あこがれの人
六月初旬。圭吾のいるマーケティング推進課に研修を終えた新入社員が配属された。未紗季が研修を担当した佐藤颯也だった。
颯也は背筋を伸ばし、明るい声で挨拶をする。
「今日からお世話になります、佐藤颯也です。よろしくお願いします!」
その視線の先には、新しい上司となる圭吾の姿があった。初めて見る圭吾は、スラッとした体型にシャープな雰囲気をまとい、見るからにエリートという感じ。しかし、目の前に立つと、見下すような高圧的な感じはなく、しっかりとこちらを見ている。
(頼りがいのありそうな上司だな。)
それが、颯真の圭吾に対する第一印象だった。
「佐藤か。今日からよろしくな。」
圭吾は簡潔に言うと、軽く颯也の肩を叩いた。
「はい!早く仕事を覚えて、戦力になれるよう頑張ります。」
「俺が直接指導係となる。まずは業務の流れからだな。最初の一週間はしっかり詰め込むぞ。」
マーケティング推進課の課長補佐として、現場の第一線で活躍する圭吾。その人から直々に指導を受けられると知り、颯也はやる気に満ちた表情を浮かべた。
こうして、颯也の新しい日々が始まった。
颯也は課は違えど、未紗季とはまた同じプロモーション企画部のフロアで働くことになった。席は少し離れており、直接のやり取りは少なかったが、彼女の存在を感じることができる、というくらいの位置取り。
(同じフロアか……なんか、ちょっと嬉しいな。)
一度胸の奥にしまっていた、未紗季に対する淡い気持ちが再び顔を出す。はっきりとした恋愛感情ではない。けれど、未紗季が近くにいることが、ほんのりとした安心感を与えてくれた。
そんな気持ちを抱えながら、颯也は新しい業務に慣れるのに精一杯の日々を送っていた。
颯也がマーケティング推進課に配属されて一週間が経った。最初の一週間は圭吾が基礎を叩き込んだ。とにかく密度の濃い一週間だったが、その分、仕事の流れや課の雰囲気がよくわかり、颯也にとっては充実した期間になった。
そして金曜日の業務終了後。
「佐藤!」
片付けをしていた颯也に、圭吾が声をかける。
「お疲れ。ちょっと飯でも行くか?」
「え、いいんですか?」
「一週間、よく頑張ったからな。たまにはこういうのもいいだろ。」
クールな印象のある圭吾からの誘いに、颯也は少し驚いた。だが、少しでも話せる機会があるのはうれしい。
「ぜひお願いします!」
こうして、二人は会社近くの落ち着いた雰囲気の居酒屋に入った。
圭吾が適当にメニューを選び、颯也もそれに合わせて頼んでいると、店の入り口のほうに視線を向けた圭吾が、軽く手を上げた。
「おう、こっち。」
その方向を見ると……そこには未紗季がいた。
「え?」
颯也は驚きを隠せない。
未紗季は颯也を見て、一瞬「あ!」と驚いたような顔をしたが、すぐに軽く笑って席に着いた。
「こんばんは。」
「え、高宮さん?」
「ん? ああ。」
圭吾は特に意識することもなく、自然に言った。
「まだちゃんと言ってなかったか。彼女と付き合ってるんだ。」
「……そうなんですね。」
颯也は固まった。まるで「今週末は雨らしいぞ」くらいのテンションでサラリと流され、頭が追いつかない。
未紗季は少し照れたように微笑んだ。
「新人研修のときはお世話になりました。」
「こちらこそ、あらためて同じプロモーション企画部の仲間として、よろしくね。」
驚きとともに、颯也の胸の奥にあった淡い感情が静かに消えていくのを感じた。圭吾が相手なら、自分が入り込む余地なんて最初からないのだから。
(すごいな、憧れの先輩女子と、尊敬できる上司……完璧すぎる。)
二人を見て、素直にそう思った。
朱音も自分で企画書を提出できるようになったり、少しは成長がみられるようになった今日この頃。
「やっぱり、未紗季先輩の指導のおかげですよ!」
「いいよ、敬語なんて。同い年なんだし気楽にいこうよ。」
「そう? やっぱり? そうだよねー、未紗季!!」
未紗季は少し気を使って言ったつもりだったのだけど……それ以来、先輩後輩はどこかへいってしまったようだ。
ある日のこと、未紗季はクライアントに提案する企画書の最終段階で、アイディアに詰まっていた。
「うーん……」
唸りながら、もう一度企画書を見返す。
「そんなに悩むなって!」
隣のデスクで作業していた朱音が、未紗季の肩をポンと叩いた。
「それなりに良くできてるじゃん。あんまり細かく考えすぎると、逆に堂々巡りになるよ?」
「それはそうなんだけど。」
未紗季がため息をつくと、そこへタイミングよく川上課長の声が飛んできた。
「瀬戸、さっきの訂正は終わったの?」
「い、今やってます!」
朱音が慌てて向き直ると、課長は呆れたようにため息をついた。
「まったく、高宮にアドバイスしてる場合じゃないでしょ。同い年でもキャリアが違うんだからね。」
「はい……。」
しょんぼりする朱音を横目に、未紗季はそっと笑みをこぼした。
「それから高宮。」
名前を呼ばれ、未紗季はすぐに姿勢を正す。
「はい!」
「午後のクライアント打ち合わせ、あなたがプレゼンするのよね?」
川上課長は未紗季の資料にさっと目を通しながら続けた。
「全体の構成は問題ないけど、もう少しインパクトが欲しいわね。」
「インパクト、ですか?」
「そう。単にデータを並べるだけじゃなくて、相手が『あっ』と思うようなひと押しが必要よ。」
そう言って、課長は未紗季に顔を向けた。
「考えてみて。プレゼンの主役は資料じゃない。あなたの言葉よ。」
(プレゼンの主役は私の言葉……か。)
未紗季は資料を見つめながら、小さく息を吐く。
「相手が『あっ』と思うようなひと押しか……。」
考え込んでいると、いつの間にか、朱音が元気よく背中を叩いていた。
「間違いなく、川上課長から期待されてるよ、未紗季。」
(期待されてる、か……。)
その時ふとあることが心に浮かんだ。
(慎二だったら、こういうとき何て声かけてくれただろ……。)
一瞬だけそんなことが頭をよぎったが、未紗季はすぐ頭を振って、目の前の仕事に集中することにした。
さらに別の日。
「なるほど。つまり、デザイン変更の方向性でクライアントと食い違ってるってことね?」
「はい。もともと話していたイメージと、先方の意向が途中で変わってしまって。」
「そういうことは、往々にしてあるわよ。だけど、クライアントの言葉をそのまま鵜呑みにしないで。本当に求めているものは何か、ちゃんと整理しなさい。」
厳しい言葉。でも、その奥にあるのは未紗季への期待と信頼だ。
その日の夜。仕事終わり、圭吾と一緒に店で夕食を取っているとき、圭吾が未紗季にそれとなくアドバイスを送る
「クライアントに対してではなく、ターゲットの気持ちをもっと具体的に想像してみること。『親しみやすさ』って言われたら、それはどの層に向けての親しみやすさなのか?どういう場面で親しみを感じるのか?」
やはり圭吾は頼もしい存在だ。そして優しい。
(慎二だったら、なんて言ったんだろう。)
またそんなことが、頭をかすめてしまうが、すぐにかき消した。
圭吾のアドバイスのおかげもあり、クライアント対応の件は、無事に進行することができた。未紗季はその経験を通じて、自分の対応力の未熟さを痛感すると同時に、一歩成長できた実感を得る
「そういえば、最近未紗季、なんか雰囲気変わった気がする。」
昼休み、朱音が食堂で、未紗季の向かいの席に座りながら言った。
「え、そう?」
「うん、なんか……落ち着いたっていうか、前より堂々としてる気がする。」
「そりゃ、もう四年目だしね」
「そういうことじゃなくてさ……。」
朱音はニヤッとしながら、未紗季を覗き込む。
「佐々木さん効果なんじゃない?」
「え? 何それ。」
「なんていうか、いい意味で余裕が出たって感じ?」
「そうかな……?」
確かに、圭吾と付き合い始めてから、以前より気持ちが安定しているのは事実だった。忙しい日々の中で、圭吾の存在が支えになっていることは否定できない。ただ、一方で、これが「恋人」としての安定なのかは、正直わからない。
「でも、まあ朱音も成長したよね。」
未紗季は、話題の矛先を朱音に変えた。
「え、なに、いきなり?」
「いや、ほら、後輩もできたし、私にも遠慮なく言ってくるようになったし。」
「確かに後輩ができてからは、仕事に対する意識もちょっと変わったかも。」
それから話題は、川上課長の話に移った。
「それにしても、やっぱりすごいね、川上課長って。『できる女性上司』って感じがするよね。」
「そういえば、川上課長って、去年の秋に育休から復帰してうちの課に来たけど、上の子は小学生で、下の子はまだ一歳だよね。すごいなあ、二人の子育てと課長職の両立なんて。」
「仕事バリバリできるし、厳しいけどちゃんと周りを見てるし、尊敬しちゃうよね。」
あこがれる、尊敬すべき同性の上司、川上課長は未紗季や朱音にとって、そんな存在だ。
昼休みが終わり、未紗季は資料を抱えてブランド戦略課のデスクに戻る途中、颯也の姿を見つけ、声をかけた。
「佐藤君、最近頑張ってるね。」
突然の声に、颯也が顔を上げる。
「え?」
「佐々木さんが言ってたよ。『佐藤、いい感じに成長してきてる』って。」
「え、本当ですか?」
颯也は嬉しそうな笑みを浮かべながら、そしてちょっといたずらっぽく言った。
「僕もしょっちゅう聞かされてますよ。『未紗季はすごいだろ、何と言っても俺の彼女だからな』って。」
未紗季は顔を赤くし、
「へ、変なこと言わないでよ。……じゃ、午後も頑張ってね。」
未紗季は、慌てて自分のデスクへと戻って行った。
「佐藤、最近はどうだ? 仕事には慣れたか?」
「はい! まだまだですけど、少しずつ、できることが増えてきた気がします」
仕事終わりに、こうやって圭吾、颯也、未紗季の三人で居酒屋によるということも少なくない。
「やっぱり佐々木さんはすごい先輩ですよ。仕事できる人って、こういう人なんだろうな、って思います。」
「おお、もっと褒めろ、もっと褒めろ!」
少しお酒の入った圭吾は、きりっとした仕事中のイメージとはまた違い、柔らかい気さくな人間だ。きっとこれが、本来の彼の姿なのだと未紗季は思う。また、颯也のことを後輩としてかわいがっていることも、よく伝わってきた。




