海外戦略推進室
そろそろ夏の日差しもまぶしくなってくるころ、久しぶりにゆっくりと、颯也と休日ランチをする時間ができた。
「ちょっと話があるんだけど」
そう言った颯也の表情が、いつになく真剣だった。
「どうしたの?」
未紗季が問いかけると、颯也は少し言いづらそうに視線を落とし、そしてゆっくりと口を開いた。
「実は、佐々木さんから、『海外戦略推進室に来ないか』って誘われてる。」
「え?」
未紗季の困惑した表情に、颯也は少しだけ苦笑いしながら続けた。
「まだ正式な段階じゃないらしいんだけど、佐々木さんから直々に話をもらって。会社からは後々正式に打診があるかもしれない。」
「そっか、すごいね。でも……。」
海外戦略推進室──そこには、慎二がいる。
「未紗季さん?」
気づけば少し黙り込んでしまっていた。颯也がじっとこちらを見つめている。
「それで颯也君、どうするの?」
「正直、迷ってる。」
佐々木圭吾といえば、颯也が新人の頃に指導を受け、尊敬する上司だった。未紗季の元カレとはいえ、今も尊敬する人であることには変わりない。その圭吾が、自らのチームに颯也を迎えようとしている。
「いい話じゃない。」
未紗季は複雑ながらも、そう答えた。颯也にとって、キャリアアップのチャンスだ。彼の努力が認められたからこその、この打診だろう。
「もちろん嬉しいし、行きたいとも思ってる。だけど……。」
颯也の言葉が、そこで止まる。未紗季は颯也が迷う理由を、なんとなく想像できた。
海外戦略推進室には慎二がいる。そして室長の圭吾。二人とも、未紗季の元カレだ。そんな中に、颯也が飛び込むことになるなんて、颯也の心中は察するに余りある。
「僕は……。」
颯也は苦笑しながら、未紗季を見た。
「正直、ぜひ行きたいと思ってる。佐々木さんのもとで働けるのは、僕にとっても大きなチャンスだし。」
「うん……。」
「ただ、さすがに気まずいよね。野口さんもいるし、佐々木さんも……。未紗季さんが、どんな気持ちになるんだろうって。」
未紗季は、颯也の迷う理由が、自身が気まずいのではなく、未紗季のことを思ってのことだと知って、驚いた。
「私のことは置いといて、颯也君が自分自身のために考えて。」
颯也はしばらく黙っていたが、心はもう決まっていたようだ。
「やっぱり、行こうと思う。」
「うん、颯也君自身が決めたことが、一番いい答えだと思うよ。」
未紗季は、颯也の選択を尊重したいと思った。
「行くからには、全力で頑張るよ。僕は僕のキャリアを築くために。」
「うん、応援するよ。」
圭吾は未紗季と颯也が付き合っていることを知らない。だからこそ、純粋に颯也に期待をして声をかけたのだろう。
颯也のこの決断が、その後の『海外戦略推進室』での、またそれを取り巻く人間関係に、どう影響を及ぼすことになるか、まだ誰にも分らない。
そろそろ秋の気配も感じられるようになった、ある日の昼休み。食堂ですでに日向と慎二が座っている席を見つけ、未紗季も駆け付けた。三人がこうして食堂で顔を合わせるのは、随分久しぶりな気がする。
「久しぶりだね、慎二が昼にいるなんて。」
未紗季が席につきながら言うと、慎二は「まぁな。たまには、な。」と軽く肩をすくめる。
日向はさっきから、何やら少し落ち着かない様子だったが、改めて二人に向き直ると、すっと背筋を伸ばした。
「実はさ、俺——綾那と結婚することにした。」
「えっ!?」
突然の報告にびっくりし、未紗季は思わず日向の顔を見つめる。
慎二も意外だったのか、少し目を見開き、「へぇ」という顔をした。
「そう。未紗季が再会のきっかけを作ってくれたおかげだよ。本当にありがとう。」
日向がそう言うと、未紗季は「そんな……」と手を振った。
「あのとき、未紗季が綾那に会ってなかったら、今の俺はなかったかも知れないから。」
「私、背中を押しただけだよ。綾那さんが勇気を出して、日向に連絡したからじゃない?」
「きっかけをくれたのは、間違いなく未紗季だ。」
あまり感情を表に出さない慎二も、小さく微笑んで、祝福の言葉を贈った。
「よかったな。おめでとう。」
「ありがとな!」
日向は頭を掻きながら、照れくさそうに、そして嬉しそうに笑った。
こうして、日向の結婚報告は、和やかな雰囲気の中で終わっていった。
数日後、今度は仕事帰りの居酒屋で、日向、未紗季、颯也の三人が顔をそろえていた。
「お疲れ!とりあえず、乾杯しようぜ。」
日向の掛け声で、三人はグラスを合わせる。
「未紗季にはもう伝えてあるんだが……改めて。来年の春頃、結婚することにした。」
「えっ、そうなんですか?おめでとうございます。」
「ありがとう。」
日向は照れくさそうに笑いながら、ビールを一口飲んだ。
「綾那さん、すごく素敵な人なんだよ。きっと幸せな家庭になると思う。」
「だといいけどな。」
未紗季のセリフに、日向は肩をすくめる。
颯也はビールのグラスを置き、少し表情を引き締めた。
「僕からも、報告いいですか。」
日向と未紗季が視線を向ける。
「まだ内定の段階なんで、周りには言えないんですが……藤原さんは僕の上司なので、先に伝えておきますね。十月から海外戦略推進室に異動します。」
「えぇ、マジか!」
日向はあまりに突然の報告に驚いた。
「海外戦略推進室の佐々木室長には、新人の頃すごくお世話になったんです。その佐々木室長が直々に誘ってくださったんで、行かないわけにはいかないなと。」
「そうだったのか。俺は佐々木さんのことはほとんど知らないけど……若くして役員になったっていう、超エリートだよな。そんな人に見込まれるなんて、お前、すごいな!」
「そんなことないですよ。知り合いのよしみで、呼んでいただいたんだと思います。」
颯也は苦笑する。
「それに、野口さんもいらっしゃいますし、いろいろ勉強させてもらうつもりです。」
未紗季はその言葉を聞き、少し胸につっかえるものがあった。日向もそれには気付いているようだった。
「くそっ、俺のかわいい佐藤を連れていくとは……慎二の野郎!佐藤、なんかあったらすぐ俺に言えよ!」
「ありがとうございます!すぐ言いに行きます!」
やっぱり日向が場を和ませ、明るく締めてくれた。
十月一日の朝、経営企画部の一角にある海外戦略推進室。これまで室長の圭吾と次長の慎二の二名で動いていたこの部署に、今月から新たに三名が着任することになった。
新たに着任したのは、チーフとなるベテランの橋本と、語学留学経験のある三年目の若手・村山、そして主任となる颯也だ。
三人の前に、圭吾、慎二も顔を揃えた。
「改めて、三人ともようこそ。室長の佐々木です。」
「次長の、野口です。よろしくお願いします。」
橋本、村山、颯也もそれぞれ挨拶をした。颯也は改めて身が引き締まる思いだった。
「ここは設立からまだ日が浅く、今日まで俺と野口次長の二人で何とか形を作るべく奔走してきた。みんなも、それぞれの経験を生かして、さらにこの海外戦略推進室を盛り立てていってほしい。」
最後に「期待しているよ。」と付け加えた。
颯也は、この新しい環境でどんな日々が始まるのか、期待とわずかな緊張を胸に抱いていた。
引き続き、会議室で海外戦略推進室での業務の進め方など、オリエンテーションが行われた。業務内容など仕事の進め方は主に慎二から説明された。初めてのことばかりで、颯也はしっかりとメモを取りながら聞いていた。圭吾はもちろんのことだが、その圭吾が最初から見込んで次長に抜擢した慎二も、やはり相当にできる男だと、慎二は改めて感心していた。ただ、それだけではない、なにやら余計な思いも付きまとうのは気のせいではない。それは何かと聞かれても、うまく言葉にはできないのだが。
また、颯也と同時に移ってきた二人も、選りすぐりの優秀な社員だと改めて実感する。自分も負けていられない。まずは仕事に集中すること。それが、今一番大事なことだ。
海外戦略推進室に異動して数週間が経ち、颯也も業務にも少しずつ慣れてきた。佐々木室長のもと、これまでとは違う視点でマーケティング戦略を考える日々は刺激的だったし、自分の成長にもつながっていると感じる。
ただ、一つだけ……。慎二に対して、心を完全に開いていないと実感していた。
慎二がクールでぶっきらぼうなのは、初対面のときから分かっていた。言葉数は少なく、内に秘めた感情も、表から読み取るのも難しい。だが、それは彼の性格であり、特に珍しいことでもない。
実際、仕事ぶりは圧倒的だった。佐々木室長から厚い信頼を得ているのも頷けるし、颯也自身も、慎二の判断の速さや的確な指示には素直に感心していた。尊敬すべき上司であることに疑いはない。
それでも、どう接していいか、いまひとつ掴みきれなかった。
(未紗季さんの元カレだから……なのか?)
仕事中は意識しないようにしているつもりだった。未紗季の過去の恋愛を気にしたって仕方がない。彼女は今、自分と一緒にいることを選んでくれている。けれど、ふとした瞬間、慎二の何気ない仕草や視線に、どうしても心がざわついてしまう。
慎二は、自分に対して特に距離を取るでもなく、新しく異動してきた橋本係長や村山と同じように接してくる。言い換えれば、分け隔てなく公平に扱われているということだ。むしろ、颯也のほうが無意識に壁を作ってしまっているのかもしれない。
(気にしすぎだろ、俺。)
そう思って、軽く頭を振る。仕事に支障をきたすわけにはいかない。ここで評価を上げて、しっかり結果を出すことが最優先だ。私情はできる限り捨て、この仕事で成果を上げること、それが何よりの答えになると信じ、颯也はさらに精進していく。
慎二は、周りからはクールなできる男に見られがちだが、同期の日向や未紗季から見ると、慎二は慎二、何も変わらない。気の置けない大切な仲間に変わりなかった。
昼休みの食堂で、相変わらず顔を合わせる三人。日向が慎二の隣に座ると、開口一番こう言った。
「お前、偉くなっても食堂くるよな? エリートさんって、だいたい外で食ってるイメージだけど。」
慎二はスプーンを持ったまま、いつもの無表情でさらりと答えた。
「エリートさんって言うなよ。俺は俺だ。ここのメシが俺には合ってる。」
「まあ、お前がスーツ着て高級ランチしてる姿、あんま想像つかねえけどな。」
「それは余計だろ。」
未紗季も思わず笑ってしまった。
「慎二はこういうところ、変わらないね。」
「変わる必要もないだろ。」
そう、変わる必要なんてない。日向と未紗季が気楽に慎二にツッコミを入れ、慎二も時折短い言葉で返す。そんなやりとりが、今も変わらず続いている。そしてきっとこれからも……。
少し離れた席でその光景を見ていた颯也は、仕事中には見せない慎二の穏やかな表情に、また少し心を揺らしていた。気にするな、と自分に言い聞かせても、どこかで引っかかる。ぬぐえないモヤモヤを抱えたまま、颯也は静かに席を立った。
颯也は、未紗季といるときには、このモヤモヤした気持ちをなるべく見せないよう、気づかれないよう努めた。
二人並んで歩く、休日の夕方。少しずつ、日が長くなってきた。まだ冷たい風の中に、どこか春の匂いが混じっている気がする。
――また、新しい春がやってくる。颯也は隣にいる未紗季の笑顔を見つめていた。




