帰って……くる?
そして日々は過ぎ、また新しい年度がやってきた。
未紗季が入社して九回目の春。未紗季は広報部ブランドマーケティング課の主任になった。
今年度の大きな動きとしては、日向がついにサテライトオフィスから大阪支店へ戻り、関西エリアマーケティング部 企画戦略課の課長代理に就任。颯也の直属の上司となった。
この異動については、数日前に日向から事前通知を知らされ、それを聞いた颯也が喜んでいた。
未紗季は朝のデスクで、パソコンをのぞき込み、今年度の人事を確認していた。
異動情報をスクロールしながら、ある名前が目に留まった。
──「海外戦略推進室 室長 佐々木 圭吾(経営企画部 部長代理 兼務)」
経営企画部 部長代理に就任していた圭吾が、この春から新たに「海外戦略推進室」を立ち上げ、その室長に就任した。海外拠点との連携を強化するために、大阪支店に新設された戦略部署だ。
昨年秋、圭吾が取締役の娘さんと正式に結婚したという話を聞いた。そして、それを機に今年の春、正式に役員に就任したようだ。異例のスピード出世と言えるだろう。
彼はこれまでも経営企画部の中心人物だったが、今ではすっかり経営陣の一員になっている。
新設の「海外戦略推進室」も、圭吾が会社のグローバル展開を見据えて、経営陣とともに動いた結果なのだろう。
(新設の部署なのかな?部長代理と兼務ってすごいな。どんどん遠い人になっていくね……)
でもそのことで、特に未紗季の心が揺れる、ということはなかった。
未紗季は異動リストをさらに見ていく。
室長である圭吾の下に、新たに「海外戦略推進室」に着任したメンバーの名前が書かれていた。
「えっ……?」
一瞬、目を疑った。
──「海外戦略推進室 次長 野口 慎二(東京本社 グローバル戦略推進部より異動)」
「なんで……?」
思わず、声に出しかけたが、咄嗟に飲み込んだ。
(……慎二が、大阪に……戻ってくる……?)
頭が真っ白になる。
一年前、慎二と再会したとき。あのとき未紗季は、これで本当に、終わったんだ、もう振り返らない、もう、この過去に縛られることはない、そう思った。
そう決めたからこそ、颯也と共に、穏やかで幸せな日々を築いていたのに。
目の前にいないから、過去にできた。遠く離れた場所にいるから、もう関係ないと思えた。
でも、またここに戻ってくるというのなら? また、同じ空間で働くことになるのなら?
日常の中に、あの人の姿が入り込んでくる……。
(どうしよう……)
マウスを持つ手がかすかに震えるのを感じた。
今は、ただの過去のこと。そう思おうとしていた。だけど、胸の奥でざわめく感情は、簡単に消えてはくれなかった。
昼休み、未紗季は食堂で日向の姿を見つけた。急いで駆け寄り、向かいに座る。
「ねえ、颯也くんは?」
食堂の片隅の席で、未紗季は小声で尋ねた。
「午前中から外回りだよ。昼には戻らないし、このまま直帰になると思う。」
「そっか……。」
未紗季は少しホッとしたような、けれどどこか落ち着かないような表情を浮かべた。
颯也の前で慎二の話はできない。
「異動一覧、見たか。」
「うん。その話をしようと思って。」
「そっか。なあ、未紗季。今日は久しぶりに帰りに飯でも行くか?」
日向がすべてを察したように、自然な口調でそう提案する。
「うん、行きたい。」
今この不安を、日向に、日向だからこそ、聞いてほしかった。
「なんか久しぶりだな、未紗季とこうして飯来たの。」
未紗季と颯也が付き合うようになってから、日向とは食堂では話すものの、帰りに二人で……ということはなくなっていた。
「颯也君と三人はあったけどね。二人でっていうのはほんと久しぶりだよね。」
未紗季の表情はどこか晴れない。
「ねえ、日向。慎二が……戻ってくる。」
「そうだな。」
「分かってるの。もう過去のことだし、私は颯也君とちゃんと向き合ってる。でも、実際にまた同じ会社で顔を合わせることになるって思ったら、なんか……。」
未紗季はそのまま固まった。
「無理もないさ。慎二とは、あんな形で終わったんだからな。」
「終わった、うん、終わったんだよね、一年前の再会で完全に。終わったはずなんだけど。」
日向は、少し考えてから話し出した。
「今はまだ何を考えても仕方ないんじゃないか。実際に慎二が大阪支店に出社してみるまで、どうなるのかはわからないんだから。」
「そう、だよね。」
「未紗季が無理しないのが一番だよ。俺にできることがあれば言えよ。」
日向の言葉に、未紗季は少しだけ肩の力を抜くことができた。
「ありがとう、日向。」
数日後には、慎二も大阪支店に出社し、顔を合わせる機会も出てくるだろう。かつて未紗季と慎二が付き合っていたことを知る人もいるはずだ。となれば、いずれ颯也の耳にも入る。
(その前に、私から言うべきだよね。)
未紗季は、スマホを手に取り、日向にメッセージを送る。
『私、正直に、以前慎二とは付き合ってたって颯也君に言おうと思う』
送信ボタンを押したあと、またスマホを見つめる。どんなふうに言うべきか。どこまで話すべきか。正直、まだ答えは出ていない。ただ、これだけはわかっていた。慎二が大阪支店に戻ってくる以上、このまま黙っているのはよくない。颯也のためにも、そして自分自身のためにも——。
『未紗季が一番いいと思う方法で、伝えればいいんじゃないか』
一言、そう返信が返ってきた。
(私が一番いいと思う方法、か……)
どんな方法が一番いいのかは、正直まだ分からないけど、颯也には、ちゃんと伝えたい、そう思っていた。少しでも自分の気持ちを楽にするためにも……。
それでも、慎二と再び日常の中で顔を合わせる未来を思うと、心の奥のざわめきは消えることはなかった。




