彼もまたアメリカへ
「日向の結婚式、いい式だったね。」
金曜の夜。久しぶりに颯也と二人で夕飯を食べていた。
「うん。藤原さん、すごく幸せそうだった。」
「綾那さんも、きれいだったしね。」
頷いた颯也の表情は、どこか影を落としていた。
「颯也君?」
「……未紗季さん。」
まっすぐに未紗季を見つめて言った。
「僕、アメリカに行く。」
「え、出張?」
「違う。……アメリカ駐在。前々から佐々木さんから勧められてたんだ。絶対いい経験になるから、ぜひ行って来いって。二、三年は行くことになると思うけど。」
未紗季は言葉を失った。
「そんな……。」
「ずっと迷ってて、答えを出せなかったんだけど、やっぱり行こうと思う。」
彼の瞳には、迷いがなかった。
颯也のキャリアアップのための大きなチャンス。未紗季は、それを理解していた。
「そうか……寂しくなるけど、颯也君のキャリアアップのためだもんね。頑張ってきて、私、待ってるから。」
未紗季の言葉が終わる前に、颯也の静かな声が重なった。
「待っていなくて、いいよ。」
「え?」
未紗季は思わず顔を上げた。颯也はまっすぐに彼女を見つめていた。
「藤原さんの結婚式を見て思った。笑顔の未紗季さん、楽しそうに四人で話す姿……。それから出張でしばらく未紗季さんに会えなくて、一人で考えた。僕はアメリカへ行くから、未紗季さんには、野口さんと幸せになってほしい。」
あまりにも意外な言葉だった。慎二の結婚、それだけでもショックを受けていたのに、颯也にまで——。
「何言ってるの?」
やっとの思いで口を開いた。
「僕は最初からわかってたんだと思う。野口さんが東京から戻ってきたときに、同期だと紹介された時から。未紗季さんが本当に好きなのは野口さんだってこと。未紗季さん自身が気づかないふりをしていただけで。」
「そんなこと……。」
「ない?」
颯也は優しく微笑んだ。
「結婚式のときの未紗季さん、本当に楽しそうだった。」
(違う。私はちゃんと颯也くんを……)
息が詰まりそうだった。
「慎二は、関係ないでしょ。」
「アメリカ行き、止めてくれるかなってちょっと思ってたんだけど。」
(止められないよ。止める資格なんてない。颯也はずっと努力してきたんだもの。)
今回のアメリカ行きは、彼のキャリアにとって大きなチャンスだ。それを引き留めることなんて、
(私には……できない。)
「アメリカ行き、とてもいい機会だから……がんばって。応援してる。」
自分の声が、やけに遠くに聞こえた。
「野口さんと、幸せになって。」
その言葉に、未紗季は目を伏せた。
「まさか、もう終わったことだから。」
そう、本当に未紗季と慎二は終わっているのだから。
未紗季は慎二の結婚のことは言わないまま、静かに目を閉じた。これは颯也のため。彼の未来のため。そう、言い聞かせながら。
それから、未紗季と颯也は完全に距離を置いた。もともと公にしていなかった関係だから、周囲から見れば何の変化もない。
颯也は、アメリカへ行くと決断した。それはもちろん、彼にとってのチャンスであり、キャリアアップにつながることは、間違いない。もうひとつ、これは未紗季の独りよがりな想像かもしれないが、未紗季と慎二の仲を憂いて、自らが身を引くことを考えたのだとしたら……。慎二が結婚すると伝え、未紗季と慎二の関係が、戻ることがないとわかったら……。自分が身を引いたことを後悔するかもしれない。アメリカ行きに迷いが出る……そんなことがあってはいけない。
(彼の未来を、私の迷いで曇らせるわけにはいかない……)
そう思うと、慎二が結婚するのだということは、言えなかった。
「最近、慎二来なくなったな。颯也も見かけないし。海外戦略推進室、忙しいのかね。」
なんとなく異変を感じたのか、食堂で、日向がそうつぶやいた。
「そうだね。」
日向はそれ以上、何も言わなかった。特に深くは追及せず、ただ「そうか」と呟く。
当然、未紗季の変化に気づいているだろうに。そんな日向の気遣いが、今の未紗季にはありがたかった。
慎二が来なくなったのは、偶然ではない。彼は、意図的に未紗季の前に姿を現さないようにしている。
颯也が来なくなったのも、偶然ではない。彼もまた、意図的に顔を合わせないようにしている。
そして、未紗季自身も。
颯也と別れたことで、慎二の結婚を知ってしまったことで、『たのしく過ごしてた日常』が、すっかり壊れてしまったことを実感していた。
梅雨の鉛色の空と同じように、未紗季の心の中も、重苦しいものを抱えたまま、気が付けば颯也がアメリカへ出発する日が近づいていた。
昼休みの食堂で、いつものように未紗季の向かいに座っている、日向が聞いてきた。
「佐藤から聞いたぞ。今度アメリカに行くって。」
未紗季は食事の手を止めずに、日向の顔も見ずに答えた。
「そうだよ。」
「あっさりしてんな。お前、それで最近元気なかったんだろ。」
もちろん、日向もそれだけではないことに、薄々気づいていたのだが……。
その日の夕方、未紗季は給湯室から戻る途中、廊下に出ると颯也と鉢合わせた。ほんの一瞬、互いに戸惑ったように足を止める。直接向き合うのは、あの日以来だった。
颯也が軽く会釈する。未紗季も、それに倣うように小さくうなずいた。
「少しだけいいかな……。」
颯也がそう言って、休憩コーナーの方へ歩き出した。未紗季も、迷いながらもその後ろをついていく。お互い言葉は交わさないまま……。
颯也はコーヒーマシンで二杯のコーヒーを淹れ、未紗季に一杯を手渡しながら言った。
「来週、アメリカに行くことが決まったよ。」
胸の鼓動が一度高鳴り、未紗季が一瞬目を伏せる。
「そうなんだ……。向こうでも、体に気をつけてね。がんばって。」
「うん。未紗季さんも。」
未紗季は顔を上げ、精一杯の笑顔を作った。
「颯也君が大好きだった。その気持ちは、嘘じゃないよ。今まで、本当にありがとう。」
「こちらこそ、ありがとう。」
「……。」
「野口さんと、幸せになって」
未紗季はカップを握りしめたまま、静かに目を伏せる。
「それはないよ。」
そう呟くように言って、未紗季は背を向け歩き出す。そして颯也も未紗季とは反対方向へ歩き出した。
こうして二人は、別々の道を選び、進んでいった。
翌週、颯也がアメリカに出発する前日の夕方。颯也が、海外戦略推進室の橋本チーフ・村山と別れのあいさつをしていた。
「佐藤君、体に気をつけて、頑張ってきて。」
「佐藤さん、いろいろ教えていただき、ありがとうございました。僕も早く追いつけるように頑張ります。」
「ありがとうございます。短い間でしたが、お世話になりました。少しでも成長できるよう、向こうで頑張ってきます。」
颯也も二人に感謝の言葉を返した。
二人が帰った後、圭吾は、五階の役員フロアの執務室に行くため席を外した。このあと、圭吾の誘いで颯也と慎二、三人で飲みに行くことになっている。
今、海外戦略推進室には、颯也と慎二の二人。颯也は一瞬ためらったが、決意したように席を立ち、彼のもとへと歩み寄る。
「少しいいですか。」
慎二が顔を上げる。颯也は静かに口を開いた。
「俺、明日アメリカに行きます。」
「そうだな。」
慎二は変わらぬ冷静さで答える。
「だから、未紗季さんのこと、お願いします。もう一度、未紗季さんと……。」
颯也は真正面から慎二を見据えた。慎二は、少し怪訝な顔をし、静かに答えた。
「俺と未紗季は、とっくに終わってるのに、そんなことあるわけないだろう。」
そう言われ、颯也は言葉に詰まる。そのまま深く頭を下げ、自分のデスクへ戻った。そこへ、圭吾が戻ってきた。
「お、待たせたな。簡単にだけど、壮行会兼ねて、三人で飲みに行こう。」
「ありがとうございます」
会社を後にした三人は、居酒屋へと立ち寄った。
「佐藤は、明日出発だからな、あまり深酒にならんように……。短めに切り上げよう。」
乾杯の後、圭吾から颯也へ、ねぎらいと激励の言葉をかける。
「お前が入社してすぐ、マーケティング推進課では、俺の元でよく頑張ってくれた。それを見込んで、海外戦略推進室にも来てもらった。今回さらにアメリカで大きく成長して、また戻ってきてくれ。」
「ありがとうございます。しっかり、海外でのノウハウを学んできます。」
「そして、野口……だな。」
圭吾が意味ありげに慎二を見た。
「お前ら二人が一気にいなくなるのは、ウチの部署にとっちゃ大きな痛手だ。でも、めでたい話だからな。」
(二人がいなくなる? 野口さんが異動? それとも会社を辞めるのか?)
その疑問が口に出る前に、圭吾が続けた。
「ついでに一つ報告だ。実は野口、結婚することになった。」
(野口さんが結婚?!)
颯也の理解がついてこなかった。慎二も未紗季も、そんなこと一言も言っていなかったのだから。
慎二はいつもどおり、表情を変えることはなかった。
居酒屋を出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。
「よし、じゃあ今日はこのへんで解散だな。」
圭吾が手を振る。
「佐藤、向こうでも頑張れよ。」
「ありがとうございました。」
颯也は頭を下げた。圭吾が去るのを見届けると、残ったのは慎二と颯也の二人。迷う間もなく、颯也は慎二を呼び止めた。
「野口さん、ちょっといいですか。」
慎二が面倒そうに足を止める。
「なんだ。」
「結婚って、未紗季さんとじゃないんですよね。」
「ああ。」
「僕、ついさっき、未紗季さんのことをお願いしますって言いましたよね。」
「……。」
「結婚、決まってたんですか?なぜ、何も言わなかったんですか。」
慎二は、目を逸らさずに答えた。
「決まってた。だが、まだ公にできる話じゃなかった。」
颯也は、握りしめた拳を震わせる。
「もし、野口さんが結婚するって知ってたら、僕は……。」
けれど、それ以上の言葉が出てこなかった。何を言いたいのか、自分でもわからなかった。
「すみません、失礼します。今日までお世話になりました。」
そう告げると、颯也は深く頭を下げ、そのまま駆け出した。慎二は、そんな颯也の背中を見送りながら、小さく息をついた。
夜の帰宅ラッシュも落ち着き、電車内はまばらに空席がある。出発間際の電車に滑り込んだ颯也は、扉の近くに立ちながら、ポケットに手を入れスマホを取り出す。
未紗季に連絡しようか——そう思いつつ、指が止まる。電話をかけるか、それともメッセージを送るか。
何を伝えればいい?
「やっぱり、待っていてほしい?」
そんなの、言えるわけがない。自分から別れを切り出しておいて、今さらそんなことを言う資格はない。もちろん、明日のアメリカ行きを取りやめることもできない。何を言っても、結局、答えは決まっている。
「バカだな……。」
小さく苦笑すると、スマホをそのままポケットにしまった。
窓の外には、流れる夜景。次の駅に近づくアナウンスが響く。けれど、その景色がどこへ続くのか、今の颯也にはわからなかった。




