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すれ違いの始まり

 未紗季たちが入社して、もうすぐ丸二年、という三月半ばのある日。

「野口の東京本社への転勤が、正式に決まった。」

 部長の一言で、部屋が静まり返る。一瞬の沈黙。

「え?」

 未紗季の時間が止まった。

 慎二も、ほんのわずかに目を見開いたが、すぐに冷静な表情に戻る。

「承知しました。」

 未紗季は、周囲のざわめきが遠くで響く雑音のように感じた。

(慎二が、東京に行く?今月中に?何も聞いてない。昨日、あんなふうに言い合ったのに、一言も、そんなこと言ってなかったじゃない。)


 ——昨日の出来事が鮮明に蘇る。

 仕事終わりの未紗季は、いつものカフェでスマホを触りながら慎二を待っていた。

 もうかれこれ一時間。

(事故とか……じゃないよね。)

 さらに五分が過ぎ、さすがに心配になってメッセージを送る。

「今どこ?」

 既読がつかない。

 数分後、カフェのドアが開き、慎二が入ってきた。

「悪い、遅くなった。」

「連絡ぐらいしてよ。」

「いや、打ち合わせが長引いて、ごめん。」

「打ち合わせなら仕方ないけど、遅れるなら一言ほしかった。十分、二十分ならまだしも、一時間だよ?今日話あるから、って呼び出したの慎二だし。」

「まあ、そうだな。」

「まあって何?」

 慎二が視線を避けるようにメニューを手に取る。

「ここで飯にする?それとも店変えるか?」

 慎二のその態度に、カチンときた。

「遅れたのは申し訳なかった。でも、そんなに怒ることか? 仕事で遅れたんだから仕方ないだろ。いちいち怒るなよ。」

「いちいち?」

 未紗季の胸に、嫌な痛みが広がる。

「ねえ、私そんなに面倒くさい?」

「そういう話じゃなくて。」

「でもそう聞こえた。」

 いつもなら、どちらかが折れるのに……、でも、今日はなぜか引き下がれなかった。

「私だって、慎二が大変なの分かってる。でも、『仕方ない』で終わらせてほしくなかった。」

「もういいだろ。これ以上、何を言えば気が済むんだよ。」

 お互い、本当はこんなふうに言い合いたいわけじゃないのに、引くに引けなくなっていた。

「もういいよ。」

 未紗季が先に視線を逸らした。

「ああ、そうか。」

 沈黙が流れる。

 未紗季も慎二も、相手が「ごめん」と言ってくれるのを待っていた。だけど、どちらからもその言葉は最後まで出てこなかった。

 少し間をあけてから、先に声を発したのは未紗季だった。

「帰る。」

「……そうか。」

 カフェのドアを開けた瞬間、夜の冷たい風が肌を刺す。

 店にひとり残った慎二。本当は今夜のタイミングで転勤のことを話そうと思っていた。その話をしていたこともあり、退社時間も遅くなっていたのだ。

 でも、どう切り出そうか、そんな迷いが今日の態度に出てしまった。こじれればこじれるほど、とてもじゃないけど言い出せる空気ではなくなってしまった。

(結局あんなにおこらせてしまったな。追いかけたら今からでも……いやこの気持ちのままじゃ結局おなじことだろう。俺も一晩頭を冷やして、明日ちゃんと話して、ちゃんと謝ろう。)


 一夜明け、前日の喧嘩の余韻を引きずりながらも、未紗季は会社へ向かった。昨夜、結局お互いに謝らないまま別れてしまったことが、ずっと心に引っかかっていた。

(今日、ちゃんと話さなきゃ。)

 未紗季は、いつも通りの時間に出社し、デスクについた。

 慎二も少し遅れてやってきたが、いつもと変わらない表情だった。

(いつもみたいに話せば、なんてことないはず。)

 そう思いながらも、未紗季はなかなか声をかけられなかった。

 慎二は慎二で、今日はちゃんと転勤のことを話そう、そう思っていた。

 だけど一足早く、部長の口から発表されてしまった……。


 ——そして今朝の発表。

「野口の東京本社への転勤が、正式に決まった。」

(昨日、俺から話してたら、未紗季をあんなにも驚かせずに済んだのに。)

 慎二は未紗季の表情をちらりと見たが、すぐに目を逸らした。

(今、どういう顔をすればいい?)

 未紗季は何も言えず、ただ混乱したままその場にいた。

(転勤なんて、そんな大事なこと、慎二、どうして何も言わなかったの?)

 昨日のあの瞬間、もしもう少し冷静になれていたら。もし、素直に「ごめん」と言えていたら、結果は違ったのだろうか。

 慎二の横顔を見た。彼は、何も言わない。何も、言ってくれない。

 そんなとき、部長の声がした。

「正式な辞令は後日出るが、準備期間は短い。今月中には引っ越しの手続きを済ませてくれ。来月頭から東京勤務についてもらうことになる。」

 部長の言葉に、一斉にざわめくオフィス。

「マジかよ野口!」

「すげぇ昇進コースじゃん!」

「これで野口もエリート街道まっしぐらか?」

 同僚たちの驚きと賞賛が飛び交う。

「すげぇな、おめでとう!」

 先輩が軽く慎二の肩を叩く。

「ありがとうございます。」

 慎二は苦笑しながら頭を下げた。

 そのやりとりを、未紗季はただ黙って見ていた。目の前で交わされる祝福の声が、遠い世界の出来事のように感じる。

(慎二が、東京に行く……)

 この空間にいるのに、自分だけが違う場所に取り残されているような感覚。

「未紗季、お前大丈夫か?」

 日向の声がして、未紗季ははっと我に返る。

「あ、うん。」

 言葉とは裏腹に、手が震えていた。

(大丈夫なわけ、ないよ。)


「ちょっと、話がある。」

 昼休み。午前の勤務が終わるのを待ちきれなかったように、未紗季は慎二を呼び止めた。

 廊下端の小さな打ち合わせスペース。人目はあるが、気にする余裕はなかった。

「なんで……なんで、ちゃんと話してくれなかったの?」

 口を開いた瞬間、胸の奥にあった不安と動揺が、一気にあふれ出した。

「言うタイミングを逃したんだよ。」

 慎二はそう言って目をそらす。

「逃したって、転勤なんて、そんな重要なこと。」

「昨日、言おうとは思ってた。でも、お前も怒ってたし。」

「だからって、なんで?」

 努めて冷静に……と思うが、こみあげる感情に逆らえなかった。

「言うべきだったのは、分かってる。」

 慎二の声は、いつもの冷静さを保っているようではあるが、内心はとても揺れていた。

「でも、今さら責められても、もう決まったことだ。」

「もう決まったこと? 慎二にとっては、もう決まったこと、だから仕方ないだろって?」

「俺だって、これでよかったって思っているわけじゃない。」

「じゃあ、どうしてもっと早く……!」

 未紗季の言葉が詰まる。言いたいことがありすぎて、何を言えばいいのかわからなくなる。

「お前こそ、何が言いたいんだよ。」

「行ってほしくない、って言ったら、行かないの?」

「そんなこと、できるわけないだろ。」

(もちろん、私だって分かってるよ、そんなこと。)

 言葉にできないまま、未紗季は視線を落とす。

「もういい。」

 それだけ言って、未紗季はその場を去った。慎二は、ただ黙って見送ることしかできなかった。


 未紗季が慎二を廊下に呼び出したとき、日向はその様子を横目で見ていた。

 朝の辞令発表は、日向も寝耳に水で、当然ものすごく驚いた。そのときの未紗季の表情を思い出す。あの顔は転勤の話を知らなかったのか……。

「ったく、素直じゃねえな、あいつら。」

 日向は苦笑しながら、廊下へ出ていく二人の背中を見送った。

 普段なら、「ケンカするなー」と軽く割って入るところだけど、今回ばかりは軽々しく割って入れない。

(うまく話し合えればいいけど……)


 未紗季との口論のあとデスクに戻ってきた慎二に、日向が声をかけた。

「お前さ。」

 慎二が立ち止まる。

「え?」

「いや、なんでもねぇ。」

 一瞬、踏み込もうとしたが、慎二の表情を見て、日向は言葉を飲み込んだ。

(こいつ、もういっぱいいっぱいだな。)

「飯行くぞ。」

 日向は立ち上がり、慎二の肩を軽く叩く。

「いや、転勤までにいろいろやることがある。時間もない。」

 慎二はそれだけ言って、席に戻っていった。

 日向は小さく息を吐きながら、部屋を出た。もう少し何か言うべきか迷ったが、結局そのまま食堂へ向かった。

 いつもならズバッと言ってやるのに、今の慎二に……言うことなんてできなかった。


 慎二と別れたあとの未紗季は社内にいる気分になれず、そのまま会社を出ていった。

 近くの公園のベンチに腰掛け、ぼんやりとスマホを手に取るが、何もする気が起きず、ただ画面を眺めるだけ。

(なんであんな言い方しちゃったんだろう……でも、慎二だって。)

 自分の中で堂々巡り。

(行ってほしくない、なんて言えないよ。会社で決まったことなのに。)

 慎二は、きっと東京でも、しっかりやって結果を出していくだろう。だからこそ、そんな彼の足を引っ張るようなことは言えない。

「でも、本当は、行ってほしくない。」

 思わず言葉が漏れた。

 気づけばもうすぐ昼休みが終わる時間。未紗季はようやく重い足取りで会社に戻る。


 一方、慎二は昼休み中食事も取らず、黙々と仕事をこなした。余計なことを考えないように、ひたすら目の前のタスクに集中する。

 昼休みが終わると、転勤のあいさつも兼ねて外回りに出ることになった。結局、未紗季とは顔を合わせないまま会社を出る。

 慎二と入れ違いにデスクに戻ってきた未紗季に、日向が声をかける。

「お前、昼飯食ってねぇだろ?」

「食欲なかった……。」

「そっか。」

 それ以上は何も言えなかった。

 誰も、何も、変えられないまま、時間だけが過ぎていった。

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