もう気持ちにふたはしません
颯也が外回りを終えて会社に戻ってきたのは、定時を一時間ほど過ぎたころ。疲労と共に心も沈んでいる。
(佐々木さんが戻ってきた……もう、僕の入り込む余地なんてない。)
そう思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。食堂でのあの一件が頭から離れない。自分は浮かれていただけだったのか。未紗季は今、圭吾に対してどんな思いを持っているのか。そして、自分に対しても……。そんな考えがぐるぐると巡っていた。
エレベーターの扉が開いた瞬間、そこに立っていたのは——。
「よかった、ちゃんと会えたね。」
明るい声が、まっすぐに届いた。驚いて顔を上げると、未紗季がそこにいた。相変わらずの穏やかな笑顔で、自分を見ている。
「え……?」
「だって、時間が合えば一緒に帰ろうって、約束してたよね?」
(あの約束、まだ生きてるのか?)
さっきまでどこか遠くに行ってしまった気がしていた未紗季が、変わらない距離感でそこにいる。
「すぐに帰れますか? ここで待っていてもいいですか?」
未紗季の言葉が、張り詰めていた胸の奥に、ふっと小さな風を送り込んだ気がした。でも、それだけで完全に晴れるほど単純ではないのだが……。
「あ、ああ……ちょっと日報だけ書いてくるんで、少し時間がかかるかもしれないけど……。それでもよかったら、待っていてください。」
「わかりました。」
微笑んだ未紗季をホールに残し、エレベーターの扉が閉まった。不安はまだそこにある。圭吾の帰国が、自分にとって何を意味するのか、まだわからない。でも、未紗季のこの笑顔が幻でないのなら……。
エレベーターが目的階に到着する。ほんの少しだけ、肩の力を抜いて、颯也は自分のデスクへ向かった。
三十分ほど経って、颯也が慌てた様子で戻ってきた。
「すみません、お待たせしました!」
「うん。」
未紗季が微笑み、二人は並んで歩き始める。
颯也の頭の中には、ずっと気になっていることがあった。あのあと、食堂で未紗季と圭吾は何を話したんだろう。何か大事な話だったのかもしれない。でも、それを聞くのが怖かった。知りたいけど、聞けない。ただ、未紗季が、変わらない笑顔で自分に話しかけてくれることが、せめてもの救いだった。
心ここにあらずな自分に、未紗季の言葉がやけに温かく響く。ぎこちなく返事をしながらも、彼女の表情をちらりと見る。未紗季はいつも通りだった。変わらない笑顔で、自分に話しかけてくれている。
しばらくして、店に到着し、当たり障りのない話をしながら食事を終えた。
店を出て、並んで歩き出す。都会の真ん中、川に沿って造られた遊歩道。何気ない会話を交わしながら歩いていたが、ふと訪れた沈黙。互いに何かを言おうとして言葉を飲み込むような、そんな間だった。
その沈黙を破るように、颯也が不意に口を開いた。
「よかったんですか、僕と一緒で。他に約束とか……。」
「大丈夫、おそらく颯也君の考えていることなら、もうその用事は終わってるから。」
颯也は未紗季の言う意味がよく分からなかったが、意を決し話を続けた。
「新人研修で、一番最初に高宮さんに担当してもらって、素敵な先輩だなって思ってました。」
「そんなふうに思ってくれてたの?」
「マーケティング推進課に配属されて、また高宮さんの近くに戻れたと思って、うれしかったんです。」
未紗季は黙って聞いていた。
「そしたら、佐々木さんから『自分の彼女だ』って聞かされて。」
「……。」
「尊敬する佐々木さんの彼女なら、そんなこと考えちゃいけないな、って……自分の思いを閉じ込めました。」
颯也は苦笑するように、少しだけ視線を落とした。
「だから、あの時は、あきらめきれたんです。」
颯也は続けた。
「でも今……。」
再び、しっかりと未紗季の目を見て、まっすぐな声で言う。
「僕は自分の気持ちに、もう蓋はしません。」
未紗季もまっすぐに颯也を見返す。胸の奥で、心臓が高鳴った。
街灯の光が、夜の空気に揺らめいている。颯也は、一歩踏み出すように、未紗季の目を見た。
「高宮さんが今、誰を想っているのか、僕にはまだわかりません。でも、少しでも僕といる時間を楽しいと思ってくれるなら……。」
颯也の言葉を聞き、未紗季の胸がいっぱいになった。彼のまっすぐな想い。真剣な眼差し。それは、自分の心を震わせるには十分すぎるほどだった。
「私ね……。」
未紗季は少し息を整えるようにして、静かに口を開いた。
「圭吾さんとは、二年前に別れてたんだよ。」
「二年前?」
驚く颯也に未紗季は頷き、ゆっくりと続ける。
アメリカに行く前に、圭吾から『ついて来てとはいえない、そんな自分を待っていてくれとは言えない』と言われたこと。それに対して未紗季が『戻ったとき、二人ともパートナーがいなくて、まだお互いのことが一番好きだったら、その時また始めましょう』と言って、そして二人は別れたということ。食堂であの後圭吾から『五階の経営企画部 部長代理室』に来てほしいと言われたこと。取締役の娘さんとの結婚が決まったと教えられたこと。そして結婚のために帰国した、と。
ここまでを颯也に話した。でも「圭吾が未紗季の顔を見て、結婚を迷っていると言ったこと」は話さなかった。
「だから、もう私たちがよりを戻すことはないの。だって、もう圭吾さんには新しいパートナーがいるんだから。」
未紗季はそう言って、穏やかに微笑んだ。
颯也は驚きの連続だった。二年前の二人の間で、そんな会話がされていたなんて……。
でも、ひとつだけどうしても気になった。
「高宮さんの気持ちは?」
「え?」
「佐々木さんのこと、一番好きな人じゃ……なかったんですか?」
彼の問いに、未紗季は静かに微笑んだ。
「さっき、圭吾さんにも同じことを聞かれたよ。」
「え……?」
「そのとき、私はこう答えたの。『今好きな人がいる。その人は私のことをどう思っているかはまだ分からないけど』って。」
颯也の心臓が大きく跳ねる。
「好きな人が……いる?」
喉が詰まるような感覚と、胸の奥で広がる熱。
「その時はまだわからなかったんだけど……でもね、『たった今』その人の気持ちを聞くことができたの。」
未紗季は颯也を真っ直ぐに見つめる。
「たった今……?」
夜の静寂の中、颯也の声がかすかに震えた。
未紗季はまっすぐに彼を見つめ、少しだけ息を吸い込んだ。
「私、佐藤君のことが好きです。」
一瞬、時が止まったようだった。颯也は目を見開いたまま、言葉を失っている。
それでも、ほんの数秒の沈黙のあと……。
「僕も、高宮さん……未紗季さんのことが好きです。」
夜風が静かに吹き抜ける。
「僕と付き合ってください。」
澄んだ瞳が、未紗季を真っ直ぐに捉えていた。
「ありがとう。よろしくお願いします。」




