友の出産
五月末日。今日は朱音の産休前、最後の出勤日。仕事を終え、未紗季と二人で経営企画部のフロアへ向かった。
二人がプロモーション企画部ブランド戦略課時代にお世話になった川上課長は、今年から経営企画部ブランドマネジメント室の室長になっていた。
「室長、少しお時間よろしいですか?」
久しぶりに会う川上は、さらにキャリアに磨きがかかったように見える。以前と変わらないキリっとした雰囲気ながらも、柔らかい表情で二人を迎えてくれた。
「二人とも久しぶりね。」
川上課長は朱音のお腹に視線を向けた。
「ふふ、そうか……朱音もついに産休に入るのね。」
「はい。明日からしばらくお休みをいただきます。」
「まさか、あのおっちょこちょいだった朱音が母親になるなんてね。」
「わたしこれでも、しっかりしたね、って言われてるんですよ。」
思わずぷくっと頬を膨らませる朱音に、隣で見ていた未紗季がクスッと笑う。
「ほら、そういうところ、変わってないじゃない。」
川上の一言に、ますます朱音の頬は膨らんでいく。
「でも本当に、あの頃からすると、ずいぶん落ち着いたわよ。あくまでも『あの頃からすると』だけど。」
いかにも川上らしい言葉のかけ方だ。
「正直まだ、実感わかないんですが、しっかりしないと、ってやっぱり思います。」
「うん、いいことね。」
「ところで、室長は出産後、復帰するときに不安じゃありませんでしたか。」
「そりゃあね。二度の育休を経て復帰したときは、世界が変わったように感じたわ。自分の努力ももちろん大事だけど、一人で頑張りすぎるのもよくない。周りには助けてくれる人がいるから。そうやって周りに助けられながら、自分はやっていけてるんだ、って自覚しながらやっていくことは大事ね。」
朱音の目がじんわり潤んでくる。
「味方はちゃんといるから。私もその一人よ。」
「はい、ありがとうございます!」
川上の声掛けに、朱音がこらえきれずに泣き出した。
「お母さんになるんだから、しっかりしなさい!」
川上は呆れたように笑いながら、軽く朱音の肩を叩いた。
「仕事のことなら、取り戻せる。でもね、子どもの成長は待ってくれないわよ。だから、焦らずに、今しかできないことを大切にしなさい。」
「はい。」
朱音の表情が引き締まり、深くうなずいた。
「そういえば、下のお子さんはそろそろ……?」
「そうなの、小学生。入学式のときの写真、見る?」
川上室長がスマホの画面を見せる。満開の桜の下、ツインテールに赤いリボン、紺色のワンピースを着た女の子と、いつものスーツ姿とは違うフォーマルなスーツに身を包み、少し優しい表情をたたえた川上の姿があった。
「わあ……室長、すごく素敵です!私もこんなふうに、なれるのかな……。」
朱音は写真を眺めながら、小さくつぶやく。
「なれるわよ。あなたなら大丈夫。」
「がんばります!」
それから川上は、未紗季にも声をかけた。
「未紗季も、がんばってるわね。」
「まだまだです。」
「仕事ぶり、ちゃんと伝わってるわよ。陰ながら応援してるから。」
「ありがとうございます。」
未紗季は驚きつつも、満面の笑顔で、深くお辞儀をした。
挨拶を済ませ、経営企画部を出ようとした未紗季は、ブランドマネジメント室の隣にある、海外戦略推進室の一角に目を向けた。
(ここが、海外戦略推進室……。)
初めて意識して見る。室長席と次長席の二席しかない。圭吾と慎二のものなのだろう。
(二人しかいないんだ……。)
オフィスの中を見回しても、二人の姿はなかった。きっと打ち合わせか何かだろう。顔を合わせずに済んだと、ほんの少しだけホッとした。未紗季は小さく息を吐くと、そのまま経営企画部を出た。
「元気な赤ちゃん生んで、元気にまた戻ってきてね。」
未紗季が朱音に声をかける。
「うん、里帰り出産になるけど、生まれたら写真送るね。」
そう言って、朱音は会社を後にした。
朱音が産休に入ってから一ヶ月ほど経ったある日の昼休み。未紗季は珍しく、ブランド戦略課時代の同僚や広報部の女子たちと食事をしていた。
『生まれたよー!』
昨日、みんなの元には、朱音からの出産報告が届いていた。添付された写真には、ふわふわのタオルに包まれた小さな赤ちゃんと、にっこり微笑む朱音の姿が映っていた。
「かわいいね~。」
「朱音、すっかりお母さんの顔じゃん。」
写真を見ながらみんなで喜びを共有していた。
「母子ともに元気みたいだね。よかった。」
「うん、ほんとに。朱音がママかぁ……やっぱり何か不思議な感じ。」
微笑ましく写真を眺めながら、未紗季も母子ともに健康であることの安ど感と、それから何とも言えない不思議な感覚に包まれていた。
その日の帰り道、デパートに寄り、ベビー服のコーナーで小さな服を手に取る未紗季。
「わぁ、小さい……。どれが似合うかな?」
一つひとつじっくり見ながら、朱音に贈る出産祝いを選んだ。
朱音の産休後も、未紗季の仕事は忙しく、だけど充実していた。毎日があっという間に過ぎていく。
ある日、颯也とオフィスですれ違ったとき、彼がふと耳元でささやいた。
「未紗季さん、最近楽しそうだね」
「え?」
「仕事、充実してるんじゃない?」
「うん。確かにね。今の仕事、忙しいけどすごくやりがいがあるよ。」
「未紗季さんが楽しそうだと、僕もうれしい。」
颯也は優しく微笑み、去っていった。
周囲には伏せて付き合っているので、時々こんな風に、小声で会話を交わせることが嬉しかった。些細なことなんだけれど……。
颯也とすれ違った後、廊下を曲がると、廊下の向こう端に慎二の姿が見えた。食堂での雰囲気とは違い、やはり次長というオーラをまとい他の社員と話している姿は、今の物理的な距離と同様に、とても遠いものに感じた。
慎二に声をかけることもなくデスクに戻り、未紗季は再び仕事に集中した。




