9 エリシュカ
外に出るともうあたりは薄暗がりが支配しており、空からは雪が舞い降り始めていた。
エリシュカの小屋の扉を叩くと反応があった。か細い声で返事をし、扉を開けてくれたのは見覚えのある少女だった。
「あ……あなたは? 昼間、廊下で本を拾ってくれた人……?」
声が異常に小さい。正しく聞き取るために、クランツは腰をかがめる必要があった。べつに顔を見たくて近くに寄ったわけではないのに、彼女はぎょっとしたように身を引き前髪を押さえた。少女は長い前髪で顔を隠しているが、かすかに覗く目元には濃いクマがあり、顔色も蒼白に近く、ひどい痩せぎすの体型で、過度の栄養失調が推察できる。警戒心の強さから神経症に罹っているのかもしれない。クランツは冷静に彼女の状態を観察し、けれどそれには触れず、言うべきことを伝えた。
「クランツといいます。ここにはアルタウロスさんの助言で来ました。あなたがエリシュカさんですか?」
「あぁ、はい、そうです。……長くなりそうですね。入ってください」
予想に反して、エリシュカは素直に部屋に招いて早々にため息をついた。
「なんでもわたしに押し付ければいいとか言われてきたんですか? わたしだって暇じゃないんですけど……」
不明瞭な声で愚痴めいたものをこぼしながら、彼女は乱雑な動作でものが密集した部屋に人が入る隙間を作ろうとしている。
陰気で内気な少女かと思ったが、どうもそれだけではないらしい。またアダム・ベロフの弁を信じるならば、この少女も天才の類らしい。
部屋の中央には浴槽が置かれている。浴槽を満たしているのは、淡い緑色の液体で、なかには肌色をした小さな生き物が浮いている。もともと生きているもののようにはみえない。生き物は背に翼を生やし、長い尾があり表皮は鱗で覆われていた。
「これは何ですか?」
「それは、わたしの研究対象の素体です。わたしが得意な素体魔法。作品名は竜の幼体」
「竜?」
「ずっと高位の精霊です。ふだんは絶壁に穴を掘って群れています。冬の城にたびたび舞い降りるのも目撃されています。研究はあまり進んでいません。それは形だけ再現してみたかっただけ、です」
壁際の棚には脳や臓器の模型が置いてある。
室内は机に積まれた書類、本棚に収まりきらず絨毯に直に置いてある本に埋め尽くされていた。何に使うのかわからない装飾過多な斧、精霊と思わしき骨格の模型も無造作にたてかけられている。壁には七色の草が干されており、異臭がする。
炉で煮込まれているのは大きな鍋。魔女の隠れ家という名が似合いそうだった。
クランツは恐る恐る足を踏み入れて、指さされるままに赤い絨毯がひかれた床へと座る。とんでもない量の埃が目について、寒気がしたが座らないわけにはいかない。
本の隙間で何人かの小人が踊っている。みんな小太りで赤らんだ顔をしている。
肩の力が抜けた。
「実はアダム・ベロフさんの研究室を訪ねろって言われたんですが忙しいって言われて断られて。ドラニカさんのところへも行ってみたんですけど追い出されて」
クランツはそう語り始めて、経緯を一通り話した。
「みんな相手にしてくれなくて、今夜どこで休めばいいのかもわからないです」
「……あーあ。一階に仮眠室があるからそこ使えばいいじゃないですか。案内しますし。ただ……」
そこでクランツの様子に気が付いたエリシュカが、身をのりだしてくる。先ほどはエリシュカ自身が嫌がったはずのその距離の近さに慄くと同時に、空腹だった腹がうずいた。
「あなたはおなか空いてますか?」
「まあ、はい……恥ずかしいですけど」
エリシュカがそのへんの書類の山からパンを見つけて渡してくれる。反射的に受け取ってしまったので、クランツは少しだけかじった。カビっぽいにおいがする。
「思い出しました。あなたは禁忌姫のお供で、魔性の感染を疑われていたのですね。研究材料のクランツ・レンバッハさん」
「なんか研究材料って言われると気分悪いんですよね。しかもみんな厄介事みたいな扱いで」
「まあ魔法局は多忙なので。自分の研究に差しさわりが出るとまずいからあなたみたいなのの出入りは歓迎できないのでしょう。……となると、仮眠室で眠っていたらうっかり解剖台に乗せられていたということもありえるかも……」
「いや、絶対そこまで強硬な人はいないでしょ?」
クランツは笑ったが、エリシュカの表情は硬かった。
「いないと思いますか? わたしに仕事が終わらないから自分自身を増殖してほしいと頼んできた研究者がいるのに?」
「……これからどうしたらいいですか?」
もし外に放り出されたらオデットに笑われる。
帰りたいというのが本音だったが、放逐された以上は殿下に権威が戻るまで国に帰ることはゆるされない。加えて指令もある。
灰色頭は咳払いしてから言った。
「……ここにいていいですよ」
クランツはまばたきをしてきょとんとする。
「この部屋、寝食に使って大丈夫です。わたしが主に使っている部屋は隣なので。鍵もついていますし、一部屋を貸すくらいなら構いません。わたしの発表用の研究はほとんどまとめ終わっています。他の人も自分の研究発表の準備が終わるころには、あなたのことを召喚すると思います」
「ありがとうございます」
「代わりに、わたしの仕事を手伝ってもらいます。あなたを一人にするのはまずいですからね。魔性感染者だし」
腹が鳴った。
エリシュカは真面目な顔でもうひとつパンを差し出した。