僕は信じてるから
大阪支店、経営企画部のフロア。その一角に設けられた「海外戦略推進室」は、まだデスクが二台並ぶだけの小さなスペースだったが、ここから新たな戦略が生まれるのだと、社員たちの期待が静かに高まっていた。
「ついに来るらしいよ、本社のグローバル戦略推進部にいた人。」
「もともと大阪支店から東京に行った人らしいけど。」
そんな話が交わされる中、営業企画部のドアが開いた。
扉の向こうから姿を現したのは、野口慎二だった。そしてその横には、どこか誇らしげな表情の圭吾があった。圭吾の左手薬指には、結婚指輪が輝いている。
まずは室長の圭吾から、慎二の紹介があった。
「今回、海外戦略推進室次長、私の右腕として来てもらった、野口慎二君だ。東京本社のグローバル戦略推進部で、すでに海外戦略の業務に携わっていた男だ。この部署もできたばかりで、当面は二人だけでのスタートになるが、営業企画部のみんなに助けてもらいながら、進めていくことになると思う。改めて、よろしく頼む。」
続いて、慎二が挨拶をする。
「野口慎二です。本日より海外戦略推進室の次長として着任しました。大阪支店に戻るのは久しぶりですが、僕のことを覚えていてくれている人もいるかもしれませんね。これから皆さんと協力しながら、新しい挑戦をしていければと思っています。よろしくお願いします。」
静かだったフロアに、さっと活気が満ちていくようだった。
「さて、野口の席はここだ。立ち上げたばかりの部署だから、今は俺とお前二人だけだけど、俺もできる限りサポートする。お前が動けば、この部署は必ず大きくなる。」
「ありがとうございます。」
慎二は与えられたデスクに向かい、椅子を引いた。
(戻ってきたか……。)
窓の向こうに広がる大阪の街を見つめながら、そっと息を吐く。ここからまた、新しい日々が始まる。胸を高鳴らせながらも、慎二もやはり、心に何か重いものを抱えているようだった。
「ねえねえ、未紗季!」
どこかに行っていたのか、広報部のオフィスに戻るなり、そのまま朱音が勢いよく駆け寄ってきた。
「なに?」
「さっき、経営企画部の同期から聞いたんだけど、佐々木さんが新しく立ち上げた海外戦略推進室の次長に、東京本社からなんかすごい人が異動してきた、って。」
(とうとう、来た……。)
未紗季の動揺に気づくはずもなく、朱音は興奮気味に続ける。
「しかも、めっちゃカッコいいらしいよ!いかにも東京のエリートって感じで、すごい仕事できそうな雰囲気だったって!」
「相変わらずだね、あんた新婚でしょ。」
「結婚したからってイケメンにテンション上がるのは、関係ないでしょ。」
未紗季は苦笑しながら肩をすくめる。
「あ、それから……なんでも、もともと大阪支店にいた人らしいんだけど、未紗季知ってる?」
「それならたぶん、私と日向の同期だよ。」
未紗季は、心の中で激しく動揺しながらも、できる限りの平静を装い、淡々と答えた。
「えー?!そうなの?」
「おーい、山下君!(朱音の結婚後の姓)さっきの資料どうなった?」
向こうのコンテンツ企画課から声が飛んできた。
「あ、相澤課長様がお呼びだわ。もどるね。また聞かせてね、同期のイケメンさんのこと。」
朱音が嵐のように去っていった。
いよいよ慎二が、戻ってきた。もう過去のことだと整理をつけたはずなのに、彼が同じ場所にいると思うだけで、未紗季は平常心を保ってなどいられなくなる。そんな動揺を周りに気づかれないように、静かに一息吐いてから、スマホを取り出し、日向にメッセージを送る。
『いよいよ慎二来たらしい。今日ランチ一緒にできる?』
昼休み、食堂の片隅。未紗季は慎重な面持ちで、日向と向かい合って座っていた。
「で、実際に慎二が来たらしいんだけど。」
「らしい、ってことは、まだ直接見てないんだな?」
「うん。でも、朱音が妙に詳しくて、いろんな部署に言いふらしてるみたい。」
「そうでなくったって、東京本社帰りの次長なんて、話題になるに決まってるさ。」
日向はそう言いながら、食堂を見渡した。
「慎二は……いなさそうだな。そういえば佐々木部長代理って、ほとんど社食では見かけないよな。慎二も一緒に外へ食べに行ったのかな。」
日向は納得したようにうなずくと、未紗季の表情をじっと見つめた。
「で、お前はどうするつもりなんだ?」
未紗季は少し迷ったあと、静かに口を開いた。
「いきなりどう、ってことはないけど。でも、颯也君にはちゃんと言おうと思う。」
「慎二と付き合ってたことを?」
「うん。他の人から聞かれるより、自分の言葉で伝えたほうがいいと思うから。」
日向は少し考えてから答えた。
「ま、そうだな。颯也は未紗季のこと真剣に思ってるし。未紗季にやましい思いがないなら、変に隠すよりは正直に言うのがいいnじゃないか。」
未紗季は少しホッとしたようにうなずいた。
そんな二人の様子を、颯也が少し離れた席から見ていた。
未紗季と颯也が付き合っていることは、周りには伏せているので、普段、食堂でともに食べる、ということはほとんどない。
未紗季と日向が一緒に食べるという光景は、日向のサテライトオフィス勤務時代からあったことなので、日向が支店勤務となった今、未紗季と日向が二人で食事をすることは、なおさら自然な光景になっている。
でも、なぜだろう……今日の二人は、颯也の目にもいつもと違って映った。何かを相談しているようだったが、遠くて内容まではわからない……。少し気になりながらも、颯也は二人に声をかけることもなく、食堂を後にした。
その日の夜、仕事帰りに一緒に夕飯を食べていた未紗季と颯也。
「今日のお昼、藤原さんと何話してたの?」
颯也が明るい調子で聞いてきて、未紗季は思わずドキッとした。
「今日朱音から聞いたんだけど、圭吾さんの立ち上げた『海外戦略推進室』あるでしょ。そこに東京帰りのエリートが来たらしいって。エリートイケメン好きの朱音の鼻が、早速嗅ぎつけてたのよ。」
「瀬戸さん……あ、今はもう山下さんか。彼女らしいね。」
颯也はふっと笑った。
「それでね、その東京帰りのエリートって言うのが、私と日向の同期なのよ。」
「え? そうなんだ。」
予想もしていなかったようで、颯也はかなり驚いた様子だった。
「それで日向とね、食堂には顔出さないね……って話してたのよ。」
「それで、結局会ったの?」
未紗季は首を横に振りながら答えた。
「まだ会えてないの。着任したばかりで忙しいんじゃないかな。『海外戦略推進室』なんて、私たちと直接関係のない部署だしね。」
「そっか……で、どんな人なの?」
颯也にそう聞かれ、未紗季は少し言葉に詰まった。
(今、話すべきだよね……)
未紗季はそう決心し、一つ息を吸い込んでから、告白する。
「実はね、私とその同期……野口慎二っていうんだけど、入社してすぐ、少しの間だけど付き合ってたことがあるの。」
颯也はそれを聞いて、自分でも驚くほど動揺はしなかった。昼間、食堂で感じていた違和感の正体が、すっきりした気がしたから。
「そうなんだ。」
「ほんと、ちょっとの間だったのよ。結局別れて、普通に同期に戻ったっていう、それだけだから。」
自分でもものすごい言い訳口調になっていると、未紗季も気づいていた。
「今は、何とも思ってない?」
「もちろん!ほんとうに、今はただの同期、だから。」
その言葉は、未紗季が自分自身に強く言い聞かせているようでもある。
「ほんとうはね、話そうかどうか迷ってたの。颯也君がどんな風に思うかな、って思って。」
颯也は黙って未紗季の話を聞いている。
「その相談もしてたんだ、日向に。そしたらね、やましいことがないなら、話したらいいんじゃないか、って。それに、私たちが付き合ってたことを知っている人も何人かいるだろうし、誰か別の人からそんな話を聞かされるより、私自身の口から颯也君に話しておきたかったから……。」
颯也は、少し考えていたようだったが、すぐに明るい表情に戻った。
「うん、分かった。正直に話してくれて、ありがとう。僕は未紗季さんを信じてるから。」
颯也に礼を言われて、未紗季の胸がチクリと痛んだ。
帰りの電車の中から、日向にメッセージを送る。
『さっき、颯也君に話したよ。慎二のこと。ちょっとの間だけ付き合って、別れてから、ただの同期に戻ったから、って言ったから、話合わせてね』
しばらくして日向から返信が来た。
『OK、了解!』
――ちょっとの間だけ付き合って、別れてから、ただの同期に戻った
(嘘じゃないよね。これから“ただの同期”に戻ればいいんだから……)




