二の声だ。未紗季は思わず足を止めた。

「じゃあ、やはりこちらの退職は三月いっぱい、予定通りということで進めて大丈夫かな?」

(三月いっぱい……? 慎二が、本当に手の届かない人になってしまう。)

 胸がぎゅっと締めつけられる。未紗季は一度目を閉じ、小さく息を吐いた。気を取り直し、圭吾に声をかける。

「お忙しいところすみません、少しお時間よろしいですか。」

 圭吾が少し驚いた顔で未紗季を見た。先日の面接で顔を見ていたとはいえ、圭吾にとって、久しぶりに“未紗季と向き合う瞬間”だった。

 その視線には、一瞬だけ複雑な色がにじんでいたようだが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。

「新会社行きを後押ししていただいた、と川上室長からお聞きしました。その節はありがとうございました。」

「いや、本当のことを言ったまでた。もう出社しているんだな。新しい環境はどうだ?」

「まだまだ慣れないですが、頑張っています。」

「そうか……。まあ、お前……高宮君なら大丈夫だろう。」

 淡々とした口調だったが、その言葉の裏にはいくつもの感情が交錯しているようだった。

 圭吾にとって、未紗季とのちゃんとした会話は、アメリカ帰国後に結婚を告げた日以来だ。結婚を後悔しているわけではない。ただ、未紗季に対して割り切れない何かを抱えているのも確かだった。面接のとき、彼女のことを後押しする発言をしたのは、仕事の実力を認めていたからだ。しかし、それだけではなかったのかもしれない。

「ありがとうございます。」

 未紗季は静かに、その一言だけを返した。その短い言葉に、圭吾は微かに口元を引き締めた。

「それじゃあ、頑張れよ。」

「はい。それでは、失礼します。」

 未紗季が圭吾に軽く会釈をして去ろうとしたとき、今まで黙ってこのやり取りを見ていた慎二が、口を開いた。

「新しい場所でも、頑張れよ。」

 慎二の中から絞り出した、たったそれだけの言葉。慎二と未紗季は一瞬だけ目が合ったが、すぐに未紗季が目を伏せた。

「ありがとう、野口さんもお幸せに。」

 そう静かに返した瞳には、悲しげな色が滲んでいた。慎二は未紗季をじっと見つめていたが、未紗季は慎二と視線を合わせることもなく、そのまま海外戦略推進室をあとにした。

 すべての挨拶を終え、再度総務課に寄ろうとしたとき、廊下で朱音とばったり出会った。ビーエム・ネストを出る前に、今から支店に行くからと、日向と朱音にはメッセージを送っていた。すぐに日向から『じゃあ、帰りに一緒に一杯やろうや!』と返信があった。

「ごめんね、未紗季。やっぱり無理だわ、今日は旦那に保育園のお迎えを頼めないみたい。」

「そっか、残念! でも、また改めてね。」

「うん! いっぱい話したいことあるし、今度じっくりね!」

 朱音は申し訳なさそうにしながらも、笑顔でそう言い、足早に去っていった。

 それから総務課へ行き、手続き完了の書類を受け取った。

「これで手続きはすべて完了しました。お疲れさまでした。」

 担当者にそう告げられ、会社を出た。書類を手にし、ビルの前に立ち、見慣れた社名のプレートを見上げる。

「ビーコンマーケティング」——ここで過ごした日々は、もう過去になる。

 入社したばかりの頃、緊張しながらこの扉を開けた自分の姿がよみがえった。あの時、未紗季の隣には、慎二と日向がいた。未来がどうなるかなんて、何も分からなかった。そしていくつかの出会いと別れ。がむしゃらに働いて、いくつもの経験を積んで、今ここにいる。

 軽く息を吐き、書類をバッグの中にしまう。

「行こう。」

 未紗季はゆっくりと踵を返し、新たな道へと歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ