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いま語られる……あの時のこと(2)

「アメリカにいたんだよ……。」

 未紗季は目を見開いた。

「東京へ行ったのは、アメリカ勤務が前提だった。最初からそのつもりで動いてたんだ。東京の本社でしばらく研修を受けて、半年ほどでアメリカへ行く、と。東京での荷物の整理も、必要な手続きも、実家の親に頼んで、俺は一度も大阪には戻らずに、東京から直接アメリカへ行った。」

「だから、本社にも支店にも、どこを探しても名前がなかったのかな。」

 慎二はゆっくりと頷いた。

「アメリカの拠点は、まだ社員一覧が完全に反映されていなかったのかもしれないな。」

 未紗季は複雑な気持ちで目の前の慎二を見つめた。

「それで、アメリカではどんな仕事を?」

「向こうでは、新しい支社を立ち上げるプロジェクトの一員として動いてた。最初は手探りの連続だったけど、やりがいはあったよ。」

 慎二は少し微笑むような、遠い目をした。

「しばらくして佐々木さんが、大阪からアメリカへやって来た。」

「圭吾さんが?」

 未紗季の口から思わず出た言葉に、慎二の視線がわずかに揺れる。

「圭吾さん?」

 反応した慎二に、未紗季は何も返さなかった。

 慎二は気になりながらも、そのまま話を続けた。

「佐々木さんは、本当に仕事熱心で、指導も厳しいけど……尊敬できる上司だったよ。アメリカに来たときは『現地プロジェクト統括責任者』として、日本と現地の橋渡し役を担ってたんだ。俺もアメリカでの仕事に夢中になって、充実した毎日を送ってた。」

 慎二は、一度言葉を区切る。

「アメリカでの勤務も、いつの間にか四年が経っていて、そろそろ日本に戻るかって話が出た頃、佐々木さんに、結婚話が持ち上がったんだ。」

 未紗季は思わず息を呑んだ。

(あの、取締役の娘さんとの結婚のことだ……)

 慎二は、静かに目を伏せながら続けた——。


 ***


 アメリカでの勤務が四年目に入った頃だった。

「なあ、聞いたか? 日本の吉田取締役がこっちに来るらしいぞ」

 職場の何気ない会話の中で、その名前を耳にした。

 吉田取締役——大阪支店から本社へと昇進し、経営陣の一角を担う人物だ。もともと大阪に自宅があり、大阪と東京の二拠点生活をしているという話は、慎二も聞いたことがあった。

「娘さんがこっちの大学に留学してるらしい。それで会いに来るついでに視察するんだろうって。」

 アメリカでの視察の際、吉田取締役は圭吾の働きぶりに強く関心を示した。

「佐々木くん、君のことは以前から聞いていたよ。名古屋、大阪、そしてアメリカでも実績を上げているそうだな。」

本社にはすでに、圭吾の評判が届いていたようだ。名古屋支店や大阪支店での功績、そしてアメリカ新拠点での活躍。それらが積み重なり、本社の経営陣の間でも彼の名が挙がるほどになっていた。

「実際に会ってみて、なるほどと思った。君のような人材は、どこに行っても必要とされるだろうな。」

 圭吾はいつものように冷静に受け答えしていたが、まさかこの後、意外な話が持ちかけられるとは思ってもいなかっただろう。

「ところで、君は結婚の予定は?約束している人とか入るのか?」

「え?」

 突然の問いに、圭吾は眉をひそめた。

「実はな、私の娘がこちらに留学していてね。そろそろ卒業の時期なんだが。もしよければ、一度会ってみないか?」

 まさかのお見合い話だった。吉田取締役からの話を、簡単に断ることはできない。

「一度話をするだけでも構わないだろう?」

 押しの強い言葉に、圭吾はしばし沈黙した後、「では、一度だけ」と応じることになった。


 ***


 慎二は、前を向いたまま話を続けた。

「最初はただの顔合わせのつもりだったんだけど。でも、娘さんが佐々木さんをすごく気に入ったみたいで、すぐに『また会いたい』って言ってきた。吉田取締役もすっかりその気になって、話がどんどん進んでいった。」

 留学が終わり次第、日本に帰国し、結婚。それが、驚くほどスムーズに決まっていった。

「もちろん、佐々木さんもすぐにOKしたわけじゃなかった。でも……相手が取締役であることとか、会社のこととか、色々考えて……最終的に受け入れたんだろうな。」

 未紗季は、その話を聞きながら、静かに息を呑んでいた。

「問題は、佐々木さんだけの話じゃなくなったんだ。」

「どういうこと?」

「俺がそろそろ日本に戻る話になってた、って言っただろう?それが佐々木さんの帰国時期と被ることになってしまった。そうなると、一度に二人も抜けるのは難しいってことになって……。」

「それで……?」

「結婚が決まってる佐々木さんのほうが優先された。だから、俺の帰国は半年ほど遅れることになったんだ。」

「半年……遅れた?」

 未紗季は、その言葉に思わず反応した。

 慎二は、未紗季の顔を覗き見たが、話を続けた。

「結局、俺が帰国したのは去年の五月。未紗季の家の前で待ってた、あの時だよ。」

「あの時が……?」

「帰国して東京には寄らず、そのまま実家に帰ることにした。アメリカに行ったときは実家に寄らず直接渡米したから、五年前に東京に行ってから、初めて大阪に帰ったことになる。それで、実家に帰る前に、未紗季の家に寄ったんだ。」

 未紗季の瞳が、大きく揺れる。

「ちょっ、ちょっと待って……」

 頭の中で、一つの疑問が確実な形になっていく。

「あの日が、半年遅れの帰国ってこと……?」

 慎二は、未紗季の驚いた表情を見つめながら、不思議そうに答えた。

「ああ。そうだけど……?」

 慎二には、未紗季がなぜそこまで驚くのか、よく呑み込めなかった。

「ということは……。」

 未紗季は、息をのみながら慎重に話す。

「本来なら、その半年前には、帰国していたってこと?」

「そうだな。」

 慎二は静かにうなずく。

「もし帰国が予定通りだったとしても、私に会いに来てくれてた?」

「もちろん、行ったよ。何を置いてもな」

 間髪入れずに返された言葉に、未紗季の胸が強く揺さぶられる。

「半年前って……そんな……。」

 半年前といえば、まだ颯也と再会する前のこと。

 確かに、慎二にもう未練はないと思っていた。颯也と出会って、心から大切にしたいと思える人に巡り合えた。そう信じていた。

(今も、颯也くんのことが大好きだし、大切な人なのは間違いない。)

 気持ちが核心へと踏み込む。

(でも……半年早く帰ってきていたら?)

 あの夜、マンションの前で慎二と再会し、何も言えないまま別れた。悲しくて、苦しくて、どうしようもなかった。

 もし、半年早く帰国していたら……。

(家の前で待ってくれていた慎二をそのまま追い帰してしまうような、あんな悲しい別れ方をしなくて済んだかもしれない。)

 もし半年早ければ……。


 未紗季は、喉の奥がひりつくような感覚を覚えながらも、動揺を押し殺し、努めて平静を装う。

「私ね、佐々木さん……圭吾さんがアメリカに行く前、付き合ってたんだ。」

「……?!」

 一瞬の沈黙。

(それでさっきも、「圭吾さん」って言いかけてたのか。)

 納得したような表情を浮かべた慎二には、何か思い当たる節があるようだった。

「そういえば、帰国直前に、佐々木さんが話してくれたことがある。」

 静かにそう切り出す。

「それが、未紗季のことだとは夢にも思ってなかったけど……。」


 ***


 アメリカでの最後の夜、バーのカウンターで、圭吾はぽつりと呟いた。

「実は、日本にいたときに、付き合ってた彼女がいたんだ。」

 圭吾の眼は、どこか遠くを見ているようだった。

「アメリカに来るときに、『俺のことは、待っていなくていい』と告げた。でも、きっと彼女は待ってくれているだろう。」

 慎二は、そんな人がいるのに、取締役の結婚話を受けてしまったのか、と驚いた。

「それなのに、僕は結婚を決めて、裏切るような真似をしてしまった。」

 圭吾の手が、わずかに震えた。

「もう決めたことだから、言っても仕方ないんだが……。」


 ***


 あの時の、どこか割り切れないような圭吾の表情。

 慎二は静かに未紗季の顔を見つめ、確信を持って言った。

「あれが……未紗季のことだったんだな。」

「私のこと、そんな風に言ってたんだね。」

 未紗季は待つとは言わなかった。それどころか、別れようと告げたはずだった。

「私は裏切られたなんて、思ってないけど……。」

 さらりとそう言って、少しだけ笑う。

「結局、私も颯也君と付き合うことになるから、お互い様だね。」

 慎二は何も言わず、未紗季の言葉を聞いていた。

(圭吾さんが帰国してすぐに、結婚に揺れているようなことを言っていたのは、私を裏切ってしまったと思ってくれていたからなんだ……)

 もちろん、未紗季の中で圭吾のことはすでに過去になっている。もう、何とも思っていない。問題は、颯也とのこと……。

 慎二がふっと息をついて、話題を変える。

「アメリカでの俺のことを、佐々木さんが評価してくれていて、それで今回の『海外戦略推進室』の立ち上げで、俺を次長として呼んでくれたんだ。」

(そうか、そういうこと……)

 未紗季は納得したように小さく頷いた。

 圭吾の話を挟んでしまったが、改めて、未紗季はもう一つの本題に戻る。

「私が颯也君と付き合い始めたのって、慎二の帰国の一ヶ月前なんだよ。」

 慎二の表情が、瞬時に固まる。

 一ヶ月前……。

 その言葉の意味するところを、慎二は一瞬で理解した。

 もし、帰国が半年遅れなかったら……。

 けれど、そんな仮定を今さら口に出すことはできるはずもなく、ただ静かな時間だけが流れていった。

 長い沈黙を破ったのは、未紗季だった。ふっと微笑んで、小さく息をつく。

「ねぇ、慎二、最後のメッセージ、覚えてる?」

 慎二は、少し驚いたように未紗季を見る。


 ——ごめん、帰ったらゆっくり話そう——


 そう、五年前、新幹線のホームから慎二が未紗季に向けて送った、最後のメッセージ。。

 未紗季はそっと視線を落としながら、静かに続ける。

「去年、家の前では結局ゆっくり話せなかったけど。」

 言葉を選びながら、一つひとつ噛みしめるように口にした。

「今日、ちゃんと、全部話してくれたね。ありがとう……。」

 慎二は、何か言いたげに未紗季を見つめていた。でも、未紗季はそれ以上は望まなかった。

「これからも、いい同期の仲間でいてね。」

 未紗季がそう言うと、慎二はほんの少しだけ、寂しそうに微笑んで……そして、静かに頷いた。


 慎二との再会から数ヶ月。

 一度は完全に、関係が途切れてしまったと思っていたが、今は同期として、自然に言葉を交わせる関係に戻っている。もちろん、過去のことを思い出して胸がざわつくことがないわけではない。けれど、それを表に出すことはないし、慎二もまた、何事もなかったかのように接してくれる。

 颯也とは穏やかな日々を重ねている。お互い忙しいながらも、仕事終わりに食事をしたり、休日を一緒に過ごしたり。特別なことはなくても、そんな時間がただ愛おしい。

 そして、仕事も順調だった。新しい環境にもすっかり慣れ、毎日が慌ただしく過ぎていく。

 気がつけば季節は巡り、また春が訪れる。

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