告げられたのは
未紗季が迷いを抱えたまま迎えた、二月のはじめ。
「……異動?」
圭吾の言葉に、思わず聞き返した。
「うん。アメリカに。」
圭吾は、いつもの落ち着いた表情でそう言った。驚きも、不安も、まるで感じさせず、静かに告げられた。
「向こうで、新しいプロジェクトの立ち上げに関わることになった。正式な辞令はまだだけど、ほぼ決まりだと思う。」
アメリカ———
このタイミングで、それを告げられたということは、もしかして……。
もし「一緒に来てほしい」と言われたら。
(私は、YESと答えられる?)
圭吾となら、きっと幸せになれる。それはわかっている。
でも———
慎二の最後のメッセージが、まだ胸の奥に引っかかっている。
結婚してアメリカについていったら、もう慎二に会うことはなくなるかもしれない。「帰ったら」なんて、叶うことはもうなくなってしまう。
それで、本当に前に進めるのか?未紗季は言葉にできない思いを抱えたまま、圭吾の顔を見つめた。彼は、そんな迷いに気づいているのかいないのか、いつもの穏やかな表情を崩さない。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「未紗季……。」
胸がざわつく。覚悟はしていたつもりだった。圭吾はもう三十歳を超えているし、交際期間も二年近くになる。このタイミングで結婚を意識してもおかしくない。
きっと「一緒に来てほしい」と言われる……。
「アメリカに行くことは、本当に自分にとって正念場だと思う。」
圭吾が、ゆっくりと口を開く。未紗季は黙って耳を傾けていた。
「向こうに行ったら、たぶん、俺は仕事に全力を注ぐと思う。何よりも優先して、がむしゃらに……。」
未紗季はじっと聞いていた。
「だから、未紗季のことは大事にしたい。でも、俺は新しい環境で、仕事のことで頭がいっぱいになって、それを後回しにしてしまうかもしれない。いや、きっとそうなってしまう。」
「……。」
「一緒に来てくれ、とは言えない。そんな俺といても、未紗季を幸せにできる自信がない。」
圭吾はさらに続けた。
「それに、そんな無責任なことを言う俺のことを、待ってほしいとも言えない。何年かかるかもわからない。俺は、アメリカでの仕事に全神経を注ぎたい。」
静かながら、圭吾の言葉には力があった。冗談でも、迷いでもなく、本気でそう思っているんだと伝わる。そして、まさに圭吾らしい考え方だった。
「圭吾さんらしいね。結局、私はどうしたらいい……?」
圭吾は、少しだけ困ったように笑った。
「俺は、未紗季に無理をさせたくない。」
優しい顔をしているのに、どこか寂しそうな瞳。未紗季の意思を尊重してくれているのはわかる。
「待つのか、待たないのか……。」
口にした言葉を、未紗季はゆっくりと噛みしめる。圭吾は何も言わず、ただ未紗季を見つめていた。
「中途半端に時間を過ごすくらいなら……。一度、ここで『別れる』という形をとりましょう。」
「……え?」
未紗季の口から出た言葉は、圭吾にとって、予想外の答えだったようだ。
驚いた顔をする圭吾を見て、未紗季は小さく息を吸った。
「私が『待ってる』って言ったら、圭吾さん、もし向こうで新しい出会いがあったとしても、それが枷になってしまうでしょう?」
「そんなこと……。」
「私は、圭吾さんの枷にはなりたくない。」
静かな空気が流れる。圭吾は、何かを言いたそうに口を開きかけたが、結局言葉を飲み込んだ。
「何年かたって、圭吾さんがアメリカから戻ってきたとき、そのときにお互いに、恋人やパートナーがいなくて、それでもまだ、お互いのことを一番好きだと思えたら……そのときに、またそこから始めましょう。」
しばらく圭吾は絶句していた。圭吾は「未紗季なら待ってくれる」と思っていたのかもしれない。でも未紗季は、ただ何も考えずに待つことはできなかった。
圭吾が言葉を詰まらせている間、未紗季の心の奥底で小さな声が響く。
(これで、慎二を待つこともできるんじゃ……)
ほんのわずかだけど、そんな気持ちがなかったわけじゃない。
「……それが、未紗季の答えなんだな。」
圭吾が、静かに呟く。未紗季は、目をそらさずにうなずいた。
長い沈黙の後、圭吾は小さく息をついた。
「わかった。」
圭吾の声は寂しさがにじんでいた。
こうして、未紗季と圭吾は『別れる』ことになった。
未紗季は最後にきちんと伝えたいと思った。
「今まで、ありがとう。」
圭吾が、少し驚いたように目を見開き、そして寂しそうに微笑んだ。
「ああ。俺も、ありがとう。」
店を出た二人は、それぞれ別の方向へと歩いて行った。
外の空気は冷たいはずなのに、未紗季の心は少しほっとしたような軽い気分だった。悲しくないわけじゃない。この二年近く、好きだと思って付き合ってきたことは嘘ではない。でも、ずっと心の奥に沈んでいた、言葉にならない重たいものが、すっと消えていくような感覚があった。
空を見上げると、夜空に星が瞬いていた。
罪悪感だったのかもしれない。慎二を忘れられないまま、圭吾と一緒にいたことへの。あるいは、慎二を待つこともできず、ただ流されるように時間を過ごしてしまったことへの。
「そっか……。」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰に向けたものでもない。ただ、ようやく自分の心と向き合えた気がした。
夜風が吹く。未紗季は深く息を吸い込んで、ゆっくりと歩き出した。
圭吾のアメリカ行きが決まってからの一ヶ月足らずの間、異動の準備に追われつつも、圭吾はより一層集中して仕事に打ち込んでいるように見えた。
未紗季もまた、それまでと変わらず過ごした。もともと社内では隠しもせず、イチャイチャしていたわけでもなく、適度な距離を保っていた二人だから、周囲の誰も二人の別れには気づいてはいなかった。
そして、圭吾の最後の出社日。
「じゃ、みんな元気で、お世話になりました。行ってきます。」
部内のみんなの前で笑顔を見せる圭吾を、未紗季も颯也や他の社員と同じように笑顔で送り出した。
「ありがとう、さようなら……。」
圭吾のいなくなったオフィスで小さくつぶやいたあと、ゆっくりと息を吐いた。
そして季節は巡り、未紗季にとって、六回目の春がやって来る。




