そして新天地へ
十月一日。新しい朝。未紗季は通勤電車の窓から、見慣れない街の風景を眺めていた。これまでの通勤ルートとは違う景色が流れていく。どこか落ち着かないような、それでいて少しだけ高揚するような、複雑な気持ちを抱えながら、最寄り駅で降りた。
しばらく歩くと、目的のビルが見えてきた。
「ここが新しい職場……。」
今までの自社オフィスビルとは違い、いくつかの会社の入った、テナントビル。新会社『ビーエム・ネスト』は、この中にある。未紗季はビルの前で足を止め、軽く深呼吸した。
「よし!」
気持ちを引き締め、エレベーターに乗り込み三階へ向かう。そのワンフロアが新会社のオフィスだ。
入り口を開けると、新しい世界が広がっているようだった。大阪支店の広々としたオフィスとは違い、デスクの距離も近いが、スタートアップらしい雰囲気が漂っている。
「おはようございます。本日からお世話になります、高宮未紗季です。」
未紗季のあいさつに、すでに出社していた数名の社員が笑顔で頷いた。
「ようこそ。今日から一緒に頑張りましょう。」
席に案内され、荷物をデスクに置いたその時、スマホが震えた。画面には、朱音からのメッセージ。
『新しい世界でがんばって!』
未紗季は思わず微笑みながら、すぐに返信を打つ。
『ワーキングママもがんばれ!』
お互いに新しい一歩を踏み出している。朱音からの激励に、未紗季はなお一層、気を引き締めた。
ほどなく九時になり、新会社「ビーエム・ネスト」の業務が正式にスタートした。
会社の業務の中心、事業部は、広報課・企画課・営業課の三部門からなる。管理部は、総務や労務関係を担う。今までのビーコンマーケティングに比べ、とてもシンプルな構成となっている。
取締役事業部長が管理部長を兼任、営業課長とともに大阪支店からの異動組だ。
広報課課長は久賀直樹。東京本社の広報部門で十年以上のキャリアを持つ。新会社の立ち上げにあたって、広報全体を統括するリーダーとして抜擢された。
「久賀です。縁あって、皆さんと一緒に仕事をすることになりました。しっかりとこの会社を支えていければと思います。よろしくお願いします。」
柔らかな物腰ながら、パワフルで頼れる上司と感じ取れる。
企画課長の、村瀬奈津美は、東京本社のブランド戦略部門から異動、実務責任者として企画課を任された。
「よろしくお願いします。」
奈津美は軽く会釈をしながら、淡々と挨拶した。
その他社員合わせ全部で十数名。出向組、新規採用、半々といったところか。それぞれ自己紹介をしていき、最後に未紗季の番となった。
「高宮です。ビーコンマーケティングでは、広報やプロモーションの仕事に携わっていました。地域と都市をつなぐプロジェクトに強く関心があり、今後はこの会社で、自分の経験を生かしていきたいと思っています。よろしくお願いします。」
無事自己紹介も終わり、未紗季はほっと胸をなでおろした。
初日の顔合わせが終わり、それぞれのデスクへ向かう。未紗季は天井から吊るされた企画課のプレートを見上げ、気を引き締めながら席に着いた。
企画課は課長の奈津美と、未紗季、そしてもう一人は新規採用の藤井健太、二十五歳。別業種からの転職組だ。
「まずは現状の業務の確認から始めましょう。」
課長の奈津美が手早く資料を渡す。奈津美の動作には一切の無駄がない。どこか話しかけづらい雰囲気で、今まで一緒に仕事をしてきた人たちとは、また違ったタイプの人のようだ。とにかく早く新しい環境と仕事に慣れること、未紗季は資料を見ながら、奈津美の説明に耳を傾けていた。初日から想像以上に情報量が多く、頭がいっぱいだ。
ようやく昼休み。パーテーションで仕切られた一角は、ちょっとした打ち合わせや、休憩などに利用されるスペースで、社内で昼食をとる場合はこちらで食べることになっていた。
今までは社員食堂があり、お昼に困ることはなかったが、今日から未紗季は、お弁当を持参してくることにしていた。
既に数名が食事をとっていて、その中には奈津美の姿もあった。
「失礼します。」
未紗季は少し緊張しながら、奈津美の向かいに座る。奈津美からは特に反応はなかった。
「あ、高宮さんね。大阪支店で何度か見かけたことあるわ。」
話しかけてきたのは、総務担当の加藤玲子。大阪支店の総務課から異動してきたベテランさんだ。なんでも今年の春から社会人になったという息子さんがいるらしい。
「はい、何度かお世話になったことがあります。こちらでも、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくね。」
加藤さんは気さくな感じで、なんでも頼れるお母さん的立ち位置、といったところ。少し冷たい雰囲気のある大阪支店の総務課の中でも、加藤さんには話しかけやすかった、そんな記憶がある。
そこへ、もう一人女性が入ってきた。
「失礼します。広報課の高橋美優です。よろしくお願いします。」
美優は地方出身で、二十六歳。大阪の大学を卒業後、大阪市内の会社に就職していたが、ビーエム・ネスト設立にあたり、中途採用で入社してきた。通勤途中に購入したと思われる、おしゃれな紙袋に入ったサンドイッチを持参していた。
「あれ?久賀さんは?」
加藤さんが尋ねた。
「はい、事業部長さんと打ち合わせがてら、外へ食べに出られたようです。」
久賀、加藤、そして奈津美は、出向組として、いち早く新会社での業務を進めていたようで、久賀も普段はランチスペースの常連らしい。
「男性組はやっぱり外食が多いのよね。久賀さんはいっつもコンビニ弁当だけどね。」
久賀課長は、まだ幼稚園の息子がいるが、家族を東京に残し、単身赴任でこちらに来ているらしい。
「高橋さんのサンドイッチって、もしかしてあの駅前の人気のベーカリーの?」
未紗季が興味津々で尋ねる。
「そうなんです。私、料理は得意ではなくて……。こちらに通勤することになって、あのパン屋さんに寄れるって思って、楽しみにしてて、早速買っちゃいました。サンドイッチの種類も豊富で、日替わりもあるみたいで、これからも楽しみなんです。」
「へぇ、いいなぁ。私も今度買ってみよう。」
初出勤で、午前中は緊張しっぱなしだったが、こうやってランチをしながら新しい仲間ともコミュニケーションがとれ、午後からの仕事も何とか頑張れそうだ、と未紗季は思った。
午後からも、課内での打ち合わせ。これからに向け中身の濃い話し合いがされた。未紗季もビーコンマーケティング入社当初はプロモーション企画部で企画の仕事に携わってきたので、全く初めてのことではないのだが、奈津美の話ぶりには惹き付けられた。無駄なところは一切ないのだが、聞くことすべて勉強になる、そう感じた。この人についていけば、さらに自分も成長できる、そんな気がしていた。
(課長に認められるように、一生懸命がんばろう。)
そのあと、いくつかの過去の事例を参考に、自分なりに新しいこと……地方と都会を結ぶには具体的にどう進めていけばいいのか、いろいろと思いめぐらせていた。
こうして張り詰めた緊張感の中で、未紗季の新会社での初日を終えた。気が付けば秋の日はすでに暮れかかっていた。
「お疲れさまでした。」
顔を上げると、奈津美がすでにバッグを持ち、帰り支度を整えていた。
「慣れるまで大変かもしれないけど。」
簡潔なこの言葉は、ねぎらいなのか励ましなのか、いまいち奈津美の心情は読み取れない。でもまあ、何とか終わった。ほっとして未紗季も帰る支度をする。
「藤井君もお疲れ様。帰ろうか。」
健太も緊張していたのだろう、途中ほぼ口を開くことはなかったが、ようやくホッとした笑みを見せた。
「すごいですね、村瀬課長。あんな『できる上司』って人の元で、ぼくみたいな若造が、何も言えませんでしたよ。」
健太はようやく緊張から解き放たれたように、饒舌になっていた。
「藤井君は自宅通いなんだよね。」
「そうです。以前勤めていたところは、実家から遠くて、近くに部屋を借りていたんですが、それでも残業が多くて、ちょっと体にこたえまして……。それで実家に戻ってしばらく休養してたんです。自宅から近くて通いやすいっていうのもあって、今回応募しました。」
「今流行りの、『ブラック』ってやつだったんだね。」
「まあ、そうなるんでしょうか。自分ではよく分からないですけど。」
「あまり無理しないでね。私も異動になったばかりで分からないことだらけで、いっぱいいっぱいだけど、お互い頑張りましょう。」
「はい!よろしくお願いします。」
勤務時間中はあまりしゃべらず、どんな人なのかと思っていたが、さわやかな頑張り屋さんという雰囲気で、未紗季もほっとした。頑張り屋さんがゆえに、前職では体を壊すほど、無理をしてしまったのかもしれない。そんなことを思いながら、それぞれ別の電車に乗り込んだ。
(はあ、疲れた。)
スマホの振動でふと我に返る。日向からだった。
『初日どうだった?大丈夫か???』
その前には朱音からもメッセージが来ていた。
『お疲れ様!どうだった?』
気にかけていてくれる人がいることが、未紗季にはうれしかった。二人に対し、未紗季は同様に、短く返信した。
『くたくた(笑)でも頑張る!』
こうして、未紗季の初日、長い一日が終わっていった。




